第25話 桜の花



 期末テストが終わった。


 俺が退院して1週間と少し。特に大きな問題が起こることもなく、無事にテストが終了した。


 川下先生の補習のお陰か、半月近く入院したにも関わらず、テストの出来は悪くなかった。特に得意な数学と国語は、9割近くとれているはずだ。ここまで勉強に集中したのは、高校受験の時以来だろう。


「余計なことを考えたくないから、勉強で現実逃避。……我ながらズレてるな」


 勉強が目の前の現実になるとやる気が起きないのに、面倒な現実から目を逸らすための手段になると、途端に集中力が増す。……そこまでして俺は一体、何から目を逸らしているのか。我がことながら、はっきりしない。


 ストーカーの正体。あの手紙の送り主。そして、美春が豹変した理由。


 本当は全部、見当がついていて。俺はただ、その現実から目を逸らしているだけなのか。なんにせよ、まだ焦点が合わない。


「……とりあえず、椿さんに会いに行くか」


 立ち上がり、教室を出る。今日は昼までで授業が終わり、午後からは文化祭の準備にあてられる。うちのクラスは何の出し物もしないようだから、大抵の奴は昼で帰るみたいだ。


「…………」


 ふと、美春がなにか真面目な表情で、藤林さんと一緒に教室から出て行く姿が見えた。……あいつともいずれ、ちゃんと話をしなければと思うが、今は椿さんが先だ。


 俺は1人、早足で廊下を歩く。


「あ」


 するとちょうど、正面からこちらに向かって歩いてくる綺麗な金髪の少女が見える。俺は緊張を誤魔化すように唾を飲み込んで、口を開く。


「久しぶり、椿さん」


 片手を上げて、軽く挨拶する。椿さんはどこか無理やりな笑みを浮かべて、言う。


「久しぶり、糸杉くん。……その、元気にしてた?」


「まあ、ほどほどに」


「そう? でもちょっと、痩せた?」


「どうだろう。ただ、病院食は美味しくなかったな。家帰って食べたカップラーメンが、死ぬほど美味く感じた」


「あははは。その様子だと、ほんとに元気そうだね。……よかった」


「…………」


「…………」


 そこで少し沈黙。お互い無理に自然に振る舞おうとして、少し不自然になっている。そう分かっていても、表情が勝手に固くなる。たった一月、話さなかっただけ。……それでもその間、何もなかったわけじゃない。


「椿さんのクラスは文化祭、なにもしないの?」


 長くなってきた前髪を弄りながら、どうでもいいことを尋ねる。


「あー、クラスの一部の人たちが何かちょっとやるらしいけど、私は別になにも……」


「そっか。じゃあ、これからちょっと遊びに行かない? 椿さんと、話したいことがあるんだよ」


「……うん、分かった。私も……私も糸杉くんに伝えたいことがある。だから……だから、行こっか」


 そのまま2人で、学校を出る。そして俺たちは、空いてしまった一月を埋めるようにたわいもない話をしながら、街を散策する。椿さんと初めて出会った……いや、再会したあの日。あの日、椿さんに街を案内したのと同じように、2人でいろんなところを見て回る。


 入院してからすぐにテストで、誰かと遊ぶ暇なんてなかった。だからそうやって何も考えず遊び回る時間は、とても楽しく感じた。


 中華屋で山盛りの豚の唐揚げを食べて。ゲームセンターで椿さんにボコボコにされて。八つ当たりするみたいに、カラオケで歌って。ただただ、楽しいだけの時間を過ごす。


「…………」


 これでいいのか、と。途中そんなことを思ったりもしたが、俺はその都度これでいいんだと、自分にそう言い聞かせた。


 そんな風に楽しい時間はあっという過ぎ去って、気づけば空は茜色。俺たちは長い影を引きずりながら、人気のない自然公園をゆっくりと歩いていた。


「今日は移動販売のクレープ、来てないみたいだね」


 と、俺は言う。


「そうだね。こう寒いと、やっぱり来なくなっちゃうのかな」


 椿さん辺りを軽く見渡して、笑う。


「…………」


「…………」


 そして、しばらく沈黙。椿さんはコートのポケットに手を入れたまま、小さく息を吐く。白くなった息が、冷たい風にさらわれて消える。


「糸杉くん。その……ごめんなさい」


 椿さんはこちらに視線を向け、そう言った。


「それは……何に対して?」


 俺は足を止めて椿さんを見る。椿さんは、風に揺れる髪を軽く抑える。


「お見舞い、行けなかったこと。勝手に美春さんと揉めて、変な噂に巻き込んじゃったこと。……無理やり自分の感情を押しつけて、困らせちゃったこと。私はいっぱい、糸杉くんに迷惑をかけた。だから本当に、ごめんなさい」


 そこで椿さんは、頭を下げた。俺は何とも言えない感情を飲み込んで、椿さんの肩に手を置く。


「頭を上げて、椿さん。そんなことで、椿さんが謝る必要はないよ。テスト前でお見舞いに来れなかったのは仕方ないし、噂のことは勝手に広げる周りが悪い。それに俺は……感情を押しつけられたなんて、思ってないよ」


「でも──」


「いいって。怒ってないのに怒ったフリをするのも、馬鹿らしいし。椿さんがなんと言おうと、俺は君を責めたりしないよ」


 俺は椿さんの肩から手を離す。椿さんは気まずそうに、顔を上げる。


「ありがとう。やっぱり糸杉くんは、優しいね」


「別に優しいとかじゃないよ。……俺はただ、臆病なだけだから」


「そんなことないよ、糸杉くんは優しい。私はちゃんと、知ってるから」


 椿さんはゆっくりと足を進め、いつかの時と同じように、花も葉も散ってしまった桜の枝を眺める。


「私、前に言ったよね? 桜は花が咲いてる期間がとても短いのに、みんな桜って聞いたらあの綺麗なピンク色の花を思い出す。花が咲いた時だけ顔を上げて、綺麗だって持ち上げる。そういうのはずるいことだって」


「……確かに言ってたね。印象的だったからよく覚えてるよ」


 俺は『佐倉 美春』と聞いたら、今のあの性格の美春じゃなくて、優しかった頃の美春を思い出す。そんなことを俺は思ったはずだ。


「…………」


 なら今は、どうなのだろう? ……少し頭を悩ませる。けれど想いが形になる前に、椿さんは言った。


「本当は私、覚えてて欲しかった。忘れていいなんて言っておいて、本当は糸杉くんに……思い出して欲しかった。弱かった私を。何もできなかった私を。花が咲いてなかった頃の私を。全部思い出して、それで……今の私を見て欲しかった」


「……ごめん。正直今でも、ちゃんと思い出せてない」


「糸杉くんが謝る必要はないよ。悪いのは、忘れられた私なんだから。当時の私は……何の花も咲いてなかった。悲しいけど、それが事実なんだよ」


「…………」


 椿さんは寂しそうに目を細める。俺は彼女に、過去のことともう1つ、どうしても聞いておきたいことがあった。でも今は、口を閉じる。もうすぐ、日が暮れる。けれどまだ、時間には余裕がある。


 俺たちはもう、5時になったら家に帰らないといけない子供じゃない。


「私は、わがままな女なんだよ。綺麗なものを愛するのは当然のことで、綺麗じゃないものを愛するには……理由がいる。私はわがままだから、弱い自分も受け入れて欲しいって、どこかでそう思ってた。今も……思ってる」


「……否定はしないよ。変わりたいって思って努力することは、俺にはできないことだから。だから……俺には椿さんの気持ちは分かってあげられないけど、君が努力したのはよく分かる」


 けれど同時に俺は、椿さんと同じようなことを願って必死に努力したマッシュくんを否定した。俺は彼に、努力が足りないと言った。今でもその言葉が間違っているとは思わないが、俺が彼の立場なら自分に同じことを言えるだろうか?



 ……椿さんに俺は、同じことを言えるのだろうか?



 椿さんは俺の方に視線を向けず、桜の枝を見つめまま言う。


「人はどこかでみんな、走った分だけ前に進むと信じてる。世界はそんな風にはできていないって、本当はとっくに気がついてるはずなのに」


「……そりゃね。努力が全て報われてたら、この世界は野球選手とパイロットで溢れてる。選ばれるのは特別な人間で、でもみんなどこかで……自分が特別だって信じてる」


「信じたいだけなんだよ。私も昔は、自分がお姫様なんだって信じてた」


 いつか魔法使いが魔法をかけてくれて、王子様が自分を見つけてくれる。この世界はそんな風にはできていない。魔法なんてない。王子様もいない。いくら真面目に正しく生きても、誰も助けてなんてくれない。


「努力してもしなくても、報われないことは報われない。……それでも俺たちは、頑張るしかない」


「うん。でも、報われるって不思議な言い回しだよね。夢が叶う。……最初に願った夢が叶わないと、努力が報われたってことには、ならないのかな?」


「それ、どういう意味?」


 俺は椿さんを見る。それでも椿さんは、桜の枝から視線を逸らさない。


「野球選手になりたくて必死にバットを振ってた男の子は、大抵はプロにはなれない。でもさ、試合でホームランを打つことはあるかもしれない。そうでしょ?」


「そりゃまあ、練習試合も合わせたら1回くらいはあるかも知れないけど……」


 それが何なの? とは、どうしても訊けない。


「ホームランを打った時……その時感じた嬉しさは、嘘じゃないでしょ? そりゃ、プロにはなれないかもしれないけど、その時感じた感情は嘘にはならない。積み重ねた努力は嘘にはならない。……それで、報われたってことにはならないのかな?」


「…………」


 俺は何も答えられない。俺はこの1週間、必死になって勉強した。そのお陰できっとテストは、今まで1番いい点数が取れているはずだ。……でももし仮に、そうじゃなかったとして。全てのテストが赤点だったとして、それでも俺は別に……何も思わないだろう。


 根っこのところで俺は、勉強なんてどうでもいいと思ってる。だから俺は、本当の意味で努力なんてしていない。ただ目の前の作業をこなしただけで、そこには意味なんてありはしない。


 だから俺は、結果は出せても報われることはないのだろう。


「私はね、今までたくさん努力してきたつもり。私にできることは、全部やった。だから私は……思うんだ。他の誰が報いてくれなくても、私だけは……私自身の努力に報いてあげたいって」


「それは……」


「うん。だから私は、弱虫で嘘つきな弱い自分の背中を押す。貴女は可愛いよって、私がちゃんと私自身に言ってあげる。私が私の努力に報いてあげれば、努力が報われないなんてことは絶対に……ないんだから」


 椿さんが俺を見る。桜の枝が風に揺れる。椿さんは視線を逸らすことなく、真っ直ぐに俺のことを見つめる。……俺のことだけを見つめ続ける。


 ──まるで、射抜くように。


「……っ」


 夕焼けが目に入り、目を瞑る。その一瞬、まぶたの裏に桜の花が見えた。綺麗な淡いピンク色の花びら。それは風に散って、空を舞う。


 俺は目を開ける。当然、桜の花は舞ってはいない。花も葉も散ってしまった桜の枝が、ただ風に揺れている。そしてその代わりというかのように、椿さんの綺麗な金髪が風に揺れて、彼女は……言った。



「──糸杉 秋穂くん。私は貴方を愛してます。だから私と……付き合ってください」



 その真っ直ぐな瞳を見て、俺はようやく……思い出した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る