翅を負う
相宮祐紀
彷徨希求
一 黒翅
ふわり、ひらりふわり。ささやくように吹く風に、舞っている。しっとりとぬるい日差しと、戯れている。それは蝶だった。黒い、黒い蝶だった。
すぐにでも触れられそうなほど、そばにいて。早く捕まえてよと、誘っているようで。けれども手を、伸ばせない。それは、黒い蝶だった。
黒い、蝶。
ふと、込み上げるように去来する記憶よりも。突然に、夜半を襲う悪夢よりも。目の前に横たわる、道のその先よりも。濃密な色のその翅で、かろやかに楽しげに飛んでいる。
天命。
眩暈がするほどの轟音は、人々の雄叫びだった。空と地面が震えて逆転して混ざり合ってしまったみたいだった。魅入られそうな粘度に浸された刃が、ぬらりとつやめいて。凍った風が大波のように、背後から押し寄せる。
目指すのは、鈍く光る敵陣。そうしなければ即刻絶命するかのように、ただひたすらに猛進する。敵兵たちのまとう鎧が、魚の鱗のように見える。近づいていく。ああ、何をしてももう遅い。止まらない。父を慕った、父が遺した人々は熱の塊となって、ちらちらと光る敵陣になだれ込む。
そんなことしかできなくなったみたいに、斬り裂いて刺し貫いて引きちぎって叩き潰して。斬り裂かれて刺し貫かれて引きちぎられて叩き潰されて。そのあいだ、幾度も幾度も。何人もの人に。抱きつかれた。体当たりされた。押さえつけられた。その人たちの一部が飛んで視界があまりにも鮮やかに、染められた。
かばわれた。何人もの人に。その理由は、とても単純なもので。
鼻先を、黒い翅がかすめる。こっくりとした闇に塗りたくられているくせに、蝶にはなんの憂いもなさそうで。からかうように目の前を横切ったあと、ふわふわと遠ざかっていく。その行く先を追う。どこへ行くのだろう、どこへ。
どこへ行けば、いいのだろう。
「おいザオ!」
突如脳天殴るように呼ばれ、肩が跳ねる。黒い翅しか見えない世界に、活気のある喧騒が、戻ってくる。ザオはゆるりと視線を下に向けた。櫓の下から声の主がこちらを見上げている。黒色の鎧に身を固めた長身の男だ。何やらやたらと涼やかな笑みを浮かべて、木刀を振っている。その足元には、黒や銀の鎧を着た十人ほどが思い思いの姿勢で転がっていた。ついでに彼らが使っていたであろう真剣も、力なくその辺に落ちている。倒れた人たちは、うええ、とかげえ、とか、やっぱり化け物級だこいつ無理、とかなんとかうめいていた。またやってたのか。
ザオがいる櫓の上でも、ねえ見てました、やっぱりすごいなグワンのやつかっけぇと、見張り仲間が盛り上がっている。まったく見ていなかったが、ザオはとりあえずうなずいた。多勢を木刀で圧倒したらしい化け物級男は、まだにこにこしながらこちらを見ている。ザオは首を傾けてたずねた。
「どうした」
どうしたじゃねえよそれはこっちが聞きてえよ、とグワンはすっかりあきれたふうに言って肩をすくめる。その芝居がかった動作のあと、仕方ないなというようにふっと笑みを浮かべた。
「何ぼけっとしてんの」
「ああ……すまん」
「すまんじゃねえの。眠いんなら相手するぞ」
「遠慮する」
ザオが目をそらすと、下からも横からもわいわいと声が上がった。
「ひどい! 仇討ってくれよ!」
「こいつぼこぼこにしてくれ!」
「やってよ見たい!」
「おれの刀使ってください!」
いろいろなぜ。ザオは首を振った。
「今見張りをしてる」
「ぼやっとしてたくせに。そんなだったらこっち来いよな」
からかうように言ったグワンが、伸びた敗者たちに手を差し出して起こし始める。みんなおとなしくグワンに引っ張り上げられ始め、櫓の上の面々も笑いながら定位置に戻っていった。
下にいるやつらは休憩中のはずだ。見張りと訓練とその他諸々の指令でなかなか忙しいのに、つかの間の休みにも刀を振り回すなんて、大変壮健なことである。
腕の立つグワンに多人数が挑みかかり、軽くあしらわれるというのは、いつものことだった。挑みかかると言っても、ほとんどグワンが煽ってかかってこさせているのだが。ザオはそれには加わらず、櫓の上でぼけっと見張りの続きをしていた。調和の精神に欠けている自覚はあるが、今に始まったことではない。それにしてもグワンは、真剣とやり合っていたくせにこちらを見ていたのだろうか。ぼんやりしていたことに気づかれていた。器用なやつだ。ザオは視線を前に据えた。山頂にある櫓の上からは、見えるものが多い。
山のふもとから続く平野には、小島のように山が点在し、小蛇のように川がうねる。なだらかで水場も備えた土地だが、そこに人の営みの気配はない。それでも、やわらかな風が吹き始めるこの季節らしく、ところどころにささやかな花の色が見えていた。
遠くに目を移していくと、山々の間隔が少し狭くなるのがわかる。屏風を、わざと隙間をあけて並べているみたいだ。その向こうを見せようか、見せまいかと迷って楽しんでいるようだ。思わせぶりな屏風の奥、ひときわ高いあの山の上にも、こちらを見つめる物見の兵がいるのだろう。こちらとて睨みをきかせておかなければならない。ザオはじっと、遠く高い山の頂上を見つめた。
このカファ国の、宿敵である隣国、ロウゲツ国。あの堂々たる山は今、かの国のものだ。
カファ国とロウゲツ国とは何度も戦を繰り返し、もう三十年になる。いまだ曖昧な国境近くには砦が多く築かれ、ときを分かたず睨み合っている。今ザオがいる物見櫓を備えた砦は、そのうちのひとつだ。ロウゲツ国とは、ここ十年ほどは大きな争いを起こしていない。しかし平穏が訪れているわけでは、決してない。ここは戦場だ。
「伝令!」
下から大きな声がする。ひとりの兵士が櫓に駆け寄ってくるのが見えた。
「はい、なんだ?」
グワンがすぐに歩み寄った。伝言を預かってきたらしいその人は、折り目正しく通告した。
「本営より伝令であります!」
「うん、ありがとうございます」
「
ザオはグワンを見た。ほぼ同時に見上げてきたグワンと目が合う。グワンはひょいと眉を跳ね上げた。なんだか知らないが呼び出されたらしい。櫓の下が騒がしくなる。
「巫女さまのことか?」
「ここに来るかもっていう?」
「本営に第一蛹が呼び出しだからな」
「大事な話だね」
「巫女さまのことだな」
静粛に、と伝令の人が一喝した。
「そのような噂は慎むべきだ!」
「でも、気になるだろ」
「巫女さまだよ」
「気にならないことはないが!」
「気になるんじゃん」
「いやいや」
グワンが気の抜けた大声を出して、騒ぎがすっと静まる。
「説教かもしれないし」
グワンがいたずらっぽくにやりとすると、笑い声が上がった。ザオは櫓に残る人たちに送り出され、梯子をおりた。ザオが上陸したのを見届けて、グワンは言う。
「じゃ、行ってきます。ありがとう」
すれ違いざま、伝令さんの肩をぽんと叩いた。
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