第31話 糸杉と桜



 見えたのは、糸杉と桜。



 キャンバスの両端に描かれた糸杉と桜が、風に揺れている。満開の桜と、どこか寂しさを感じさせる糸杉。他に見えるのは、灰が降り積もったような地面と、透き通るような青空だけ。誰でも一目見た瞬間、この絵の主役は桜と糸杉なのだと分かるように描かれているそんな絵画。


 そしてその糸杉と桜の根っこが、地中深くで絡み合っている。全体的に薄い色彩で、写実的に描かれているのに、どこか幻想的な風景。


 じっと見ていると、飲み込まれるような……或いは、自分の心と向き合っているような、そんな不思議な気分にさせられる。


「いい絵ですね」


 と、俺は小さく呟いた。それは本心からくる言葉だった。けれど同時に、俺はこうも思った。


 

 ──この絵はなんて、気持ちが悪いのだろう、と。



 まるで俺の心を切り取って、それをそのままキャンバスに貼り付けたような絵。他の誰が見ても、きっとこの絵の意味は分からない。どこか生々しく絡み合っている根っこの意味なんて、伝わるわけもないだろう。


 でも俺には……いや、俺と美春にだけは分かってしまう。


「…………」


 手をぎゅっと握りしめ、目の前の絵をビリビリに破いてしまいたいという衝動を抑える。


 雪坂先輩は、静かな笑みを浮かべて言った。


「この絵は、貴方と美春さんの根っこを描いたつもりです。私にできる全てを使って、貴方の為にこの絵を描きました。だからきっと……秋穂くんは、この絵を見たら怒るのだろうと思っていたんですけど……意外と冷静ですね?」


「……、もしかしたら怒ってたかもしれませんね」


「なら、タイミングはよかったということですか」


 雪坂先輩は笑う。俺は笑わない。


「私、実はいろいろと調べて回っていたんです。貴方と、美春さんのことを。それで偶然、面白い噂を耳にしたんです」


「噂、ですか?」


「……貴方と美春さんに、血の繋がりがある。秋穂くんたちが中学生の頃、そんな噂が流れていたようですね? ……もっとも、美春さんがすぐに噂の出所を潰してしまったようですが」


「…………」


 俺は何も答えない。……それが事実かどうか、確かな証拠はどこにもない。ただ、俺の父さんが昔からの幼馴染……美春の母親とずっと浮気をしていて、俺と美春には少しの共通点がある。


 別にDNAを調べた訳じゃないし、もしかしたらただの勘違いなのかもしれない。……でもきっと多分それが、美春が変わってしまった1番の理由。


 両親にDNA鑑定をしたいなんて頼むのは、簡単じゃない。俺はともかく美春にとってその行為は、今までの家族を否定することになる。……きっと美春には、できなかったのだろう。俺がその事実から、目を背けたのと同じように。


 身体に溜まった熱を吐き出すように、大きく息を吐く。


「俺、父さんと母さんによく言われるんですよ。本当に愛してるのは、お前だけだって」


「形はどうあれ、愛されるのはいいことなんじゃないですか?」


「本当にそう思います?」


「…………」


 雪坂先輩は答えない。俺は言葉を続ける。


「あいつら自分のことを棚に上げて、都合のいいことばかり口にする。……好きって感情に、本物も偽物もあるかよ。ただ目の前の人間が好きか嫌いかってだけの話なのに、どうして皆んな、そんな簡単なことも理解できないんでしょうね?」


「みんな、言い訳が欲しいんですよ。昼ドラとかで、あるじゃないですか。男も女もあっちこっちで浮気して……みたいなの。この人では、私を幸せにできなかった。でも別の人となら、幸せになれるかもしれない。いい歳して、幸せになる為に人を愛する。本当は逆なのに」


「……逆って、不幸になる為に人を愛するってことですか?」


「違います。愛とは不幸を受け入れることなんです。この人と一緒なら不幸になってもいいと思うことを、私は愛だと思います。幸せになれるなら、誰の隣にいても同じじゃないですか」


「確かに。料理は誰と食べるかが大事とか言いますけど、誰の隣で食っても美味いもんは美味いですからね」


 やはりこの人の感性は、俺とよく似ている。……でも、分からないことがあるとするなら、それは……。


「でも、どうして雪坂先輩は、こんな絵を描いたんですか?」


 確かにこれは、いい絵なのかもしれない。俺は絵のことはよく分からないが、もしかしたらこの絵はコンテストに入賞したりするのかもしれない。


 ……でもこの絵は明確に、俺に向けて描かれたものだ。一言で伝わるようなことを、わざわざ時間をかけて絵にする。その行為に、果たして何の意味があるのだろうか?


 雪坂先輩は絵の正面に立ち、楽しそうに両手を広げて言った。



「──私はただ、私の描きたいものを描いただけですよ」



 その笑みはまるで、子供のような笑みだった。そんな顔をされたら、俺はもう何も言えない。


「秋穂くん。私からも1つ、訊いてもいいですか?」


「なんですか?」


「どうして秋穂くんは、自分から傷つきに行くような真似をするんですか?」


「……え?」


 言葉の意味が分からず、俺は首をしげる。


「だって、そうじゃないですか。私はともかく……椿さんと付き合えば、貴方は今よりずっと幸せになれる。なのに貴方は、他人から見たらどうでもいいことに拘って、他人も自分も傷つける。それは一体、どうしてなんですか?」


「…………」


 その答えは簡単だった。でもどうしてか、言葉に詰まる。俺は真っ直ぐに目の前の絵を見つめたまま、しばらく黙り込んでしまう。


 遠くから、文化祭の喧騒が聴こえてくる。こんなところでつまらない問答なんかしてないで、俺も向こうで皆んなと騒いでいれば、きっと人生はもっと楽しくなるのだろう。


 友達を作って。恋人を作って。家族と仲直りして。部活に打ち込んで。勉強を頑張って。文化祭ではしゃいで。そうやって生きられたなら、人生はもっと簡単になる筈だ。


 なのに俺は、愛の証明だとかくだらないことに拘って、青春と人生を浪費する。……確かに、側から見ると酷く馬鹿馬鹿しいことをしているのかもしれない。


 俺は、大きく息を吐いて言った。


「実は俺、変態なんですよ」


「……え?」


 雪坂先輩は珍しく、驚いたように目を見開く。俺は久しぶりに小さく笑って、言葉を続ける。


「みんなと笑い合うより、ぐだぐだと答えの出ないことを悩み続けてる方が好きなんです。だから変態なんですよ、俺は。感性が人とは違う。だから俺は……これでいいんです」


「ふふっ、やっぱり糸杉くんは真面目なんですね」


 雪坂先輩はゆっくりとこちらに近づき、どうしてが俺の頭を撫でくれる。まるで、我儘な子供をあやすような手つきで。


「人は誰しも、傷つかなければならない時がある。傷がついても、治しちゃいけない時がある。どれだけ痛くても、1人で耐えなきゃならない時がある。みんながみんな、貴方のように自分の痛みを受け入れられたら、きっと世界はもっとよくなるんでしょうね」


「世界が平和になったら、あとは滅びるだけですよ」


 そしてそれは、人も同じだ。幸せになった後は、不幸になって死ぬだけだ。


「相変わらず、秋穂くんは面白いことをいいますね。……でもみんな、貴方みたいにいろいろ考えてる訳じゃない。楽しくて幸せなら、それでいいんです。今食べてるものが美味しいなら、それが何でできてるかなんて誰も興味はない」


「最近は健康健康、うるさいですけどね」


 俺はわざとらしく、肩をすくめる。雪坂先輩は俺から手を離し、近くの机に腰掛ける。


「身体の健康と心の健康は、また別の話です。正しい心のあり方なんて、そんなものは誰にも分からないことなんですから」


「ですね。……でも、だから俺は、1個くらい確かなものが欲しいんです。……本当に、それだけなんですよ」


 愛の証明は失敗した。ならこれから、俺がするべきことは……。


「心こそ心迷わす心なれ。心をどこにも置かないことが、禅の極地だそうですよ? 秋穂くんはもう少し、肩から力を抜いた方がいいと思います」


「どこにも置かないなら、ないのと同じじゃないですか?」


「本当にないなら、傷もつかない筈なんですけどね」


「……それは確かに、そうですね」


 そこで俺はようやく、雪坂先輩の絵から視線を逸らす。……目が乾く。瞬きを忘れてしまうくらい、この絵に見入ってしまっていたようだ。


「先輩はこの絵を、美春にも見せるつもりなんですか?」


「そうです。美春さんにも声をかけてます。……もっとも、彼女が私の誘いに乗ってくれるかどうかは、分かりませんけど」


「じゃあ、もしあいつが来たら、伝えてもらっていいですか? ……いつもの場所で、待ってるって」


 俺はそこで先輩と絵に背を向けて、歩き出す。


「もう帰るんですか?」


「いや、もうすぐしたら演劇部の劇が始まるんで、体育館に行こうかなって」


「……ああ。そういえばうちの演劇部は、有名でしたね。確か演目は……シンデレラでしたっけ?」


「そうです。よかったら一緒に観ますか?」


 一度足を止め、振り返る。雪坂先輩はいつものように長い黒髪を耳にかけ、首を横に振る。


「やめておきます。……私、嫌いなんですよ、シンデレラって。見終わるといつも、夢から覚めたような気分にさせられるから」


「そうですか。奇遇ですね、俺も嫌いですよ。シンデレラ。……というか、いつまでも自分のことをお姫様だと思ってる女は、全員嫌いです」


「ふふっ。秋穂くんは知らないんですか? 女の子はいくつになっても、お姫様なんですよ?」


「多分、シンデレラを虐めてた義姉や継母も、最後まで自分のことをお姫様だと思い続けてたんでしょうね」


 俺は最後にそう呟いて、美術室から立ち去る。雪坂先輩は去り際に何か、小さく呟いた気がするが、冬の冷たい風が邪魔をしてその言葉が俺の耳に届くことはなかった。


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