第26話 検証



「──糸杉 秋穂くん。私は貴方を愛してます。だから私と……付き合ってください」



 風に揺れる綺麗な髪。こちらを見る真っ直ぐな瞳。告げられた純粋な好意と……覚悟。この前のカフェでの誤魔化すような告白とは違う、嘘偽りのない本物の想い。


「…………」


 椿さんの気持ちは、確かに伝わった。俺の答えは既に決まっている。けれど口が動く前に、どうしてか俺は自身の過去を思い出していた。


 ……多分きっと、彼女と同じ真っ直ぐで純粋な好意に、忘れてしまった俺の原点があった。



 ◇



 幼少期の俺は、今よりもずっと明るい性格をしていた。優しい父親に、優しい母親。とても恵まれた環境に産まれてきた俺は、なんの根拠もなく愛されているのだと信じていたし、何の理由もなく周りのことを愛することができていた。


 自分には他人に愛されるだけの価値があって、自分もまた同じように何の価値もない他人を、愛することができる。俺はただ無邪気に、自分と愛の価値を信じていた。



 けれどある日、父親の浮気が発覚した。



 当時はまだ小学校の低学年だった俺に、両親は詳しい事情を話してはくれなかった。ただ彼らの怒鳴り声は耳を塞いでも頭の中に響いてきて、俺は知りたくもない情報を強制的に頭の中に流し込まれた。


 どうやら父には昔から仲のいい幼馴染がいて、母と結婚する前からその人と関係を持っていた。母は偶々、父がその幼馴染と仲良さそうに歩いているのを目撃し、スマホでのやりとりを見つけ浮気が発覚した。……ということがあったらしい。それがどこまで正確なのかは、今になっても分からないが。


 とにかくその日から、優しかった父と母は豹変し、家ではいつも喧嘩が絶えなくなった。父はお前がだらしないからだと母を責め、母はお前は浮気したんだからと家の金を使い込んだ。


 そして2人とも、俺と顔を合わせる時だけ決まって優しい顔で笑って「私だけはあなたの味方だから」と嘯いた。あの人のことはもう愛していないけど、あなたのことは愛していると。



 俺はそれが酷く、気持ち悪かった。



 そんな『愛してる』なんて言葉は、単なる言い訳だ。どうして彼らは、もう愛してなんかいないのに、愛してるようなふりをするのか。……そして、その時俺は気がついた。初めから全部、偽物だったのではないか、と。


 浮気が発覚する前のあの優しい笑みも、抱きしめてくれた温かな感触も全て嘘。俺が気づいてなかっただけで、何もかもが全部……偽物だった。だってあの男はずっと前から浮気をしていて、なのに平気で愛しているなんて嘘をついていた。幸せそうに……笑っていた。



 ……反吐がでるほど、気色が悪い。



 俺たち人間は決して1人では生きられない。長い年月をかけてそういう風に進化して、だから社会は孤独を排斥する。ものの価値というのは、全体の都合で定められる。本当は何の価値もないものを、全体の都合でそれに価値があるのだと思い込まされる。


 愛というのは、必ず誰かの側にいなくてはいけない弱い人間の言い訳に過ぎない。……そんなことを、俺は思った。


 古今東西の物語が、孤独を否定し愛を肯定するように。父さんと母さんが俺を言い訳にして、家族という形にいつまでも縋り続けるように。


 手に入るものにこそ価値があり、手の届かないものは酸っぱい葡萄だと馬鹿にする。愛というものが内在するどうしようもない気味の悪さに、俺は酷い嫌悪感を覚えた。


 無論、当時の俺に、自分の考えをそこまで明確に言語化する能力はなかった。ただ俺は、愛というものに強い忌避感を覚えるようになった。


 そして俺は、喧嘩ばかりするくせに、俺の前でだけ都合のいい愛を語る両親が煩わしくて、家を出て近所の公園で1人、時間潰しをするようになった。


「あ、またこんなところで1人でいる!」


 そんな俺を迎えにきてくれたのが、美春だった。明るさが消え失せ、性格が暗くなる一方だった俺と仲良くしてくれた数少ない友人たちの1人。


 俺は当時から、美春のことが……。


「……お前こそ、また来たのか美春」


 冷めた顔で息を吐く俺。美春は今からすれば考えられないような華やかな笑顔で、言う。


「あんたが1人でいるからじゃない。こんな時間に1人でいて、悪い人に誘拐されても知らないよ?」


「俺なんか誘拐する価値ないよ」


「そんなことないよ! 秋穂は……秋穂は、いつも皆んなに好かれてるんだから。この前も学校で、香奈かなちゃんとかに声かけられてたじゃん」


「……香奈ちゃんって、だれ?」


「そういうとこが駄目なんだよー! 秋穂は!」


 わざとらしく怒った表情を浮かべ、俺の頬をうにうにとつねる美春。俺は自分の中の感情を確かめるように、目を瞑り言う。


「……ま、そんなことはどうでもいいよ。それより、そろそろ帰るつもりだったし、一緒に帰ろうか、美春」


「うん! じゃ、行こっ!」


 俺はベンチから立ち上がる。美春はニマリと何か企むような顔で笑って、スカートのポケットから俺の好きなチョコレートを取り出す。


「はい、これ! いい子な秋穂にご褒美あげる!」


「……いいの?」


「いいよ! 秋穂の為に用意したんだもん! 貰ってくれないとあたしが困るの!」


「……ありがと」


 両手にいっぱいのチョコレートを受け取って、俺は逃げるように視線を逸らす。そしてそのまま2人で、並んで家に帰る。それが俺たちの日課だった。


 俺は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるこの幼馴染のことがずっと……好きで、でも同時にその想いが本物なのだと信じることができずにいた。


 この想いもまた、父さんと母さんに感じたものと同じで、吹けば飛ぶ偽物なのか。それともこれは、俺だけの本物なのか。俺はどうしても、それを確かめたくなった。



 ──だから俺は、検証することにしたんだ。  



 そして多分それが、最初の間違いだったのだろう。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る