十五 寥寞
結局、みこさまに花を届けることはできないままでいた。グワンの助言を受けて、メイに預けようかと思った矢先に出陣することになったからだ。地面の花は何が小便したか大便したか知れたものではないから、せめて木の上とか高いところに咲いているやつにしろという助言も受けていたのだが。花に、なんぞの小便がついているかどうかなんて考えたこともなかった。あの花には素直に心がひかれたから、あまりそんなふうに言ってほしくなかった。でもまだ、みこさまには小便がかかった花すら渡せてはいない。
それにそもそも、花を渡すというのは、ずっと部屋にいたみこさまに季節を届けたくて思いついたことだ。今みこさまは青空の下にいるわけで、そんなことをする必要はなくなった。みこさまはもう、閉じ込められてはいないのだ。やわらかな風と日差しの中にいて、多くの人の前に姿を見せている。黒い旗を振って檄を飛ばし、人々に敬われている。あまりに多くの視線を受けながら、戦場の真ん中にいる。
彼女は、「巫女さま」という生き物ではない。でも視線を注がれているのは、「巫女さま」だけだ。見られているのは、彼女が背負った、あまりにもくっきりとした光を放つ幻だけだ。
いつか、消えてなくなってしまうのではないか。自分の名前も覚えていないと言う、名前を呼ぶこともできない彼女は、輝かしい幻想に飲み込まれて永久に消滅してしまうのではないか。そう思いながら、「天命を受けた巫女」の言葉に震えてしまった。彼女が、神そのもののように見えた。
うしろの眩しいものではなくて、それを背負うひとりの人を見たいと願うのに、何もできない。何かしろと、言われたわけではないのだが。でもきっと、うしろばかり見つめられると意味がわからなくなる。なんのための存在か、わからなくなる。
みこさまの背中は、相変わらずきれいに伸びて威厳を備えていた。一度掴んだことのある肩も、壊れそうな細さを少しも感じさせてはいなかった。それがどうしようもなく、歯がゆい気がした。でもとりあえず今は、護衛としての仕事をまっとうするしかない。戦は始まっている。
***
まだ明るいうちに、ロウゲツ国側があけた砦に到着した。
砦となっている山はひっそりとして、亡国の城のようだった。食料と武器は蔵の中にそのままだったが、その残されたものたちが一層、もの寂しさを際立てていた。みんなで黙りこくっていたところグワンが、すげえ陰気、とのんきそうな声で言ったので空気が緩んだ。気を取り直し、遠くからもわかるような場所に、カファ国の赤い軍旗と黒翅隊の黒い旗を立てた。それでこの砦はカファ国のものになったが、今夜には近くの砦に攻撃を仕掛けるので、あまり休んではいられない。
今、砦の中心らしい建物に入ってみこさまを座らせ、メイがそばについている。男三人は部屋の前で控えていた。その建物は、ウンバン砦の本営にあるものとは違い、開放的だった。正面には壁がなく建物の半分は外と続いていて、戸を隔てて奥半分が部屋になっている。部屋の戸には花や鳥の絵が、繊細な筆遣いで描かれていた。上を見ても、梁がむき出しではなく美しい木目の天井だ。
「巫女さま、長旅お疲れさまでございます」
部屋の中でメイが声をかけているのが耳に入る。みこさまの返事は聞こえなかった。みこさまが喋るのは、本当に必要なときだけらしい。そしてその必要なときとは、神の言葉を伝えて兵士たちを奮い立たせるときなのだろう。だからきっと、ザオが話しかけてもこたえないのだ。何をしているのだとか、何を考えているのだとか、元気なのかとか、そういうのはきっと「天命を受けた巫女」にとって重要なことではない。ソン
三人黙って静かな部屋の前でかしこまっていると、外からシュエが手を振っているのが見えた。どうしたのだろうと思っていると、シュエのそばにいくつか包みを持った
ありがたいのでザオは拱手でこたえ、隣のヘイエに目配せした。先に食べてほしい。グワンもうなずいている。しかしヘイエは、おまえが先に行けと言うように手でシュエのほうを示した。ザオは大きく首を振って見せた。するとヘイエも対抗するように首を振る。今度はグワンが、早く行ってくださいとおおげさな身振りで訴えるが、ヘイエは澄まし顔で首を傾げた。
みこさまの部屋の前で騒ぐわけにはいかない。しばらく無音でやり取りを続けたが進展はなく、三人ほぼ同時にシュエのほうを見た。かくなる上は、
シュエは妙なものを見たという顔で首を傾げていたが、ソン蛹長、ユン蛹士、と口を動かした。なんだか負けたような感じだ。グワンも不服そうな顔をしていたが、ヘイエはにやりと笑っていた。
「あなたがたは何をやっているのですか?」
敗北したふたりでシュエのもとに行くと、心から不思議そうに問われた。グワンがすぐにこたえた。
「リョウ蛹士はわたしたちの大切な兄です。アン蛹士も、あの場にいればわたしたちと同じことをしました。サイ蛹士もそうかと」
ザオは黙って深く同意した。包みを抱えたヨンジェもこくりとうなずく。シュエが目を見張って、ふわりとした笑みをこぼした。
「リョウ蛹士はしあわせ者ですね」
「そう思います」
グワンのなめらかな切り返しに、シュエが笑い声を上げている。
ヘイエは、昔から抜群に武に優れて頭も回る人だったが、農民だったためにじゅうぶんに読み書きができなかった。そんなヘイエをしごき、さらに優秀な蛹士に仕立て上げたのはシュエらしい。感性だけで動くな、学べと叱咤され、非常におっかなかったと、ヘイエが遠い目をして話してくれたのだ。
「大切な兄君のために早く食べなさい」
シュエが言って、ヨンジェが竹皮の包みを差し出してくれた。ウンバン砦で作って、補給部隊の
「ヨンジェもわざわざありがとな」
グワンが笑いかけると、ヨンジェはぴっと背筋を伸ばした。
「いいえ! 手が空いていたので」
ヨンジェは十六で、黒翅隊に入ったばかりだ。メイと同じように、
頬に大きな傷があり、ときどきいじっている。本人は頬を触っているだけなのだろうが、痛そうに見えるので思わず、やめてくれと言ってしまったことがある。すると、顔に傷がある人って強そうじゃないですか、と関係のないことを言ってにやついていた。
「ヨンジェは食ったのか?」
グワンの軽い問いに、ヨンジェは姿勢よくこたえた。
「おれは食いましたっ! あっえっと、わたしはお先にいただきました!」
グワンとシュエが顔を見合わせて笑う。ザオはすんとしていた。いくら微笑ましくたって、ヨンジェはまじめに喋っているのである。飛長がいるので、普段のような口調はよくないかと考えたのだろう。ザオは、そんなヨンジェをまっすぐ見て告げた。
「ヨンジェ、ファン飛長はおっかなくない」
途端にヨンジェが顔を引きつらせ、グワンが口を押さえてそっぽを向く。そしてシュエは、にっこりと微笑みかけてきた。なんだかぞわっとした。
「それは、ほんとにまずいですザオさん」
つい、という感じで口走ったヨンジェは、シュエに微笑を向けられ凍り付いていた。意図せぬ結果だった。
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