三十五 陥月
その日の夕刻、うら寂しい風が吹いていた。夕焼けの薄紅が窓から見える。じわりとにじむように空に広がるその色を眺めて、ザオはひとりで部屋の前に座っている。
二日もすれば大神殿の迎えが到着すると思われた。後詰めはそれよりも先に合流できるはずだから、
ロウゲツ国は落ちる。
「巫女」などいなくても滅ぶ。
カファ国は大きくなる。
どうせいつかは、なんだかんだと理由をつけてシュヌエン国も征服する。
半島を再び統一して偉大な国となるのだ。
「巫女」などはおまけに過ぎなかった。
本物だろうが偽物だろうが、どちらでもいい。
「巫女」が現れなくても、アンゲ砦が襲撃されたのだからいずれ戦にはなっていた。
「巫女」がいなくても、半島から手を引いたエンヨウ帝国に見捨てられ、信頼のおける人物であるはずの将軍にすら裏切られて、戦のさなかに国内で殺し合いをする国などいずれ滅ぼしていた。
間者だろうが嘘つきだろうが、なんでもいい。
どうせ、一瞬の奇襲を可能にして、精鋭部隊にいくらかの打撃を与えることくらいしかできない。今のロウゲツ国はそんなものなのだ。
「巫女」などいなくてもいい。
そうだ。
大神殿にでもどこにでも行けばいい。
ふと思う。
これから「巫女」は、飛び去っていくのかもしれない。
建国時代の巫女も、戦がすべて終わる前にいなくなった。
黒い蝶になって飛び去った。
そうか、そういうものなのかもしれない。
大神殿は、そこまで考えていたりするのだろうか。それなら偽物と騒ぎ立てるなどしないか。でも攻月台の人たちは、そう考えてもおかしくはない。
完璧な「巫女」だな、と笑えた。
完全無欠の「巫女さま」だ。
本当に黒い蝶にでも、なるのかもしれない。
「ソン
背後から聞こえた。
とりとめのない思考が立ち消える。
みこさまの声だった。すぐに動けず返事ができず、ザオは間抜けに固まった。
「ソン蛹長」
戸の向こうから、みこさまがもう一度呼ぶ。凛とした、静かな声は変わらない。ウンバン砦で会ったころにしつこく話しかけていたときと同じで、平らで感情を読み取れない。でも今は、こちらは何も、言っていないのに。
「はい、みこさま」
ザオはやっと戸のほうを向いた。何かあったのかもしれない。
「いかがなされました、大事ございませぬか」
少し間があって、みこさまはこたえた。
「何事もありません」
「さようですか、安堵いたしました」
「ソン蛹長に、お聞きしたいことがあります」
身がすくむような感覚があった。どうして今、そんなことを言うのか。どうして、今まで何もこたえなかったのに突然話しかけてくるのか。しかし黙りこくってはいられないから、言葉を返す。
「はい、なんなりと」
するりと、衣が床を滑るような音がした。
「あなたは、どうして」
そう言ったみこさまが口をつぐみ、静かになる。
戸とのあいだに風がゆるゆると流れた。遠くで人々の声が聞こえた。
ザオは目の前の戸に釘付けになっていた。
「は、い」
空白に耐えられず挟み込んだ声は小さすぎて、何も埋めはしなかった。
やがて、衣擦れが聞こえた。
「いいえ、なんでもありません」
みこさまは言った。
「なんでもありませんでした。忘れてください」
ぬくもりを、感じることのできない声音はずっと揺らがなかった。ザオは少しうしろに身体をずらし、かしこまりましたとこたえて頭を下げた。
***
「巫女」を迎えに来たのは、白い行列だった。皇帝領の治安維持を務める、
砦に残っていた人たちは、それを見て静まり返っていた。誰も無駄口叩こうとはしなかった。「巫女」は丁重に扱われて輿に乗せられた。
思わず吸い込まれるように見とれてしまう神秘的な美しさと、背筋を冷たい毛皮に撫でられるような不気味さを帯びた、白い行列の中に。
とけこんで見えなくなってしまった。
行列は砦に滞在することはなく、すぐに出て行った。砦ではない場所に落ち着いて休むものらしかった。
物見台にのぼって、遠ざかっていく行列を見た。それは真白の葬列のようで。
「黒い蝶にはなってない気がするんだな」
隣にいたヘイエが小さく言った。
大神殿からの使者たちが行ってしまってから、空気がなんとなくふわふわと落ち着かなくなっていた。メイは砦の下のほうまで行列を追いかけていった。そうする人は少なくなかった。
ザオはなんとなく、ヘイエの顔を見られなかった。
「ずっと思ってたんだけどさ。三百年前の巫女も、なんか失敗したんだろうな」
ヘイエはゆったりとそう言った。
「それで責任負わされたんだと思うよ。だって戦が終わる前に、ちょうちょになってどうすんのって感じじゃないか?」
ザオは笑みを浮かべてうなずいてみた。
「人間ってどうがんばっても蝶にはなれんし」
ヘイエは物見台の手すりに寄りかかった。
「蝶になったってことにしたんだろ。だいたい神さまの言葉とか、聞こえたら苦労しないしな」
行列が行ったほうから目をそらして遠くを見る。おぼろげに景色を霞ませるような、ぬるい空気があたりを包んでいる。
山間に広がる平地には畑や家々がある。そばに、シャ・ジュンの策を見破って勝利したときの戦場が見える。攻月台とシャ・ジュンの率いる兵で一緒になって踏み荒らした畑が見える。
攻月台が進軍していくのが見える。向かっているのはシャ・ジュンがいた城だ。ウンバン砦からは遠くに見えていたが、もう山の上の建物まで確認できる。
「糞食らえばいいのになって思うよ」
ヘイエが言った。
「天命とかそういうの」
何か探しているみたいに、景色を見つめた。
「意味がわからんよ」
穏やかな声の下の激流に、飛び込む勇気がもう出ない。
「どいつもこいつも天命天命って、馬鹿のひとつ覚えだよあれ、誰もこっちの言うこと聞きやしない」
仕方がありませんね、とヘイエは拗ねるように言った。
「なあザオ」
不意に、いつもより低い声で呼ばれる。もう嫌だと思った。何も見たくないしわかりたくない。もう何も言わないでくれと思った。でも逃げ出すことはできなかった。さえぎるとかうまく話を逸らすとか、そういうのはもともと不得意だから、やるには力が必要なのだ。
「グワンのこと連れて帰れなくてごめんな」
もう、出すものないんだけどな。
「一緒に帰ってこられなかったやつはいっぱいいる。だからこんなこと言うのは変だけどな」
ヘイエも熱心に景色を見ているようだった。
「隊長命令に背くのかおまえって、ほぼ殴ったけど聞かなかったんだ。まあそれはそれでいいんだけど。でも奇襲されてるのに、なんかやたらうれしそうだったから、連行しなきゃと思った。気持ち悪かったんだよ。死に場所見つけたみたいな顔してて」
涼しげな笑顔がちらついた。
「馬鹿みたいにさわやかな顔して、残って敵を食い止めるのが天命ですとか抜かした。仕方ないから付き合ったんだよ」
ヘイエも死に場所を探しているのだ。
「グワンも連れて帰れなかったよ。持って帰ったの、旗だけだ。変だな、ちょっとおかしいと思う」
ザオは身を乗り出して、懸命に目を凝らした。見つけたいものなど何もなかった。
「グワンのやつ、笑ってた」
ヘイエがぽつりと言った。
「奇襲されて、相手の数もわからなくて下手したら全滅だったのに。笑ってたよ。みんなそれで元気出してた。ああいうの、たぶん立派だって言うんだと思うよ」
ソン将軍に恥じないようにしたいって。ソン将軍みたいになりたいって。
「ご立派に死にやがったよ」
ソン将軍みたいになりたいって。
ソン将軍みたいになりたいって、そういう意味だったなら許せない。
許せない。
どうしてこんなに。
こんなに。
誰のことも見えなくて、誰にも何もできない。羽虫のほうがずっと役に立つ。
でも。
そんなの、今に始まったことじゃない。
「ヘイエさん」
ザオはヘイエの肩を叩いた。
「おれたちもう行かないといけません。ロウゲツ国落としに行きましょう」
少し間を置いて、そうだなとヘイエがこたえた。
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