三十五 陥月

 その日の夕刻、うら寂しい風が吹いていた。夕焼けの薄紅が窓から見える。じわりとにじむように空に広がるその色を眺めて、ザオはひとりで部屋の前に座っている。

 二日もすれば大神殿の迎えが到着すると思われた。後詰めはそれよりも先に合流できるはずだから、攻月台コウゲツダイ総勢およそ三万の兵士たちは、「巫女」を残して出発することになる。途中、シュヌエン国からの応援部隊も加わるだろう。ミモリ王国も動き出している。裏切り者を排除しても統率の取れていないロウゲツ国に、連合軍が攻め込むのだ。

 第一蛹ダイイチヨウの特別な役割ももうすぐおしまいだ。「巫女」を引き渡すまではここに残るが、そのあとすぐに攻月台の軍団を追いかける。シャ・ジュンを処刑して頭に成り代わった、璧府大将ヘキフタイショウの守る城を陥落させる戦に加わる。それが済めば、守る璧府ヘキフのいない都を攻める。

 ロウゲツ国は落ちる。

 「巫女」などいなくても滅ぶ。

 カファ国は大きくなる。

 どうせいつかは、なんだかんだと理由をつけてシュヌエン国も征服する。

 半島を再び統一して偉大な国となるのだ。

 「巫女」などはおまけに過ぎなかった。

 本物だろうが偽物だろうが、どちらでもいい。

 「巫女」が現れなくても、アンゲ砦が襲撃されたのだからいずれ戦にはなっていた。

 「巫女」がいなくても、半島から手を引いたエンヨウ帝国に見捨てられ、信頼のおける人物であるはずの将軍にすら裏切られて、戦のさなかに国内で殺し合いをする国などいずれ滅ぼしていた。

 間者だろうが嘘つきだろうが、なんでもいい。

 どうせ、一瞬の奇襲を可能にして、精鋭部隊にいくらかの打撃を与えることくらいしかできない。今のロウゲツ国はそんなものなのだ。

 「巫女」などいなくてもいい。

 そうだ。

 大神殿にでもどこにでも行けばいい。

 ふと思う。

 これから「巫女」は、飛び去っていくのかもしれない。

 建国時代の巫女も、戦がすべて終わる前にいなくなった。

 黒い蝶になって飛び去った。

 そうか、そういうものなのかもしれない。

 大神殿は、そこまで考えていたりするのだろうか。それなら偽物と騒ぎ立てるなどしないか。でも攻月台の人たちは、そう考えてもおかしくはない。

 完璧な「巫女」だな、と笑えた。

 完全無欠の「巫女さま」だ。

 本当に黒い蝶にでも、なるのかもしれない。

 「ソン蛹長ヨウチョウ

 背後から聞こえた。

 とりとめのない思考が立ち消える。

 みこさまの声だった。すぐに動けず返事ができず、ザオは間抜けに固まった。

 「ソン蛹長」

 戸の向こうから、みこさまがもう一度呼ぶ。凛とした、静かな声は変わらない。ウンバン砦で会ったころにしつこく話しかけていたときと同じで、平らで感情を読み取れない。でも今は、こちらは何も、言っていないのに。

 「はい、みこさま」

 ザオはやっと戸のほうを向いた。何かあったのかもしれない。

 「いかがなされました、大事ございませぬか」

 少し間があって、みこさまはこたえた。

 「何事もありません」

 「さようですか、安堵いたしました」

 「ソン蛹長に、お聞きしたいことがあります」

 身がすくむような感覚があった。どうして今、そんなことを言うのか。どうして、今まで何もこたえなかったのに突然話しかけてくるのか。しかし黙りこくってはいられないから、言葉を返す。

 「はい、なんなりと」

 するりと、衣が床を滑るような音がした。

 「あなたは、どうして」

 そう言ったみこさまが口をつぐみ、静かになる。

戸とのあいだに風がゆるゆると流れた。遠くで人々の声が聞こえた。

 ザオは目の前の戸に釘付けになっていた。

 「は、い」

 空白に耐えられず挟み込んだ声は小さすぎて、何も埋めはしなかった。

 やがて、衣擦れが聞こえた。

 「いいえ、なんでもありません」

 みこさまは言った。

 「なんでもありませんでした。忘れてください」

 ぬくもりを、感じることのできない声音はずっと揺らがなかった。ザオは少しうしろに身体をずらし、かしこまりましたとこたえて頭を下げた。




***




 「巫女」を迎えに来たのは、白い行列だった。皇帝領の治安維持を務める、兵官部ヘイカンブの兵たちに守られていた。巫や巫女たちは全員、すべてが白い衣をまとい、兵士たちも銀の鎧の下に白い衣を着ていた。馬の毛並みも白かった。遅い雪が降って、ひと筋だけ積もったようだった。列のうしろのほうでは、白い幕を下ろした輿が、白い者たちに担がれていた。

 砦に残っていた人たちは、それを見て静まり返っていた。誰も無駄口叩こうとはしなかった。「巫女」は丁重に扱われて輿に乗せられた。

 思わず吸い込まれるように見とれてしまう神秘的な美しさと、背筋を冷たい毛皮に撫でられるような不気味さを帯びた、白い行列の中に。

 とけこんで見えなくなってしまった。

 行列は砦に滞在することはなく、すぐに出て行った。砦ではない場所に落ち着いて休むものらしかった。

 物見台にのぼって、遠ざかっていく行列を見た。それは真白の葬列のようで。

 

 「黒い蝶にはなってない気がするんだな」

 隣にいたヘイエが小さく言った。

 大神殿からの使者たちが行ってしまってから、空気がなんとなくふわふわと落ち着かなくなっていた。メイは砦の下のほうまで行列を追いかけていった。そうする人は少なくなかった。

 ザオはなんとなく、ヘイエの顔を見られなかった。

 「ずっと思ってたんだけどさ。三百年前の巫女も、なんか失敗したんだろうな」

 ヘイエはゆったりとそう言った。

 「それで責任負わされたんだと思うよ。だって戦が終わる前に、ちょうちょになってどうすんのって感じじゃないか?」

 ザオは笑みを浮かべてうなずいてみた。

 「人間ってどうがんばっても蝶にはなれんし」

 ヘイエは物見台の手すりに寄りかかった。

 「蝶になったってことにしたんだろ。だいたい神さまの言葉とか、聞こえたら苦労しないしな」

 行列が行ったほうから目をそらして遠くを見る。おぼろげに景色を霞ませるような、ぬるい空気があたりを包んでいる。

 山間に広がる平地には畑や家々がある。そばに、シャ・ジュンの策を見破って勝利したときの戦場が見える。攻月台とシャ・ジュンの率いる兵で一緒になって踏み荒らした畑が見える。

 攻月台が進軍していくのが見える。向かっているのはシャ・ジュンがいた城だ。ウンバン砦からは遠くに見えていたが、もう山の上の建物まで確認できる。

 「糞食らえばいいのになって思うよ」

 ヘイエが言った。

 「天命とかそういうの」

 何か探しているみたいに、景色を見つめた。

 「意味がわからんよ」

 穏やかな声の下の激流に、飛び込む勇気がもう出ない。

 「どいつもこいつも天命天命って、馬鹿のひとつ覚えだよあれ、誰もこっちの言うこと聞きやしない」

 仕方がありませんね、とヘイエは拗ねるように言った。

 「なあザオ」

 不意に、いつもより低い声で呼ばれる。もう嫌だと思った。何も見たくないしわかりたくない。もう何も言わないでくれと思った。でも逃げ出すことはできなかった。さえぎるとかうまく話を逸らすとか、そういうのはもともと不得意だから、やるには力が必要なのだ。

 「グワンのこと連れて帰れなくてごめんな」

 もう、出すものないんだけどな。

 「一緒に帰ってこられなかったやつはいっぱいいる。だからこんなこと言うのは変だけどな」

 ヘイエも熱心に景色を見ているようだった。

 「隊長命令に背くのかおまえって、ほぼ殴ったけど聞かなかったんだ。まあそれはそれでいいんだけど。でも奇襲されてるのに、なんかやたらうれしそうだったから、連行しなきゃと思った。気持ち悪かったんだよ。死に場所見つけたみたいな顔してて」

 涼しげな笑顔がちらついた。

 「馬鹿みたいにさわやかな顔して、残って敵を食い止めるのが天命ですとか抜かした。仕方ないから付き合ったんだよ」

 ヘイエも死に場所を探しているのだ。黒翅隊コクシタイに引き抜かれても何も名誉に思わなくて、階級なんて興味ないとのんびりかまえて、上に行こうとはしない。ちっとも昇進せずいち蛹士ヨウシのままなのはそのせいだ。シュエと同じように、飛長ヒチョウになっていたっておかしくない人なのに。ヘイエにとっては、きっと戦場など父親と弟たちの死んだ場所でしかない。

 「グワンも連れて帰れなかったよ。持って帰ったの、旗だけだ。変だな、ちょっとおかしいと思う」

 ザオは身を乗り出して、懸命に目を凝らした。見つけたいものなど何もなかった。

 「グワンのやつ、笑ってた」

 ヘイエがぽつりと言った。

 「奇襲されて、相手の数もわからなくて下手したら全滅だったのに。笑ってたよ。みんなそれで元気出してた。ああいうの、たぶん立派だって言うんだと思うよ」

ソン将軍に恥じないようにしたいって。ソン将軍みたいになりたいって。

 「ご立派に死にやがったよ」

 ソン将軍みたいになりたいって。

 ソン将軍みたいになりたいって、そういう意味だったなら許せない。

 許せない。

 どうしてこんなに。

 こんなに。

 誰のことも見えなくて、誰にも何もできない。羽虫のほうがずっと役に立つ。

 でも。

 そんなの、今に始まったことじゃない。

 「ヘイエさん」

 ザオはヘイエの肩を叩いた。

 「おれたちもう行かないといけません。ロウゲツ国落としに行きましょう」

 少し間を置いて、そうだなとヘイエがこたえた。

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