六 告急
もう音はしない。部屋の前まで来てみたが、気配もわからない。何もいないかのように静かだ。みこさまは何をしているのか。ザオは障子戸の前にひざまずき、そっと声をかけた。
「みこさま」
返事はない。無音だ。
「みこさま、大事ございませんか」
さっき聞こえたのは、人が転んだような音だった。
「みこさま?」
すぱん、と内から障子戸が開く。予想外だったが、身体はすぐに反応した。立ち上がり、さりげなく行く手を阻む。
開いた戸の奥に、みこさまは立っていた。その顔を見て、どきりとする。ただならぬ様子だ。黒々とした目はこぼれ落ちそうなほどに見開かれて潤み、目尻は赤く染まっている。頬は強張り、口はかたく引き結ばれ、息をしていないように見えた。戸にかけられた手は、小刻みに震えている。しかしひとまず、驚きは脇に置き、ザオは膝を折ってたずねた。
「いかがなされましたか」
みこさまはザオを見ていない。宙を見つめている。そのまなざしは強く虚ろで、少し、怖くなる。ザオはみこさまを覗き込んだ。
「力を抜いて」
言った瞬間、みこさまの肩がびくりと震えた。身体の芯が揺らぎ、ザオに向かって倒れかかってくる。その身体を受け止めて両肩を支え、少し距離をとる。彼女はくたりと床に座り込んだ。
「みこさま!」
大声を出す。これで誰か来る。ザオはみこさまの肩を静かに揺すった。
「どうなされました、ご気分が」
「──あ、あ」
みこさまの口から、かすかな声が漏れた。
「あ?」
聞き返すと、ゆるゆると首を振る。
「くる」
「苦しい」
ザオの予想を、みこさまは力を振り絞るように否定した。そして突然、腰を浮かせてすがりついてくる。苛烈なほどに光る両の目にとらえられ一瞬、思考が飛ぶ。
「来る」
みこさまは小さく言った。顔を歪め、今度ははっきりと口にする。
「来る。敵が、来る」
「はい」
「東の、砦、アンゲ砦」
「はい……」
「今宵、には」
うしろから足音が聞こえる。ちらりと視線を送り、ウェイゴンとメイと数人の兵士たちだと確認した。
「医者が必要かもしれません」
ザオが言うと、ひとりがすぐさま飛び出していった。
卒爾、ひやりと細いものが首に食い込む。みこさまに両手で掴まれていた。彼女は見開いた目から、ぼろぼろと涙をこぼしている。しかし動じることではない。無言で見つめ返す。訴えかけてくる。
「いらぬ。いらぬ、ゆえ、早く東の砦を」
ザオはその肩を掴んだ。壊れそうだった。
「わかりました」
こたえた途端、みこさまは短く悲鳴を上げた。ザオの首を離して手を振り払う。何かを追うように駆けだそうとする。向かうほうにはメイがいた。メイは顔を曇らせている。戸惑い、ためらっている。ザオは迷わず手を伸ばし、みこさまの腕をとらえた。進もうとする勢いのままに転びかけた身体を支え、メイに視線を走らせる。目が合うと、メイははっとしたようにうなずいた。
「巫女さま、だいじょうぶです」
メイは、ザオから受け取ったみこさまを抱きしめるようにして、落ち着いた声で言い聞かせている。みこさまはその腕から逃れようと暴れながら、叫び声を上げる。
「離せ! やめろ!」
喉が傷つきそうな絶叫だった。
「敵が来る! 今宵アンゲ砦に敵が来る!」
みこさまは血の塊を吐き出すように叫び続ける。
「すぐに知らせろ! アンゲの者に知らせろ! 急げ! 今宵だ、誰も気が付かぬ! われが……っ」
唐突に声が途切れ、身体から力が抜ける。メイがしっかりと支えた。崩れ落ちるみこさまに合わせて座り込み、すぐに楽な姿勢をとらせる。メイにもたれかかったみこさまは、絞り出すように口にする。
「お願い……早く知らせて……」
みこさまはぐったりと目を閉じていた。まぶたのあいだからこぼれる涙は止まらない。
「お願い……」
ザオはメイのそばに座り込んだ。みこさまは力尽きたように動かなくなっている。目が合ったメイは、痛ましげに眉をひそめながら首を傾げた。
これは、何かのお告げなのか。何かがみこさまに乗り移っていたのか。建国時代の巫女は神の声を聞くとき、その人となりが変わってしまっていたという話が伝わっている。
「伝令の支度を頼む」
ウェイゴンが低く命じた。残っていた人たちが我に返ったように動き出し、出て行った。備えることは、ほとんど損失にはならない。
見上げると、ウェイゴンは目を細め厳しい表情をしていた。アンゲ砦は、ロウゲツ国に最も近い砦だ。ロウゲツ国側の砦もそばにある。やろうと思えば、お互いすぐに攻めかかることができる。ここ十年ほど、ロウゲツ国との争いは膠着状態が続いていた。みこさまの言うことが本当なら、ロウゲツ国がその危うい均衡を破ることになる。
「
ウェイゴンがつぶやく。
「ロウゲツ側に、近く戦をする意思があるようだと」
そこへ、砦に詰めている医者がやってきた。薬箱を抱えているが気楽そうな雰囲気に、少しだけ空気が緩む。彼はのほほんとした調子で言った。
「あのぉわたくし、神憑りは専門外なんですけれど」
***
その夜、アンゲ砦は、近くに置かれたロウゲツ国側の砦から急襲を受けた。ひとまず「蠢が情報を掴んだ」として走らせた伝令が間に合い、アンゲ砦は準備を整えロウゲツ国の兵たちを退けた。こちらの迎え撃つ用意ができていたせいでもあるが、相手はあっさりと退却し、その後沈黙している。両軍とも、犠牲が出ていた。
「隊長には報告したんだけどさ。思ってるような間者の線はないね」
本営で顔を合わせたメイが言った。
国境での急な戦いが終わって一夜明けた、今朝早くから、ウンバン砦では戦の準備が本格的に始まっていた。常に備えてはいるが、ロウゲツ国が突然動き出した今、さらに気を引き締める必要があった。追加で徴兵された人々と、戦に必要な物資が砦にやってくることになっている。砦の空気は張り詰めていた。
ロウゲツ国側の意図が不明瞭なのですぐに戦うようなことはない。挑発のような急襲はどことなく気味が悪い。しかしロウゲツ国は近頃、国内が荒れているらしかった。この機会に、
「巫女さまは、嫌な間者とかじゃないよ」
念押しするメイの言葉は、確信めいていた。軽く首を傾け、続きを促す。
「昨日の夜ね、また声が聞こえて暴れ出すかもしれないから、そばにいてくれって言われたの。わたしずっと部屋の中にいてね。巫女さまはすやすや寝てた。敵意なしだよ。わたしのこと全然警戒してない。間者だったらあの無防備さは出せないよ。そもそもそばにいろって言わないでしょ、無意識にいろいろ神経使う人たちだと思うし。あれで間者ならもう、ひれ伏すしかない」
あのあとしばらく自分で動くことができなかったみこさまは、神の声を聞いていたのだと言った。我を忘れてしまっていたらしい。そう話す姿も、厳かでどこか浮世離れしていた。神憑りが専門外の医者は、気持ちが落ち着くようにとみこさまの部屋に香を焚いていた。みこさまのあの瞳に捕まって感謝されたが、お気楽な様子で返事をしていたので、不動の人だと思う。戦場で医者を続けている人は違うのかもしれない。
「ほかには」
「身体をうまく使える人じゃない」
ザオの問いに、メイはすぐにこたえた。
「身のこなしを見てたらわかるんだけどさ、護身術も知らなさそうでね。間者だったら、ちょっとはそういうの身に着けてるはずじゃん。目力だけじゃやれないでしょ、わたしたちみたいな半俗物がいるんだもん」
半俗物。そうかもしれない。「巫女」に心の奥で畏怖を抱きながら、間者の疑いをかけたり利用しようとしたりしている。自分はもっと厄介だと、ザオはちらりと思った。みこさまの中に、ひとりの人間を見出したいと、願っている。
「だからね。間者だとしたらたぶん」
使い捨てだ、とメイは言った。低い声だった。ザオが顔を見ると、メイはにまりと笑っていた。
「たいしたことない、丸め込めるってこと。わたしたちが守ってるんだし、巫女さまが誰でもこっちのもんだよ」
「そうか」
「うん。あとわたしのほうがちょっと、丸め込まれ気味」
ザオは眉間にしわを寄せた。メイは伸びをしながら言う。
「危険だね。あの人は本物の巫女さまだって気がしてさ。こっちで使えるならそのほうがなお好都合……とか考えるのも恐れ多い気がしてきた!」
うん、とひとりでうなずいたメイは、伸ばした手でザオの頭をはたいてから、行ってしまった。
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