第37話 巡り合わせ
「いい風だな……」
菖蒲の家を出て、美術館に向かう道をのんびりと歩く。
「また前髪、邪魔になってきたな」
この前切ったばかりなのに、いつの間にか伸びてきた髪。時間が経つのが本当に早い……なんて、年寄りみたいな思考が頭を過ぎる。
「まだ、春なんだよな」
もう少ししたら春休みも終わり、新学期が始まる。高校生活は、まだ半分も終わっちゃいない。諦めるにはまだまだ早いし、できることなんていくらでもある。……そう分かってはいるんだ。
けれど一足早い五月病なのか。どうしても、何かを頑張ろうという気持ちになれない。そんなことを思っていると、あっという間に3ヶ月もの時間が経ったのだから、気を抜いてると高校生活もすぐに終わってしまうだろう。
「……なんか、腹減ったな」
そういえばもう1時を過ぎているのに、昼食を食べていない。美術館に行く前に、ラーメン屋にでも行こうか。……なんてことを考えながら歩いていると、誰かに肩を叩かれた。
「やほっ、こんなところで会うなんて奇遇だね? 秋穂くん」
振り返る。そこに居たのは、相変わらず作り物みたいな笑みを浮かべた少女──藤林さん。久しぶりに声をかけられたことに戸惑った俺は、一瞬、言葉に詰まる。
「……久しぶりだね、藤林さん」
一歩距離を取り、そう言葉を返す。
「あれ? なんか秋穂くん、背のびた? 雰囲気もちょっと、大人っぽくなったような……」
「気のせいだと思うよ。俺は何も変わってない」
「……そうかな? ま、本人がそう言うなら、そうなのかもね」
藤林さんが笑う。栗色の髪が風に揺れる。偽物の笑顔と、どこか危なげな雰囲気。彼女も何も、変わっていないように見える。
「実は私、これから友達とカラオケに行くんだ。よかったら、秋穂くんもどう?」
「いきなりだね。……もしかして、なにかあったの?」
「あはははは! 警戒してるねー。ま、あんなことがあったんだから、当然か。秋穂くん、私のこと嫌いになったんだろうなーっと思って声かけるのやめてたけど、間違いじゃなかったみたい!」
「別に、嫌いになったりはしないよ。藤林さんの考えは、理解できないわけじゃないから」
今が楽しいのは嘘じゃない。でも別に、それに価値があるとは思わない。明日世界が滅びるなら、それはそれで構わない。……俺はそこまで刹那的には生きられないが、共感できる部分がないわけじゃない。
「秋穂くんって優しい……というより、無関心なんだろうね? 私がしたことを、裏切りとすら思ってない。信頼のないところに、裏切りは生まれない。最初から独りな人は、孤独にはならない」
「それは俺じゃなくて、藤林さんのことでしょ?」
「私は秋穂くんみたいに、いろいろ考えたりしてないから。私は結局、今が楽しければあとはなんだっていいんだよ」
まとめるとそれだけのこと。でもこのめんどくさい社会と人生を、それだけのことにまとめてしまえる彼女は、俺にはない強さがあるのだろう。
「じゃ、私はもう行くよ。次も同じクラスになれるといいね?」
バイバーイと元気に手を振って、そのまま立ち去る藤林さん。きっと同じクラスになったとしても、大して喋りもしないし仲良くもならないのだろう。
でも、ずっと感じていた彼女に対する苦手意識は……。
「いや、やっぱり俺、君のこと苦手だわ」
違いがあるとすれば、前はそれを笑えなかったが、今は笑い飛ばすことができるということ。苦手意識はなくならなくても、向き合い方は変えられる。向きが変われば、見えるものも変わってくる。
「気を遣わせたな」
誰より自由に振る舞っているように見える彼女がその実、誰よりも周りのことを気にかけているのだろう。俺に菖蒲という友人がいるように、美春には藤林さんがいる。きっと彼女は美春の話を聞いて、つまらない映画を観た後のような顔で笑ってくれたのだろう。
「ラーメンやめて、久しぶりにパスタでも食べよ」
藤林さんが立ち去った方とは反対の方に向かって、歩き出す。春の日差しは変わらず心地よく、少しだけ歩くペースを上げた。
◇
初めて入る小洒落たカフェで、何を食べようかとワクワクしていると、見知った少女が店に入ってくるのが見えた。
「相席しても構いませんか?」
と、相変わらずこちらの心を見透かしたような顔で笑う少女──雪坂先輩。俺は少し迷って、諦めたように口を開く。
「……どうぞ」
「ふふっ、ありがとうございます」
雪坂先輩は嬉しそうな顔で、俺の正面に座る。俺は偶然って怖いなと思いながら、メニューに視線を落とす。
「ここは、ボンゴレロッソが美味しいですよ?」
と、雪坂先輩が笑う。
「そうなんですか? でも今はカルボナーラ食べたいんで、カルボナーラにします」
「いいですね。では私も、同じものにしましょうか」
2人して注文を済ませる。雪坂先輩はいつものように長い綺麗な黒髪を耳にかけ、こちらを見る。それで俺は、ふと気がついた。
「雪坂先輩、髪切りました?」
「よく気がつきましたね。この前、美容院で毛先を少し揃えてもらいました」
「そこまで長いと、手入れも大変そうですね」
「好きで伸ばしてますから、大変だとは思いません。というか、秋穂くんも髪、伸びてきたんじゃないですか?」
「あー、年明けに一回切ったんですけどね。最近、伸びるの早くて、鬱陶しいんですよ」
「いっそ、私みたいに伸ばしてみてはどうですか? 案外、似合うかもしれませんよ?」
「……遠慮しておきます」
「そうですか。それは残念ですね」
雪坂先輩は流れるように仕草で、水を口に運ぶ。当たり前の仕草も洗練されているから、妙な色気を感じる。
「秋穂くん、最近は部室に遊びにきてくれなくなりましたね?」
「行っても、話すことないかなと思って……」
「話すことなんて、ないなら作ればいいだけです。あなたは本当は、1人になりたいだけなんじゃないですか?」
「……どうなんでしょうね。どちらかと言うと、燃え尽き症候群みたいな感じかもしれません。どこに向かって歩けばいいのか、分からなくなってしまいました」
「『じつと手を出し眺めるほどのことしか私は出来ないのだ。』……って感じですか?」
「『私は随分苦労して来た。それがどうした苦労であつたか、語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。』って、ことですか? 誰が分かるんですか、そのフリ」
中原中也の在りし日の歌に、そんな詩があった。俺はついこの間、その本を読んだばかりだから反応できたが、普通は無理だ。……もしかしてこの人、俺があの本を読んでいたことを知っているのか?
雪坂先輩は、運ばれてきたカルボナーラを見つめながら、楽しそうに口を開く。
「まあ、眠ろう眠ろうと意識している間は、なかなか眠れないものです。秋穂くんは、いろいろなことを考え過ぎなのかもしれませんね?」
「俺からすれば、考えないで生きるなんてことが、既に考えられないことなんですけどね。女なんて馬鹿だーって言ってた奴が、恋人ができると反対のことを言って、振られたらまた馬鹿だーって言い出す。ちょっとは自分でものを考えろよって、思いません?」
「みんな生きるのに必死で、考えるだけの余裕なんてないんですよ」
「俺だって別に、余裕があるわけじゃないですけど……」
「貴方はどこかで、全てのことを諦めている。だから何にも必死になれなくて、考える余裕が生まれる。きっと貴方が本気になったら、多分……誰にも止められないんでしょうね」
「人を街を壊して回る怪獣みたいに言わないでください」
「ふふっ、その時は私が魔法少女になって、退治してあげますね」
「魔法少女って……まあ、退治されないよう気をつけますよ」
雪坂先輩がヒラヒラの服を着て、怪獣と戦っているところを想像し、思わず笑ってしまいそうになる。……いや、似合っていないのではなく、思った以上にハマっていたから。
「でも秋穂くんなら、いずれ自分が納得できる答えを出せると思いますよ。……きっと秋穂くんは、その答えを前にくだらないと吐き捨てるんだと思いますけど」
「くだらないと分かってて頑張るのは、しんどいんですけどね」
「世の中のものなんて全部、くだらないものですよ。子供の頃の夢が覚めて、くだらないだけの世界に価値を見つけるのが、大人に残された最後の楽しみなんです」
「……やっぱり俺、大人になんてなりたくはないです」
「そんなことを言う人は、もう大人に片足を突っ込んでるんですけどね」
会話は続く。中身のない観念論……いや、中身だけをぶつけ合う概念論。菖蒲が本心をさらけ出せる友人なら、雪坂先輩は同じ目線で戦ってくれる戦友なのかもしれない。
「……いや、違うな」
雪坂先輩は、俺に合わせてくれているのだろう。結局、この人が何を考えて生きているのか、俺にはよく──。
「私はただ、気になる男の子と一緒にご飯が食べたいだけの、普通の女の子ですよ」
雪坂先輩は笑った。普段とは違う普通の女の子のような笑み。思わず、頬が熱くなる。
「春休みが明けたら、美術部に遊びに来て下さいね? じゃないとまた、教室まで押しかけますから」
それだけ言って、雪坂先輩はカフェから出て行く。きっちり俺の分の料金も払われてしまったから、これはまたお礼に行かなければならないのだろう。
「……なんか、変わってないな、俺」
流れに流されて、気づけば相手のペースに飲まれている。もう少し主体的になった方がいいのかもしれないが、主体的になった結果がこの3ヶ月なのだから、女の子に手を引かれてる方が俺の性に合っているのかもしれない。
「そろそろ行くか」
そのままカフェ出て、美術館に向かって歩き出す。……けれどその途中、立ち塞がるようにこちらを見つめている少女の姿が見えた。
「ま、いるよな」
巡りが合わせが悪い日とは、とことん悪いのが俺の人生だ。分かっていたことだから、今さら歩くペースを変えたりしない。
「久しぶりだね、糸杉くん」
と、金髪の少女は言った。
「……久しぶり、椿さん」
と、俺は軽く片手を上げ、そう言葉を返した。
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