十六 秘慄
持ってきた握飯で腹ごしらえを済ませたが、砦では食事を作っているかのように火を焚いた。近くの砦で警戒しているであろうロウゲツ国側に、まだ攻める気はないのだと思わせるためだった。成功したのかどうかはわからないが、相手に目立った動きはない。
もう日は暮れている。砦の下の、木々に囲まれた平地に、およそ千の兵が闇に紛れて集まっていた。これから、三百名ほどが守っているというロウゲツ国側の砦に夜襲をかける。約千名ずつのほかふたつの部隊も、それぞれ砦を攻める。これらを落とせば、国境を乱された相手はかなりの混乱に陥ると思われた。
動きを悟られにくいように、誰も明かりは持っていない。青ざめた月の弱い光が頼りだ。さわさわと、木々が控えめに揺れている。みんな口を閉ざしている。
ザオはみこさまとメイを乗せた馬のそばに立ち、そのときを待っていた。メイの前に座ったみこさまは、黒い旗を持っている。夜よりも深い純粋な黒は、何も気がかりなどないように、ゆったりと揺れていた。多くの人が、旗を頼りにするように見上げている。
もうすぐ合図がある。
ザオは黙って立っていた。今に始まったことではなくいつもどおりだが、何も言わずに待っていた。心は不思議と凪いでいた。熱くも冷たくもない。触れても特に、何も感じない温度だ。
初めての戦かと思われるみこさまには、ここに来るまでに少し声をかけていた。馴れ馴れしく話しかけているところを周囲に見られるのはよろしくないので、控えめにだが。怖い思いをしているかもしれないと思ったのだ。でもみこさまは、静かな表情を動かさなかった。戦が恐ろしいとは、思っていないのだろうか。
ザオはみこさまを見た。手綱を握るメイにうしろから抱えられるようにして、馬にまたがっている。どこか遠くを見つめるその横顔は、沈着だった。霧のようなぼやけた月光が照らし出す姿は、見とれてしまうほど清雅で。見えない、と思う。
そのとき不意に、気づいた。竿を持つみこさまの手が、震えていた。ほとんどわからないくらい細かく、でも竿も一緒に震えていた。手に、竿がねじ切れそうなほどの力が入って、それで震えているのだとわかった。
身体の内に、ずきりと痛みを覚えて顔が歪む。竿を握りしめるみこさまの中にあるのが、恐怖か緊張か怒りか、それともほかの何かなのか、わからない。でもみこさまは、泰然とした態度で心の揺らぎを隠しているような気がした。
気がつけば手を、伸ばしていた。みこさまに触れることはならない。ザオは彼女の顔は見ずに、そっと、竿に触れた。かすかな揺れが、指先に伝わる。竿を握る。一度強く、力を込める。
自分もきつく握ったせいで、竿が震えているのかどうかはもう、わからなくなった。手を離す。みこさまのほうは見なかった。きっと不愉快な思いをさせてしまった。何かが楽になったとも思えない。ほとんど身体が勝手に動いた。
指揮官の合図が見えた。
***
グワンと、ふたりがかりで運んだ人を、やっと地面に横たえた。ロウゲツ国の、青い紋入りの鎧を着ていた。ひどく重たかった。
ふと顔を上げると、遠い空が色をなくしているのが見えた。星も月も、まだ消えない。夜はまだ明けない。でも少しずつ少しずつ、朝の気配が近づいている。
ザオは落とした砦にいた。ロウゲツ国の兵士たちは、突然攻撃した
これからここはカファ国の砦になる。砦を守っていた人たちの一部は、捕まえて砦の牢に入れた。人数がまとまってきたら、カファ国に連行される。
死んだ人たちは敵味方関係なく弔う。だから今は、亡骸の運び出しをしていた。作業をしているのはほとんど黒翅隊の蛹士だ。黒翅隊はほぼ無傷だったし、徴兵された人たちよりは戦場に慣れていた。ところどころで倒れている人たちを、少し広いところに集める。赤黒い血の色が、そこかしこに見えた。
「まあ危なげない勝ちだな」
これから運ぶ亡骸が握っていた刀を、その手から抜き取りながら。グワンが言った。ザオはうなずいた。抵抗されたが思った以上のものではなかったし、終わるまでにさして時間もかからなかった。
「でもさ、やっぱり巫女さますげえな」
ザオは亡骸の頭側を持った。グワンが足を持って、立ち上がる。
「やってやるって気になったもんな」
みこさまは、メイが操る馬に乗って兵士たちとともに砦に乗り込んだ。ザオはグワンとヘイエと一緒に、そのそばにいた。みこさまは黒い旗を振りかざして、玲瓏たる声で檄を飛ばしていた。それを見て逃げ出すロウゲツ兵も見た。
攻月台の兵士たちも、「巫女」が本当に戦いの場にやってくるとは思っていなかったようだ。驚愕の表情でみこさまを見ていた。そのあと、奮い立って戦った。みこさまの声に励まされたのはザオも同じだ。攻め込む前、心の揺れを隠していたみこさまの声に、力付けられた。
今回、夜襲をかけて国境近くの三つの砦を攻め、落としたという結果は、順当だったとも言える。特に不可能なことを成し遂げたわけではない。しかし戦った多くの人が、「巫女」のおかげだと口にしていた。「巫女」のおかげで、十年ほど止まっていた、カファ国の原点回帰のための戦が幸先よく始まった、このまま勝利が続くことは間違いないという空気だ。みこさまも、そう言っていた。これで終わりではない、ここからが始まりだと。
「なんにせよ、とりあえず初戦乗り切ったな、お疲れ」
運んだ亡骸から手を離す。グワンはさっぱりと笑っていた。ザオは小さく笑い返した。
そのときうしろから、馬の蹄の音が聞こえた。振り向くと、みこさまとメイを乗せた馬が坂道をのぼって向かってくるのが見えた。その場にいた生ける人たちが、一斉にひざまずく。
そばのグワンも、膝をついて目を閉じている。ザオは少し遅れて同じ姿勢をとった。目は開けたままで、みこさまを見上げる。旗を手にしたみこさまは、馬の背から地面におり立った。先におりていたメイが言った。
「みなさん顔を上げてください」
ためらいがちな視線が集まると、みこさまはゆっくりと人々を見回した。そして深く、頭を下げた。
静かに動揺が広がる。みこさまは顔を上げ、ひざまずいた人たちに微笑みかけると、メイに向かってうなずいた。メイが馬にひらりと飛び乗ってみこさまを丁重に引き上げた。
ふと、メイがザオのほうを見る。目が合うとメイは不服そうな顔になり、何度もこくこくうなずき始めた。なんだあれ、と眺めていると、メイはあきれたように肩をすくめた。そして馬首を巡らせ、坂道をおりていった。黒い旗が、優雅に揺れていた。戦のあと、みこさまはあちこちを慰労して回っているようだ。
ザオが周りを見ると、みんなまだ頭を下げていた。それを見て、ああなるほど、と納得する。さっきメイは、どうしておまえはこっちを見ている、頭を下げろと無言で訴えていたのだ。確かに、「巫女」に対して失礼なことをしてしまった。神さまに叱られてしまうかもしれない。
「なんか巫女さまかっこよくねえ?」
やっと顔を上げたグワンが、よく通る声で言った。直後、はっとしたように口を押さえる。
「今のはよくないかな」
血で濡れた広場に、控えめに同意するような笑いが広がった。
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