八   赫女

 結局みこさまにこたえてもらえないままヘイエと交代すると、何やら空気がざらついていた。何かあったのかと聞くと、ロウゲツ国側から文が届いたのだというこたえが返ってきた。急にアンゲ砦に攻め込んだのは正式な命令を経ない現場の勝手な行為であった、関わった者たちを厳罰に処すので、どうかご容赦願えないか、という内容だったらしい。カファ国との国境である、コウ州の軍事を統括する将軍の名前で送られてきたようだ。なんだそのていたらくは、と言っているうちに、続報が入った。アンゲ砦攻めを行った者たちを、コウ州の中心地に連行したうえで全員、処刑してしまったらしい。みんな殺されたロウゲツ国側の砦はもう、空だということになる。ロウゲツ国側は、身を切って戦の意思がないことを示してきたのだ。

 ならば今は、もう責め立てることはできないと判断された。それが、三日前のことだ。

 ザオは、過激な処断に衝撃を受けると同時にどこかうすら寒さを感じていた。確かに砦は空のようだが、やりすぎのようにも思える。相手は三十年来の宿敵だというのに、低姿勢がすぎるのではないか。何かの罠かと、みんな勘ぐっていた。考えすぎかもしれないが。

 一方で、ロウゲツ国に攻め込むなら、醜態をさらした今だという声も上がっている。カファ国を導くと言うみこさまが現れた影響も大きいだろう。

 みこさまの護衛は続いている。ザオは、人間なのだから暇であろうと思い、この三日で何度か話しかけていた。しかしこたえてくれたことはなかった。もしかして神に、このような不届き者ごときにこたえてはならぬとか命じられているのだろうか。グワンとヘイエは、そもそも話しかけないらしい。メイも、ろくに話したことがないし話しかけられないと言っていた。それを聞くと少し、苦しくなる。


 ザオは座り込み、かまどの火を眺めていた。身をくねらせて何か、叫んでいる。でも、黙って耳を傾けても、ぱちぱちと火の粉が散る音しか、聞こえない。あとは、話し声に笑い声、くしゃみする音、足音、湯の沸く音、木製の食器がぶつかる音がしているくらいだ。兵舎での食事の用意は、交代ですることになっている。

 視線を感じてふと顔を上げると、入り口のそばでヘイエがこちらを見ていた。ザオは立ち上がり、さりげなくその場を離れた。ヘイエが外に出て門のほうへ歩いていくので、それに続く。影に沈んだ門のそばで、ヘイエは立ち止まった。

「お疲れさまですヘイエさん」

 ザオは頭を下げた。夜にみこさまのそばにいるメイと交代して、ヘイエが戻ってくる時間だった。ヘイエはありがとうとうなずくと、穏やかな調子で切り出した。

「巫女どのが、神の声をお聞きになったよ」

 思わず、え、と声が漏れる。また、叫んで暴れ回ったのだろうか。

「なんとおっしゃっていたのですか」

 たずねると、ヘイエは腕を組んで困ったような顔をした。

「ミンドゥの砦で火事が起こるらしい」

「火事」

「うん。敵ではないらしいけどな」

 ザオは振り返った。ミンドゥ砦がある方向だ。兵舎と櫓が見えるだけで、砦まで見通すことはできない。ぬるい薄闇の中で、かがり火がただ明々と燃えている。

 その砦があるのは、九年前にカファ国が取ったばかりの土地だった。それまでは、ロウゲツ国の一部だったのだ。ずっと昔、カファ国が半島全体を支配していた時代は、カファ国のものだったが。

「また伝令を遣わしたのですか」

「うん、火事を止めることはできないけど、ほかの砦が敵襲だって混乱しないように、早めに知らせろって」

 そのときだった。櫓の上から、大声が降ってきた。すぐには何を言っているのかわからず、何度目かでようやく聞き取る。燃えてるぞ、と叫んでいた。ザオは振り返った。ぬるい薄闇の中で、かがり火がただ明々と燃えている。

 兵舎の中から兵士たちが飛び出してくる。武器を手にしている。櫓の上の見張り番が下に向かって、本営に報告だと怒鳴っている。ミンドゥのあたりが燃えてる、と。了解です、敵襲か、何が燃えてるんだ、どこだ、何があった。声が、せめぎ合っている。

「おぉい落ち着けてめぇらぁ!」

 鐘を鳴らすように、ひとりの声が豪快に響き渡った。

「なんか知らんがよぉ、騒いだら敵の思うつぼかもしれねぇぞぉ」

 黒翅隊コクシタイの最古参である、第一羽長ダイイチウチョウだった。兵舎から巨躯をちらりとのぞかせている。

「でも羽長!」

「とりあえず黙れうるせぇ」

「燃えてるのにですかっ?」

「そうだ」

 鋭い声が、地面に突き刺さった。門をくぐって入ってきたのはシュエだった。シュエはこの兵営の監督者でもある。颯爽とかがり火の前を横切る刹那、まとった鎧に走る無数の傷が、血のように赤く光るのが見えた。彼女はぴたりと立ち止まり、一瞬で静まり返った周囲を見回して告げた。

「ガン羽長の言うとおりです。鎮まりなさい。ミンドゥ砦が燃えることについては、すでに承知しています。そして敵襲などではありません。大きいが失火です。騒ぐのではない」

 厳然としながらも、さきほどよりはいくぶん丸みのある声が、散らかった空気をなだめる。

「燃えることをすでにご存知とは、いかなることで」

 落ち着いた様子でひとりが問うた。「燃えている」ことを知っている、ではなく、「燃える」ことを知っているというシュエの言葉に、違和感を覚えたのだろう。その指摘にシュエはうなずき、かみしめるようにこたえた。

「巫女さまです」

 ザオは目を見張った。

「巫女さまが天なる神の言葉を聞き、お知らせくださいました。われらが混乱に陥らぬように」

 静けさが一段、克明になる。シュエは平淡に語った。

「みな知っていますね。先日アンゲ砦が攻撃されましたが、それをお知らせくださったのも巫女さまです。すぐに伝令が走り事前に襲撃を伝えました。巫女さまがおられなければ、犠牲はさらに多かったことでしょう」

 あたたかな風がふうと吹いた。巫女さま、と誰かがつぶやいた。




***




 この兵営だけではなく、ほかの場所でも同じようなことが行われたのか、ウンバン砦はすっかり平静に戻った。戻ったというより、厳粛さが加わったようでさえある。

「ファン飛長ヒチョウ

 門から出て行こうとしたシュエを、ヘイエが呼び止めた。シュエは足を止め、ふわりと口元を緩めた。

「どうしました、そのように暗いところで。陰鬱な気分に浸りたいお年頃ですか?」

 言い方によってはかなり手酷く感じそうだが、シュエの口調にはどこか親しみがある。ヘイエがゆったりとこたえた。

「そうですね、そうかもしれません」

「それはそれは」

「どうなっているのですか」

 ザオは思わず、割り込むようにしてたずねた。ふたりは大人の余裕をかましているようだが、青二才はいまいち飲み込めない。もう、「巫女」の加護を前面に押し出すことにしたのだろうか。

「巫女さまが再び神の声をお聞きになったとは、聞いていますか?」

 ヘイエをちらりと見ながらたずねるシュエに、はいとうなずく。するとシュエは、かすかな笑みを浮かべながら言った。

「アンゲのこともあり、みな神経を逆撫でされているでしょう。火の手が上がれば混乱が広がります。今、兵を動揺させるのはなるべく避けたいことです。ほかの砦に、敵襲ではないと伝える使いを走らせました。到着するのは、火事が起こったあとになるでしょうが。もし起こらなければ、そのまま帰ってくるよう命じていました。実際起こりましたが、使いが到着次第、落ち着くでしょう」

「では飛長も」

「そうですね。もしも本当に火が上がれば、混乱を鎮めねばならないのでそばで待機していました。出番まで待機ってなんだか子供じみていますけれど。火が上がらなければ、何も起こらなかったということでそのまま退散でしたが」

 みこさまの言うことを信じて、事前に伝える判断はしなかったということだ。しかし、その言葉が本当になって混乱が起これば、「巫女」の名前を出すことにしていた。兵士たちを落ち着かせるのに、効果的な方法はそれだろう。ザオは覚えず、飛長の姿をぼんやり眺めていた。半身が闇に浸された様子は、謎めいた艶を感じさせる。

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