三十四 痕痛

 シャ・ジュンは、反乱の準備でも気取られたのだろうか。まずい発言でもしたのだろうか。皇帝に対し許されないことをしていたとしても、宿敵との戦の真っ最中に、真っ先になき者にすることはあるのか。終わってからにすればよいのに。

 衝撃を受けたまま思考を整理できず垂れ流していると、もうひとつある、とウェイゴンが言った。ザオは限界を感じていたが、平然とした外形を作出した。おそらく、何食わぬ顔ができているはずだ。ウェイゴンが、少し眉を曇らせたように見えた。

「これはみなに周知することではない。サイ蛹士ヨウシを除隊することとした」

 表情を繕えなくなった。

「昨日、サイ蛹士のもとを見舞ったとか」

 うなずくと、ありがとうな、と両側から腕を掴まれて身体が揺れた。

「しかしサイ蛹士の発言の一部は、許されぬものであった。また多くの者が聞いていた。牢での謹慎では足りぬと判断した」

 ザオは、淡々と話すウェイゴンに倣った。

「憚りながらわたしもそれがよろしいかと存じます」

「うん。これよりの戦は、サイ蛹士は参加せぬ。でもな」

 ここにいるあいだはたまに様子を見にいってやってくれと、ウェイゴンは言った。震えた喉で、はいとこたえた。

「いろいろと言ったが、ソン蛹長ヨウチョウであれば問題ないと判断したゆえだ」

 ウェイゴンに肩を叩かれる。やさしい力だった。ザオがすぐに反応できずにいると、とりわけ軽い口調で言った。

「おれのところに直接乗り込んできた馬鹿第一号だしな。でも黒翅隊コクシタイの歴史で言うと、馬鹿第一号はおれだぞ。あんたは第二号」

「──それは、今はあまり関係ないかと」

「ん? 来てくれてうれしかったぞ」

「恐縮です」

 ウェイゴンはにっと笑みを浮かべ、歩き出した。その背中を追う。黒い上衣が風になびいている。戦うときには外す上衣は、血にも汗にも涙にも染まらず、真っ黒な、真っ黒な色を保っている。




***




 ヨンジェの発言の中で許されなかったのは、みこさまに対し嘘つきだと言った部分ではない。神の意志によりカファ国が作られたという物語を、否定するような言葉を口にしたことが罪だった。

 帝国支配に入る前のカファ国は、三百年前の大王によって建国されている。大王を助けた巫女は、神の言葉を聞き彼の軍団を導いて勝利させ続けた。天なる神が、カファ国の建国を助けたということだ。神代のことではないが、それはほとんど神話のように語り継がれ、帝国支配の中でも大切に守られた。エンヨウ帝国から独立し再びカファ国が建つと、巫たちは神話を用い、人々の心を掴んだ。カファ国の神殿、特に大神殿は、カファ国は神の意志によって作られたのだと言っている。

 十年前、神学者だったヨンジェの父は、神話を否定する論を唱えていた。天の神が、一国のためだけに言葉を授け助けるわけがない。神はすべての人に等しく天命を与える。一部の者のために、声を届けることなどしない。神殿は、私欲のために人々をだまし、扇動しているだけだと批判した。それは大神殿の高巫コウフの耳にも入り、その意見により、ヨンジェの父と彼に賛同した人々は、勅令で捕らえられ処刑された。その家族は、皇帝の恩赦を受けた。

 ザオはそのとき、都に暮らしていた。都が震撼していたのを覚えている。しかしそのあと、同じ思想が表に出てくることはなかったので、粛清のことも言われなければ思い出すことがなかった。

 でも、ずっと忘れられるわけがない人はいる。戦って自分を責めて泣いて、疲れ切っていたヨンジェが話してくれた。

 父親が処刑されたときヨンジェはまだ六歳だったが、父の思想に何も間違ったところはないと考えていた。父を殺されたうえ、肩身の狭い思いをしなければならず、悔しくて仕方がなかった。あるとき、いつものようにひとけのない場所で遊んでいると偶然、巫が通りかかった。父を殺したやつらの一味だと思い、ヨンジェはその巫に飛び掛かって傷を負わせた。爪でひっかいて、頬に大きな傷を走らせた。

 その巫は、ヨンジェを許した。強いのはいいが危ないから、大人に襲い掛かるのはもうやめろと頭を撫でた。ヨンジェの父親が誰かを知っているのかはわからなかった。自分から襲い掛かってけがをさせ、許されると思わなかったヨンジェはなぜかひどく口惜しくて、毎日暴れまわっていた。それを見ていた母親が、力をいたずらに使うのは、ろくなやつではないと諭した。

 ヨンジェは、母の友人の家に養子に入り文武を学ぶことを提案され、そうすることを決めた。養子になったのは、処刑された学者の息子では、禁軍部キングンブにも兵官部ヘイカンブにも、国境のダイにも入れないからだ。そして姓を変えたヨンジェは鍛錬を積み、黒翅隊に入った。

『これ、自分でつけてみたんです』

 ヨンジェは格子戸に背中を預けて、頬の傷跡を触りながら言っていた。

『あの人につけた傷はこんなじゃなかったと思うけど、痕は残ったはずなので。もうあんなこと絶対しないって、それでやったらやりすぎました』

 顔に傷がある人って強そうじゃないですか、とか言っていたのに。

『ちゃんとやろうと思ってたんですけど。巫女とかいう人が来て。なんだか知らないけど、神の意志でカファ国を再び偉大にするとか、おかしいから』

 それを、声を大にして言うことはできない。学者たちが処刑されたような思想だ。でもあのときは、心も体もめちゃくちゃになっていて、叫んでしまった。

『墓場まで持ってくつもりだったんだけどなあ……こんなのだめなのに……』

 薄く開いた目から、静かな涙を流していた。傷跡の上を涙がつたって、ときを戻していくようだった。赤い血も痛みも、きっとよみがえっていた。


 皇帝が学者たちを処刑したことに対しては、大城輔タイジョウホたちや民衆からの批判が少なからずあったため、もう思想だけで殺されるようなことはおそらくない。しかしウェイゴンの言うとおり、ヨンジェの言葉は多くの人に聞かれたのだから、除隊もやむを得ないことではあった。神殿は人々の心のよりどころであり、神を祀る神聖な場所であり、そして残酷な、権威のねぐらでもある。




***




 ウェイゴンとともにみこさまの居所に戻ると、みこさまは自分から出てきた。ウェイゴンを見るなり、昨日は何があったのか教えてほしいと頼んだ。神の声を伝えて導くはずなのに、できなかったのは自分の落ち度だから、全部知るべきだと言った。

 ウェイゴンは落ち着き払った様子で、こちらの犠牲はほとんどないため、何も心配することはないとだけ言った。みこさまには、ロウゲツ国側で同士討ちが起こったことや、シャ・ジュンが殺されたことを伝えなかった。これから大神殿に行くことになるみこさまは、知る必要のないことだからだろう。

 ウェイゴンが、大神殿よりみこさまに迎えが来ると言ったとき、動揺したのはメイだった。みこさまのうしろで、えっと声を上げていた。しかしみこさまは一度まばたきをして、そうですか、と言ったきりだった。少しも、揺らいでいないように見えた。大神殿が、どうして使者を寄越すかを、ウェイゴンは説明していない。みこさまがたずねることもなかった。


 話を終えてウェイゴンが去っていったあと、メイが言った。

「こんなむさくるしいところにいらっしゃるより、大神殿にいらしたほうがきっといいです、巫女さま」

 メイにも、みこさまが連行される理由を伝えないほうがいいかもしれない。メイがみこさまを大切にしているのは、第一蛹ダイイチヨウとしての任務だからというだけではないように見えるのだ。ただ、メイも薄々わかっているのだろうが。

 「天命を受けた巫女」が現れるなど、三百年前以来初めてのことであるため、大神殿がみこさまをどうするかは未知数だ。連れてこいとかそちらで処断しろとか命じるのではなく、わざわざ使者を送ってくるのだから、雑に扱うつもりはないのか。それともただ、巫女や神話に関することは大神殿の専権事項であるから、攻月台コウゲツダイに「巫女」を移送させることなどしないという意思表示をしているだけなのか。

 メイの言葉を聞いたみこさまは、同意なのか疑問なのか、少し首を傾けて微笑んでいた。その微笑みは、すっかり顔になじんでいて。この人は初めから、生まれたときからこうなのかもしれないと、思ってしまった。

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