第35話 別れと彼女



 結局、俺たちに足りなかったのは、少しの勇気だけだったのだろう。



 美春の話を聞いた後、俺が思ったのはそんなつまらないことだけ。美春の話に、大きな驚きはない。そもそも大方は予想通りの内容だったし、今更それに怒ったり嘆いたりする必要はない。


「……その筈、なんだけどな」


 冬の冷たい風と、どこからか聴こえてくる車のクラクション。降り注ぐ月光に、かじかんだ指先。


 俺は確かにここに居る。なのにまるで、鏡に映った劇を観ているような、そんな現実感のなさ。このまま夜空と一緒に消えてしまえたなら……なんて、現実逃避にもならない唾棄すべき妄想が脳を過る。


 俺は、俺がしたことの責任を取らなければならない。間違いだらけの検証でも、結果が出る前に逃げるわけにはいかない。例えそれが誰も幸せにならない結末だったとしても、俺はもう逃げない。人は誰しも、苦しまなければならない瞬間がある。目を逸らした子供の頃と同じ轍は、もう踏めない。



 そう分かっていても、気を抜くと泣いてしまいそうになる。



 ……ああ、俺は本当に弱い人間だ。



「お前も大変だったんだな、美春」


 溢れたのは、どこか他人事のような言葉。美春は呆れたように、小さく息を吐いた。


「生きてるんだから、当然でしょ? 悩んで、苦しんで、足掻いて……。あたしはあたしにできることをした。それが今から見たら間違いでしかなかったとしても、そうするしか……なかった」


「今から見たら間違いでも、もっともっと大人になった時から見たら、全部、痛い学生時代の黒歴史になってるかもしれないぜ?」


「それはそうかもしれないけど、でもそれって結局、現実逃避でしょ? 子供には子供のルールがあって、大人には大人のルールがある。新しい環境に適応したあと、前の環境を悪く言うなんて、馬鹿のすることじゃない。その前の環境が今の自分を作ってるのに……」


「雪坂先輩も同じようなこと言ってたよ。みんな自分が何でできてるのかなんて、興味はないって。結局、恋も愛も社会も世界も人も、全部間違ってて全部……くだらないことでしかない」


 ただ、10年も20年もその世界で汗と涙を流したあと、その頑張りに意味がなかったなんて、誰も認めたくはない。だからみんな必死になって、ただの石ころを宝石だと言い張る。



 なんて、くだらない。



 そして、そんなことを思ってしまう俺が1番くだらないのだろう。……構わない。この胸に空いた穴は、きっと永遠に埋まることはない。


「今さら、DNA鑑定して俺とお前に血の繋がりがなかったとしても、やり直せるような状況じゃない。それはもう、分かってるだろ?」


「……そうね。あんたと異母兄妹なんて御免だけど、でも……今さら恋人にも戻れない」


 きっと、やり直せる地点はあったのだろう。俺が家族とちゃんと向き合って。美春とちゃんと向き合って。自分とちゃんと向き合えていたなら、こんなことにはならなかった。


 ……悪いのはあのクソ親父だとしても、俺に責任がないわけじゃない。


「俺はずっと、胸に刺さった棘を抜こうと必死だった。けど、抜けないんだろうな、多分……これは一生」


 これから先ずっと辛いままで、ずっと苦しいまま。忘れても忘れられなくても、痛みは決して消えてはくれない。


「うちのお爺ちゃん、歳をとったら毎日どこかが不調だって言ってた。きっと心も同じなのよ」


「できれば、楽に生きたいんだけどな」


「でもあんた、痛いの嫌いじゃないんでしょ?」


「人を変態みたいに言うなよ」


「十分、変態よ。……あんたは強い。どれだけボロボロになっても、その痛みから逃げたりはしない」


「……なに言ってんだよ、逃げた結果が今だろ?」


 俺は、美春と血が繋がってるなんて現実を認めたくなかった。だから俺は逃げ出して、目を逸らして、その結果が今のこの有様だ。


 ……その筈なのに、どうしてか美春は笑った。


「逃げてないから、今ここにいるんでしょ? あたしのことなんて放っておいて、他の可愛い子と逃げてもよかったのに……あんたは今、ここにいる」


 美春がこちらを見る。いつも射抜くような鋭い眼光ではない。こちらを見る目はまるで、出来の悪い弟を見る姉のような、とても優しい眼差し。


「……敵わないな」


 美春は、俺を嫌っているわけではなかった。俺が1人で自分勝手な検証をしていたように、美春も1人で勝手に自分勝手な検証をしていただけ。強い癖に脆いこの女は、そうでもしなければ自分の心を守ることができなかったのだろう。


 長い間すれ違って、どこか遠くに来た気でいたが、結局俺たちは同じところで足踏みしていただけで、あの夜の……この公園から、一歩も前には進んでいなかったのだろう。


「でも、もういい加減、終わらせないとな……」


 今さら血の繋がりなんて関係ない。今俺たちの目の前にあるのは、自分たちが積み重ねてきた間違いだらけの検証だけ。


 俺は愛の検証に失敗した。俺はこの女を……美春を好きでい続けることができなかった。だから俺があと一言、背中を押すだけで、きっと美春も自分の中の想いを否定できる。


 ならもう、迷う必要はない。


「美春」


「なに? 秋穂」


 視線が混じり合う。美春の艶やかな黒髪が風に舞う。……綺麗だと思った。やっぱり俺は、この女のことが好きだったのだろう。検証なんてしなくても、愛なんていつもこの胸にあった。


 それが例え偽物でも本物でも関係ない。たったそれだけのことに気がつくのに、何年かかったのだろう? ……本当に、


「馬鹿馬鹿しいな」


 俺は目の前の好きだった少女に視線を向ける。そして、言うべき言葉を自分の意志で、目の前の少女にぶつけた。


「俺はもう、お前に飽きた。お前といても、つまんねーんだよ。だからもう二度と、俺に関わるな。俺はお前が……」


 一瞬、笑いそうになった。いや本当は、泣きそうになったのかもしれない。……分からない。でも美春は、泣かなかった。だから俺は、いつかの性悪な女と同じように心底からどうでもよさそうに目を細め、その言葉を口にした。



「俺はお前が──嫌いだ」



 自分でも驚くほど冷たい声だった。心を切り離すだけでこんな声が出せるなら、もっと早く終わらせるべきだった


「……うん、分かった。…………分かってたよ」


 美春の声は震えていた。その震えの意味は伝わっていたが、気づくわけにはいかない。俺は美春に背を向け、歩き出す。


「あ、一個だけ言い忘れてた」


 途中、わざとらしく足を止める。美春は何も言わない。俺は吐き捨てるように、言った。


「俺さ、お前が持ってくるチョコレート、甘ったるくて苦手だった」


 そんな場違いな言葉を残して、俺は美春を置いて公園から立ち去る。美春は俺を引き止めなかった。背後から子供のような泣き声が聴こえた気がしたが、振り返ることはしない。……決して、しなかった。



 ──自業自得だ。



 お互いに、自業自得なのだ。だから俺の目からは、何も流れない。それがきっと、俺と美春の決定的な違い。


「……あれ?」


 ふと、桜の花が舞った気がした。まだ全く開花の時期ではない。狂い咲きもいいところだ。そんなことを思ったが、その花びらは俺の手のひらで溶けて消える。


 視線を上げる。それは、桜ではなく雪だった。……桜色の思い出は熱に溶け、手のひらから零れ落ちる。


「新しい好きな人、見つかるといいな」


 それは誰に向けての言葉なのか。そうして、俺と美春の長い長い間違いだらけの検証は、終わりを告げた。


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