第30話 鏡
そして、期末テストから1週間。文化祭が始まった。
「……ねむ」
騒がしい廊下を歩きながら、軽く伸びをする。この1週間、ろくに運動もしないどころか、声も出さない生活をしていたせいで、文化祭の喧騒が頭に響く。
「あ、あ。……うん、ちゃんと声出てるな」
軽く喉を押してから、息を吐く。
部屋に引きこもってまで頭を悩ませて、それで考えがまとまったのかと問われば、答えはノー。ずっと同じところをグルグルと回っていただけで、少しも前に進んじゃいない。
「ま、とりあえず、雪坂先輩のところに行ってみるか」
文化祭は自由参加。見たところ、美春の姿はまだない。ならまずは約束していた通り、雪坂先輩が描いた絵を観に行こう。そう決めて、美術室に向かって歩き出す。
自分をモチーフにした絵を観るのは正直、照れくさい。でも、雪坂先輩の絵は観ておきたいし、何より彼女と話しておきたいことがあった。
「おはようございます、今日は早いんですね? 秋穂くん」
そこでタイミングよく、雪坂先輩が姿を現す。相変わらず、人目を集める先輩だ。俺は警戒するように一歩あとずさり、頭を下げる。
「おはようございます、雪坂先輩。今ちょうど、美術室に行こうと思ってたんです」
「そうなんですか。では、一緒に行きましょうか?」
そうして、2人並んで歩き出す。
「美術部は今、展覧会? みたいなのをやってるんですよね?」
そう尋ねてから、横目で雪坂先輩の様子を確認する。
いつもと変わらない、綺麗な黒髪。姿勢のいい立ち姿に、男でも背の高い方の俺とあまり変わらない身長。やっぱりこの人は、美人だ。他人事のように、そう思う。
雪坂先輩は、静かに口元を歪めて言った。
「そうです。ただ残念ながら、お客さんの入りは、あんまりよくないんですよ」
「そうなんですか?」
「はい。……まあ、今年は展示物も少ないですし、美術室は離れた場所にあるので、仕方ないと言えばそれまでですが」
「雪坂先輩が客引きしたら、男子はみんな喜んで観に行くと思いますよ?」
「メイド服を着て、ですか? そういうのも楽しくていいのかもしれませんが、今年は見たい人に見て頂けるだけで充分です」
雪坂先輩は、いつもの静かな笑みを浮かべる。俺は視線を逸らさず、そんな彼女を見つめ返す。
「…………」
「…………」
少しの間、無言の時間が続いて、俺は言った。
「藤林さんを俺にけしかけたのは、雪坂先輩ですか?」
「どうして、そう思うんですか?」
雪坂先輩は、少しの動揺も見せない。俺は言葉を続ける。
「理由も証拠もありません。ただの勘です。そもそも雪坂先輩みたいに賢い人が、俺に証拠を掴ませるとは思えない。だから、違うなら否定してください。いや──」
俺はそこでふと、あることを思い出す。
「雪坂先輩、前に言ってましたよね? 絵が完成したら、なんでも1つ言うことを聞いてくれるって。だったら先輩、俺の問いに嘘偽りなく正直に答えてください。藤林さんを俺にけしかけたのは、雪坂先輩ですか?」
「ふふっ、そんなことで貴重なお願いを使ってもいいんですか? 貴方が望むなら、私は別にどんな命令でも構わないのに」
「他人に無理やり感情を押しつけるのは苦手なんで、これで構いません。だから、答えてください。……藤林さんを俺にけしかけたのは、雪坂先輩ですか?」
人通りが少なくなった廊下で足を止め、俺は真っ直ぐに目の前の先輩を見つめる。先輩は眉一つ動かさず、いつものように綺麗な黒髪を耳にかけ、言った。
「そうですよ。私があの人を、貴方にけしかけたんです」
「……どうして、そんなことをしたんですか?」
「それは、難しい問いですね」
「答えられないことですか?」
「いえ、難しい問いの答えは、どうしても難しい答えになってしまうので、少し言葉に迷います。……まあでも端的に言うなら、『確かめたかった』ってところですかね。検証ですよ、検証」
「────」
思わず、黙り込んでしまう。……ゾッとした。なんだか言葉にできない感情に、無理やり口を閉ざされたような感覚。俺は明確に今、この人が怖いと思った。
「秋穂くんは愛を……人を好きになるって感情を、どういう風に定義しますか?」
「……定義なんてできませんよ。そんなの誰にも、できない筈だ」
「そうですね。その考えは間違ってはいません。……間違ってはいませんけど、少し思慮が足りない。定義しようと思えば、愛なんて簡単に落とし込める。……秋穂くんは、こういう実験を知ってますか?」
雪坂先輩は、ゆっくりと歩き出す。俺は黙ってその背に続く。
「親子の猿を小さな檻に閉じ込める。そして彼らの足元に電流を流す。最初は親猿が子猿を抱える。足元の電流は痛いけれど、親は子供のために頑張ってそれに耐え続ける」
「……それで?」
「それから徐々に徐々に、流す電流を強くする。すると電流の強さがある一点を超えた時点で、親猿は子猿を見捨てる。親は子供を踏みつけにして、自分だけ電流から逃れるようになる。個体によって程度の差はあれ、最終的には絶対に親は子を見捨てる」
「……なんですか、その胸糞の悪い実験は」
「とある本で読んだんです。実際にそんな実験があったかどうかは、私も知りません。ただこの実験を見ると、愛は簡単に定義できる。そうは思いませんか?」
雪坂先輩は、淡々と言葉を続ける。……あくまで淡々と、彼女は言う。
「電流に耐えきれなくなるまで、子供を守ること。それが愛情なんです。それが愛情の限界なんですよ」
「……どれだけ愛していても、想いには限界があるって言いたいんですか?」
「想いだけじゃない。限界は何にだってある。努力の限界。才能の限界。そして……悪意の限界。秋穂くんも、美春さんの横暴に限界がきたから、彼女を振ったのでしょう?」
「それは……」
それは確かにその通りで、でもだとするなら美春のあの行いは、ただ……。
「この世界に永遠なんてない。私は、貴方の限界を……貴方の価値を確かめてみたかった。だから貴方に、負荷を与えてみることにしたんです」
「それがあのストーカー。……趣味が悪いですね」
「貴方の趣味に合わせたんですよ。お陰でいい絵が描けました」
悪びれる様子もなく、雪坂先輩は笑う。
「秋穂くん、私は貴方に惹かれている。愛していると言っても、差し障りないくらいに。……でも、それをそのまま貴方に伝えて私を愛して欲しいなんて言うのは、少し……気持ちが悪いでしょう?」
「…………」
俺は何も言わない。雪坂先輩が変わった人だということは知っていた。でもこのものの考え方は、駄目だ。……俺と同じだ。これじゃあ最後は、1人になる。
雪坂先輩は、美術室の前で足を止めこちらを見る。石鹸のいい香りが漂ってくる。何から何まで、隙のない先輩。でもこの人は多分……。
「秋穂くんは、ショーペンハウアーの『幸福について』を読んだことはありますか?」
「哲学書でしたっけ? 生憎と、その手の本はあまり……」
「そうですか。多分、秋穂くんは……気に入らないと思うので、一度読んでみるといいですよ。なんなら今度、貸しますよ?」
「……いや、結構です。それより、その本がどうかしたんですか?」
俺の問いに、雪坂先輩は笑う。雪のような冷たい笑みで、彼女は言う。
「その本には『幸福とは人間の一大迷妄に過ぎない』という言葉が、書かれてるんです。解釈はいろいろとありますけど、私はそれを言葉通りに受け取りました。幸福なんて存在しないという言葉に、私は救われたんです」
「それは……」
それが多分、この人の行動の動機。俺が愛を検証していたように、この人はきっと……幸福を検証している。
「私に『頑張れ』と言ってくれる人は沢山います。同じように、『頑張らなくてもいい』と言ってくれる人もいる。そういう人もそういう物語も、この世界には腐るほど存在する。でも『頑張る価値はない』そう言ってくれる人は、貴方以外いないんですよ」
「……俺はそんなこと、言った覚えはないですけど」
「でも、心のどこかでそう思ってる。頑張ることにも、頑張らないことにも価値はない。全ての事象に無価値だとレッテルを貼ってからでないと、前に進むことができない。そんな孤独を貴方は理解できてしまう」
「俺はそこまで、虚無主義ではないですよ。先輩の言ってることは、おかしい。プロ野球選手を目指してる子供に、本物のプロ野球選手が『プロになっても楽しくないよ』と、言ってるようなものだ。……そんなに、残酷なことはない」
「だから、私の考えは大抵の人には理解されない。でも貴方は理解できてしまう。皆、幸福にならなければならいという呪いにかかっている。人は誰しも、不幸に死ぬ権利を保有しているというのに……」
雪坂先輩が俺を見る。穴が空いたような目で、真っ直ぐに俺を見つめ続ける。
「どれだけバナナを集めても、猿は猿でしかない。どうして皆んな、そんな簡単なことも理解できないんでしょうね?」
「それは多分、理解してもしなくても、バナナを食べないと生きられないからですよ」
「それは1つの真理ですね。……というか、すみません。少し話が逸れました。この手の話に付き合ってくれる人は中々いないので、ついはしゃいでしまいました」
「……構いませんよ」
俺は先輩から視線を逸らす。これ以上この人を見つめていると、頭がおかしくなりそうだ。
「私はただ……誰かに叫んで欲しかっただけなんです。この世界に価値はないと、ただ誰かにそう叫んで欲しかった。それだけなんですよ。……貴方なら、私の気持ちを分かってくれるでしょう?」
「…………」
俺は何も答えない。彼女が抱える弱さを、確かに俺は理解できる。……多分、美春よりも、椿さんよりも、藤林さんよりも、この人は俺のことを理解してくれる。
好きでもないのに愛し合う矛盾を、この人だけは理解してくれるのだろう。
「……でも、それじゃ駄目なんだよ」
俺は小さく呟いて、雪坂先輩の視線を振り払い、美術室に足を踏み入れる。文化祭の喧騒も届かない静かな部屋。美術室には、俺たち以外に誰の姿もない。
そして、なんの説明もされずとも、その絵が雪坂先輩の描いた絵だというのはすぐに分かった。その絵は鏡だった。俺を映す鏡ではなく、俺に向けた鏡だった。
「──はっ」
だからその絵を見た瞬間、俺は思わず、笑ってしまった。
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