第38話 椿と桜
「実は私、彼氏できたんだ」
そう言って、椿さんは笑った。いきなりな言葉に、俺は思わず目を見開く。そんな俺の姿を見て、椿さんは楽しそうに続ける。
「……って言ったら、糸杉くんとはどう思うのかな?」
「……よかったねって、思うんじゃない?」
俺は軽く息を吐いて、そう言葉を返す。
「糸杉くんは、傷ついてくれないの?」
「どうだろう。傷つくかもしれないけど、それは俺が受け入れるべき傷だから、そのことに対して何かを言う気はないよ」
「糸杉くんは強いんだね」
「多分、無関心なだけだと思うよ」
「それは、私に?」
「いや、自分に」
その程度のことで必死に守ってやらないといけないほど、自分が弱い奴だとは思わない。多少傷ついても、ほっときゃそのうち歩き出す。
「変わってないね、糸杉くんは」
呆れるように笑って、椿さんは歩き出す。俺は鬱陶しい前髪をかき上げ、その背に続く。心地いい風が頬を撫でる。もうすっかり春だ。
「椿さんは散歩? それともこれから、どこか行ったりするの?」
「美術館にちょっとね」
「……薄々、思ってたんだけどさ、菖蒲の奴も含めてみんなで何か企んでたりする? なんかあまりに状況が、都合が良すぎる気がするんだけど……」
「ひみつだよ!」
椿さんは笑う。俺の知ってる椿さんとは少し違う、肩から力が抜けた自然な笑み。椿さんは俺の隣にやってきて、ペシペシと肩を叩く。
「実は私さ、最近……美春さんと話すことが多くなったんだよね」
「椿さんが、美春と? それはなんていうか……大丈夫なの? あいつ、椿さんのこと取って食ったりしてない?」
「あははは、美春さんはそんなことしないよ。……まあ、確かにちょっと怖いところはあるけど、そんなに悪い人じゃないよ?」
「……悪い奴じゃないかもしれないけど、性格が悪いのは間違いないだろ?」
それはまあ、俺も人のことは言えないが……。ただ、いろいろなことがあったとはいえ、美春が善人なんてことは天地がひっくり返ってもあり得ない。
「ふふっ、美春さんもよく言ってたよ。あんな捻くれてる男の、どこがいいんだって」
「それはまあ確かに、いいとこないよね、俺」
「糸杉くんは顔がかっこいいじゃん。スタイルもいいし」
「……なんかあんまり、褒められてる気がしないな」
「あはははは。冗談だよ、冗談。私は糸杉くんのいいところ、いっぱい知ってるよ? ……美春さんが、知らないところもね」
なんだか含みのある言葉。椿さんは俺の正面で足を止め、クルンとその場でターンして、こちらを見る。
「終わったと思ってるの、多分……糸杉くんだけだよ?」
「それって、どういう意味?」
「言葉通りの意味だよ。言ったでしょ? 私はまだ、諦めないって」
「……少なくとも俺は、いろいろ終わらせた気ではいたんだけどね」
「糸杉くんの悪い癖だね。1人で勝手に始めて、1人で勝手に終わらせる。周りを巻き込んだんだから、糸杉くん1人じゃ終わらせられないよ?」
「椿さんは、勝手に巻き込まれてきただけじゃん」
「……むー。そういう言い方は、酷いと思うなー」
また、ペシペシと肩を叩かれる。なんだかこういうやりとりも、懐かしい。……実際、椿さんが俺のことを忘れて別の男と付き合っても構わないと、思っていた。というかそもそも、俺に彼女を止める権利なんてない。椿さんに、俺を引き止める権利がなかったのと同じように。
「ほんと、なにやってんだろ、俺」
自分と世界を切り離して、誰がどうなろうと関係ない。そう割り切ることができたら、今よりもっと生きやすくなる筈だ。そう分かっているから1人になった筈なのに、俺はやっぱり……半端者だ。
椿さんが、からかうような表情で俺の顔を覗き込む。春風が、柑橘系のいい香りを運んでくる。
「最近、美春さんにお化粧のこととか、いろいろ教えてもらってるんだ。私って所詮は……高校デビューみたいなものだからね。ずっとやってきた人には、敵わないなって実感するよ」
「……まあ、あいつはその辺、うるさかったからな」
「香水とヘアオイルの香りの種類が違うと、匂いが混ざってダメとか。私全然、考えなかったもん」
椿さんが歩き出す。桜が舞って、華やかな彼女を彩る。ちょっと会わない間に……
「私、綺麗になった?」
椿さんが笑う。問いの答えは簡単だった。なのに言葉に詰まってしまうのは、多分……俺がまだ甘えているから。
「綺麗だよ。前よりずっと綺麗になった」
「……そっか」
椿さんは、笑う。幸せを噛み締めるような、柔らかな笑み。何だか胸が痛くて、思わず視線を逸らしてしまう。
「ありがとう。糸杉くんがそう言ってくれるなら、頑張った甲斐があったよ」
椿さんは当然のように俺の手を握って、歩き出す。
「…………」
その手を振り払うことができない俺は、仕方なく彼女の背に続く。……駄目だ、また流されてる。そう気づいてはいたが、別に今、彼女を拒絶する必要もない。そう言い訳して、弱い自分を許してやる。
強くなるには、自分の弱さを許してやらなければならない時がある。……なんて、それこそ真っ先に切り捨てるべき弱さだというのに。
「私、気づいたんだ。いくら長所を伸ばせって言っても、好きなこと……自分の得意なことばっかりやってても、駄目なんだって。長所って言っても、無限に成長し続けるわけじゃないから」
「……その言葉は、俺もちょっと耳が痛いな」
「でも考えてみれば、当然のことなんだよ。どれだけ直球が得意なピッチャーでも、せいぜい150kmや160kmが限界。どんなに必死に練習しても、200kmの球を投げられるようにはならない」
椿さんは俺の手を離し、野球のピッチャーを真似るように腕を振る。
「自慢の球速を活かす為には、苦手な変化球を覚える必要が出てくる。壁にぶつかった時、自分の弱みと向き合えるかが成長の鍵。椿さんはそう言いたいんだよね?」
「そんなとこ」
椿さんは最後にバッドをスイングするように腕を振って、また当然のように俺の手を握る。俺はゆっくりと歩きながら、空を見上げる。
「椿さんって、野球好きなの?」
「キャッチボールはできるよ」
「じゃあ今度、一緒にしようか?」
「いいね。約束だよ?」
「……ごめん。そういや俺、グローブ持ってなかったかも」
「大丈夫! 美術部の部室にちゃんとあるから!」
「いや、なんで美術部の部室に野球のグローブがあるんだよ」
俺の疑問に、椿さんは「知らない!」と元気に笑って、歩くペースを上げる。
「私はね、まだ……糸杉くんのことが好き。もう忘れた方がいいって言う人もいるけど、まだ好きなのに忘れたフリをするのも馬鹿らしいでしょ?」
「似たようなことを言ったことがある俺は、その言葉を強く否定はできないな。でも形から入れば、いずれ中身も入れ替わるかもしれないよ?」
「なに言ってるのさ。形から入って失敗したのが、糸杉くんと美春さんでしょ? まだまだお互い好きな癖に嫌いになったフリなんてするから、何もかもがめちゃくちゃになった」
「……美春の奴、そんなことまで話したの?」
「女の子はお喋りが好きだからね」
「仲良くやってるようで安心したよ」
俺はわざとらしく息を吐く。俺はもう、終わったつもりでいた。終わらせたつもりでいた。新しく始めないといけないのだと、そう思い込んでいた。……そう思い込んで、ずっと同じ場所で足踏みしていた。
椿さんはその間に、前に進んでいた。俺が終わらせたと思い込んでいたものを、また始める為に。
「糸杉くんは、あれだね。論語読みの論語知らず。いくら知識を蓄えても、それを実際に扱えないなら、何も知らないのと一緒だよ?」
「前から思ってたけど、椿さんって意外と難しい言葉知ってるよね」
「中学の頃は、文学少女だったからねー」
ツンツンと頬を突かれる。正直に言うと、中学の頃の椿さんのことは未だに思い出せていない。別に、今さら思い出す必要もないのだろうけど……。
俺は遠くに見える桜の木に、視線を逃す。
「まあでも俺は別に、何も知らないままでよかったんだけどね。知識も経験も役に立たない時にこそ、その真価を問われるものだから」
「……まーたそうやって難しいこと言って、誤魔化そうとする。そういうところ、雪坂先輩とよく似てる」
「先輩は俺みたいに、誤魔化したりはしないだろ?」
「するよ? この前も、美春さんと部室に行ったらみんなで食べようってとっておいたお菓子、1人で全部食べちゃってたもん」
「……なんかイメージと違うな。先輩ってもっと、クールな感じじゃない?」
「あの人、意外と子供っぽいよ? 糸杉くんの前だと格好つけてるだけ」
その言葉の真偽はともかくとして、俺がいないところでもみんな楽しくやっているようで安心した。そんなことで安心しているから駄目なのだと、椿さんは言うのかもしれないが。
俺はそこで足を止め、椿さんから距離を取る。
「それで? ここで出会ったのも、偶然ってわけじゃないんでしょ? みんなして、何か企んでたりするの?」
「……別になにも企んでないよ? ただ糸杉くんが全然、会いに来てくれないから、ちょっと拗ねてるだけで」
「それは──」
「美春さん、DNA鑑定したらしいよ?」
その言葉に一瞬、息を呑む。椿さんは笑う。
「さて、美術館についちゃったね? どうする、まだ私とデートする? それとも私を放って、1人で美術館に行っちゃうのかな」
「……ずるいな、それ」
やっぱり菖蒲の奴、美春たちと一緒に何か企んでやがったのか。……まあ、そもそもあいつは俺だけじゃなくて美春とも幼馴染だから、俺にだけ肩入れする理由はないのだけれど。
「まあでも、余計なお節介は、俺も変わらないか」
俺は諦めて口を開こうとする。……が、まるでそれを遮るように、視界が暗く染まる。背後から声が響いた。
「だーれだ」
俺はそれに迷うことなく、こう答えた。
「ダウナーで上から目線の嫌な女」
「残念、はずれ〜」
俺の視界を覆っていた手が、離れる。久しぶりに話す気怠げな雰囲気の少女は、悪戯前の子供のような顔で言った。
「あたしの名前は佐倉 美春。忘れたわけじゃないんでしょ?」
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