三十二 訣心

 薄く目が開いて、自分が目を閉じていたことに気づいた。ここはどこだ今はいつだと、ぼんやりした頭で理解しようとしてうまくできない。寝ていたらしい。眩しい。視界が白い。その向こうに何かが見える気がして、手を伸ばす。

「あっ、おはよう?」

 そばで声がして、一気に目が覚めた。少し離れたところに座って、こちらをのぞいているのはメイだった。みこさまの部屋の前だ。開いた窓から青い空が見える。明るかった。ザオは寄りかかっていた壁から背中を離した。何やら首が痛い。ごりごりと回す。痛い。姿勢が悪かったようだ。

「寝違えたの?」

 メイが笑っている。ザオは返事の代わりにごきごきと首を振った。

 奇襲から一夜明けていた。昨日の夜はメイとふたりで、交代で仮眠をとりながらみこさまを守った。ヘイエも含め、黒翅隊コクシタイは負傷者も多く休息が必要だった。攻月台コウゲツダイの一般兵はもちろん指揮官にでも、「巫女」の護衛を任せることは控えるというのがウェイゴンの方針だ。「巫女」は黒の御旗のもとにあるというわけである。「巫女」への信頼が揺らいだ奇襲のあとはなおさらだった。何もはっきりしたことはわからないのに、誰かが「巫女」に危害を加えようとする可能性も考えられた。

「まだ寝ててもいいよ」

 メイの気遣いに、ザオは少し笑ってこたえた。

「ありがとう。もうじゅうぶんだ」

 メイがおおげさに目をむく。

「わあ。寝ぼけてるのかなこの人、笑顔でお礼言っちゃって」

 大変失礼だと思う。眉を寄せると、メイは口を大きく開けて上を向き、声を出さずに笑った。器用だ。しかし突然笑うのをやめて立ち上がった。

「朝餉もらってくるね」

「頼む」

「今日はたぶんヘイエさんも来られるよ」

 ザオはうなずいた。メイは軽やかな足取りで行ってしまった。いつものように朗らかだ。無理をしている様子もなく自然だった。だからこそ、心配だ。

 そうは言っても、いつまでもメイの行った方向を眺めていても仕方がない。ザオは立ち上がり大きく伸びをした。一晩明かしたので、何か新しい情報が入ってきたかもしれない。奇襲を受けたということが、カファ国にも伝わっただろう。相手に何か動きがあったり、本国から何かしらの指示があったりしてもおかしくない。後詰めも、もうすぐそばまで来ているはずだ。

 少し寝たことで頭がやや軽くなっていた。首は痛いが大きな問題ではない。ザオはみこさまの部屋の前にひざまずいた。昨日は結局、何も声をかけられずに終わった。今は意識がくっきりしているので、話せそうだ。一方的にだが。

「みこさま、おはようございます。今日もよく晴れています」

 返事はない。そうだよなと納得して、ふと思った。もしかしてまだ寝ていただろうか。起きているかもわからない人に対して、朝っぱらから話しかけるとは何事だ。それに気が付いたが遅い。もう声をかけてしまっている。進むか退くかと思案に入ろうとしたときだった。中からすっと、戸が開いた。

 戸に手をかけたみこさまが、そこに座っていた。それはあたりまえだが、ザオはあっけに取られて固まった。目が合う前だった。みこさまは床に手をついて、ザオに頭を下げた。

「あっ、みこさま?」

 ひっくり返った声が飛び出す。いったいどうしたのか。個人的にこんなことをされるのは初めてだ。

「いかがなされましたか」

 顔を上げないみこさまにたずねるが、白い衣の背中を丸めたまま動こうとしない。ザオはほとんど途方に暮れてみこさまを見つめた。頭を下げた姿勢でも、どこか凛としている。でも今はなぜか、ひどく頼りなくも見えた。

 責任を感じているのだろうかと、ふと思う。それは昨日から頭にあったが、よく考える余裕がなかったことだった。奇襲を伝えられず、そのことでみこさまを見る目が少し変わった。おまえのせいだとも、言われてしまったのだ。苦しい思いをしているのかもしれない。

「みこさま」

 ザオはなるべくやわらかく呼んだ。みこさまは、嘘をついているのかもしれないということはわかっている。間者なのかもしれない、今も演技をしているのかもしれない。でも、天命を受けた巫女だろうが間者だろうが、あのときふわりと表情を緩めたひとりの少女が、ここにいることは間違いない。今は何もわからない。それでもどこか不安な気持ちをこらえているようなこの人を、このままにしておきたくなかった。

「もし」

 あなたが、「巫女さま」でも「嘘つき」でも。

 ザオは言葉を飲み込んだ。

 だったら、なんだ。どうするのか。何ができるのか。そんなことを言ってもいいのか。言える立場か、言えるような者なのか。

 違う。だめだ。もし仮に、間者だったなどということがわかれば、一生自由にはなれない。命を奪われるかもしれない。そのとき、ザオには何もできない。黒翅隊の、攻月台の、カファ国の一員だから、それらに仇なす者は敵だ。

 それに。

 何もできない。何もわからない。いったい誰なのかも、名前すらもわからない状態でも、ひとりの人間として見つめることはできるとか、そうしていればいつかその人のことがわかるとか、思っていたのだろうが。

 見えるわけがない。わかるわけがない。この人に対してできることは、何もない。

「もし、かして」

 間の抜けた声が出た。

「アン蛹士ヨウシにご用がおありですか。もうすぐ」

 足音がしたので見ると、盆を手にしたメイが顔を引きつらせて立っていた。目が合うとメイは、なんだどういう状況だ、返答によってはただではおかぬという感じの表情をする。困る。ザオにも、どうしてずっと頭を下げられているのかわからないのだ。

 ふと衣擦れの音がして、みこさまがメイのほうを向いた。あわてたように姿勢を低くするメイにも、みこさまは深く頭を下げた。

「わあっ巫女さまどうして? お顔をお上げくださいっ」

 みこさまがメイの頼みを聞いてくれなかったので、メイは混乱して盆を取り落としかけた。ザオがそれを華麗にさらったが、メイはなぜか怖い顔で迫ってきてザオも手を滑らせかけた。そうしていると、みこさまはやっと顔を上げた。

「えっと、朝餉をお持ちしました! お召し上がりください!」

 ほっとした様子のメイが、湯気の立つ器が三つ載った盆をザオから奪って差し出す。みこさまはそれを見て、静かに微笑んだ。

「ありがとうございます」

「えっ……はいっ」

「これをいただいたら、隊長どののところへ行きたいのです。よいでしょうか」

 メイが言葉を失ってこちらを見る気配がしたが、ザオはみこさまから目が離せなかった。背筋はぴんと伸びて、指先まで意識が行き届いているような、美しい佇まいだ。控えめに浮かべられた笑みは、いつものように清らかだった。でも。ちらりと揺らめいては消える魚影のように、掴めないが確かに存在する何かを、その中に感じた。感じるだけで、その正体はわからない、何もできない。

「かしこまりました。みこさまはこちらでお待ちください。隊長を呼んでまいります」

 ザオはただそう言った。みこさまは、きれいに笑みを浮かべたままうなずいた。

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