三十一 残器

 ザオはうずくまったヨンジェに全部話した。「ソン・リシェン」の亡霊のことも、昨晩グワンから聞いたことも、すべてをぶちまけた。ヨンジェが自分を責め殺すひまがないように、ひたすら喋り続けていた。ヨンジェは床に丸まったまま、ぴくりとも動かずに聞いていた。

「ヨンジェは戦って璧府ヘキフの軍を食い止めてくれた」

 ヨンジェの背中をゆっくりさすりながら言う。もう片方の腕も格子のあいだに無理やり入れて、頭を撫でる。

「ありがとう」

 ヨンジェに届くように二の腕まで突っ込むには格子の間隔が狭くて、手がしびれていた。

「何もヨンジェのせいじゃない」

 そんなことを言っても意味がないのかもしれない。でも言わせてくれないとこっちが壊れてしまう。結局なんのためにもならないなと、ぼんやり思う。

「おれだ」

 おれがちゃんと言えばよかった。

「グワンに、おまえ亡霊に執心してるだけだぞって教えてやれなかったから」

 ヨンジェの手に、ぎゅっと力がこもるのが見えた。

「そんなもん見てない感じだったけど、本当はずっと見てたこと昨日まで知らなかった。教えても聞かなかっただろうけど、言ってたら違ったかもしれない」

 今更だ。

「おれは父親のためにいろいろ考えてるんじゃないってことも、言ってない」

 グワンは、ぼけっと宙を眺めているザオを見て、そのたびに罪悪感に苛まれていたのかもしれない。それなのに涼しげに笑って、目を覚まさせてくれていたのかもしれない。

「おれがグワンのこと追いつめてた。追いつめられてるぞって教えてもやれなかった。ヨンジェは関係ない。おまえじゃなくてもあいつ、かばったよ。そんなだったらおれにしとけばよかったのに。ヨンジェにこんなつらい思いさせて、あいつ馬鹿なんだなぶちのめされるべきだ」

 喉が引きつるような音を漏らして、ヨンジェは嗚咽する。まともに声など出ないだろうに、何か懸命に伝えようとしてくれる。ザオは格子戸に顔を寄せた。ヨンジェはずりずりとうしろに下がってザオの手から離れ、しゃくり上げながら言った。

「そん、なの違います、そんな、間接的、なの、おれ認め、ません」

 ザオは小さく笑った。

「ヨンジェが認める必要ない。事実」

「だめです、ザオさん、は何も、悪く、ないです、そんなこと、ばっかり言ってたら、尊敬、するのやめます」

「何言ってるんだよ」

「だっておれなんです、おれの、せいだから、だけど、もう戻れないから」

 待ってくれと咄嗟に思った。さらに手を伸ばそうとすると、格子戸に鼻をぶつけた。ヨンジェの目が、ぎらりと光るのを見た。

「だったらおれはグワンさんに助けてもらってもよかったやつになります。それで」

 ザオは叫んだ。わけのわからない叫び声を上げて、ヨンジェをさえぎっていた。空になった身体が、燃えていた。

 ヨンジェは、さっきまでの話を聞いていなかったのだろうか。聞いていなかったとしか思えない。ちゃんと聞いていれば、そんな考えに至るわけがない。だいたいなんでそこだけやたらとすらすら喋るのだ。おかしい。どうしてこんなやつばかりなのだ。

 そして、消えてしまった。一瞬で全身を駆け巡った激情は、つぎの瞬間にはふいと、幻のように消えてしまった。もう、何も出すものがない器だけが残されて、静寂が降りた。

 ヨンジェは潤んだ目を見開いてじっとザオを見ていた。ザオは笑い方を思い出しながら顔を動かした。牢の中に入れている手でヨンジェに手招きする。

「来い」

 ヨンジェはすっかり驚いてしまったせいか、素直に近づいてきた。ザオは感覚がなくなってきた腕でヨンジェの頭を抱え込んだ。

「もういらない」

 本当に、もういい。

「あんな厄介なやつみたいなの、もういらない」

 グワンまで亡霊になるのは御免だ。

「グワンさんみたいになりますとか思ってたら、尊敬されるのやめる」

「なん、で」

「思うだけで重罪だぞ」

「それって、おれのこと、知ってるんですか」

「何も知らない。わからない。でもヨンジェはヨンジェでしかない」

「ひどい、ですよ」

「ひどいよ」

 ザオがうなずくと、ヨンジェは少しの間のあとつぶやいた。

「ザオさんのこと、尊敬できなくなるのは、嫌です」

「そうだろうな」

「でも、グワンさんだって、あんな人、あんなかっこいい人いないよ……」

 ヨンジェの肩が震え出した。ザオは何度もその肩を叩いた。途中で、ザオの馬鹿でかい叫びとか、滞在時間の長さとかをいろいろと不審に思ったらしい牢屋番が入ってきたが、問題ないと伝えた。その人が信用してくれたので、しばらくそのままヨンジェのそばにいた。




***




 牢屋を出て、ちゃんと地面を歩いてみこさまのもとに戻った。戸の前に控えていたメイは、ザオをみとめるなり不満げな顔をした。

「どこ行ってたの。あんたもお務め放棄じゃん。斬ろうか?」

 刀に手をかけてにやりと笑う。ザオはメイの隣に腰を下ろしながらこたえた。

「いい。自分でできる」

 メイが息をのむのがわかった。

「変なこと言わないでよ。ごめん、わたしが悪かったよ」

 メイは膝に取りすがってきそうな勢いで言う。もう聞いているらしい。ザオはメイに頭を下げた。

「いやおれが悪かった。すまん」

「なんだよ……。どいつもこいつもろくなのがいねえ」

 メイはわざとらしく吐き捨てた。

 そのあとは、黙った。メイは何も言わず、ザオも何も言わず、みこさまも何も、音を出さなかった。身体がやけに、軽いように思った。地面に引っ付いておくのも、やっとのような気がしていた。

「あのさ」

 突然、メイが声を発した。あまり驚くこともなく、ザオはただうなずいた。メイは下を向いたまま喋った。

「あの、シュエさ、じゃなくてファン飛長ヒチョウが来てくださって、いろいろ教えてくれた。ザオも聞いたよね」

「聞いてる」

「今は黒翅隊コクシタイのみんなは休んでるよ。ヘイエさんも」

「うん」

「変だよね、急に味方同士で戦うとかどうしちゃったんだろうね。ロウゲツ国ってそんなに荒れてたのかな。そこまでとは思ってなかった。よね?」

「そうだな」

 再び沈黙が流れた。メイは、奇襲については何も言わなかった。みこさまが聞いているかもしれないからだろう。


 ヨンジェは、奇襲を告げてくれなかったみこさまは嘘をついていたんだと叫んでいた。それは、グワンのことでどうしようもない心持ちだったせいでもあるのだろうが、本当にそうなのかもしれない。みこさまは最初に案じていたとおりにロウゲツ国の間者で、今までの勝利は攻月台コウゲツダイを油断させるためのものだったのかもしれない。国内に誘い込み、慢心させ、一気に攻めるという作戦だったのかもしれない。

 でもそれなら、璧府とシャ・ジュンが同士討ちをした理由がわからない。それに攻月台全体としての被害は少ないとも言え、後詰めも向かってきているのだからロウゲツ国にとって状況が改善しているとも思えない。敵を少し後退させただけだ。それでも、「巫女」への不信感が生まれたことは確かだった。ザオはこの状況をどうとらえればいいのか決めかねていた。

 というよりは、正直なところ、それどころではなかった。それが、攻月台としてはいちばん重要なはずなのだが。ひどく疲れていた。一生懸命何かを考えたわけでも、戦ったわけでもないのに疲労困憊という感じで、なんだか笑えてきてしまう。

 頭と体が焼き切れそうな状態で、内側には何もなくなってしまっていて、ヨンジェのこともみこさまのことも、ヘイエとメイと、黒翅隊と、いろいろなことに心を配りたいのにうまくできない。配るものがもうない。こんなのではだめなのに、これからまた何が起こるかわからないのに。


 ヨンジェは泣き止んだあと、ぐったりと格子戸にもたれかかっていた。ヨンジェこそ疲れ切っているはずなのだからあたりまえだった。そんなヨンジェを放っておけずに、かと言って何もできずにただ見守っていた。するとヨンジェが不意に言った。

『あの巫女のこと、もう、信じちゃだめです』

 ザオは思わず、ヨンジェの手を掴んでいた。ヨンジェは苦労しながらザオに焦点を合わせた。

『サイって、本当の姓じゃないんです。ほんとの姓じゃ黒翅隊にも、入れないので』

 ヨンジェはふっと自嘲するように笑った。

『グワンさんのことだけ、考えてるんじゃないです。こんなの糞野郎だ』

 自分は十年前のカファ国で、神を冒涜したとして処刑された神学者の息子だと、ヨンジェは言った。


「あのさ」

 メイが再び、いきなり声を発した。

「うん」

 こたえて隣を見る。痛む。空っぽの器の内側にこびりついていた、残滓みたいなものが、脈打つように痛む。座って少し下を向いたメイの目から、涙がこぼれていた。

「シュエさまね、また怒ってたの。第一蛹ダイイチヨウのくせに残るとか、上官をなめ腐ってるんだって、あれはめちゃくちゃ怒ってた」

 ふふ、と含み笑いを漏らすメイは、自分が泣いていることに気づいているのだろうか。

「ねえ、あいつほんとになめ腐ってるよね」

 ささやくように小さな声で、そう言った。その目は何か遠くにある、はかなくて、どうしようもなくきれいなものを見つめていた。ぽたりと手の甲に落ちた雫に、穏やかな表情が揺れる。ひどく戸惑ったように、まばたきしている。ザオは膝を寄せてメイの肩に腕を回した。

「触んなよ……」

 目元をぞんざいに拭いながら、メイがつぶやく。

「ごめん」

「浸らせようとすんな」

「うん」

「だいじょうぶだからさ」

 メイは顔を上げた。潤んだだけの目で、にまりと笑っていた。

「いろいろあるのはあたりまえだ。ほれ、そこ座れ」

 ザオがもといた場所をゆびさして言う。黙ってそれに従うことしか、できなかった。

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