第18話 原因
あのあとしばらく、椿さんは俺の胸で泣き続けた。今までの椿さんのイメージとは違う、触れたら壊れてしまいそうな弱々しい姿。俺は彼女を振り払うことも、優しく抱きしめ返すこともできず、下校時間を知らせるチャイムが鳴るまで呆然とただ立ち尽くすことしかできなかった。
そして、チャイムが鳴った後。見回りの先生に見つかる前に、ふらふらと歩く椿さんを連れて学校を出た。
「…………」
いつもと同じ見慣れた帰路。椿さんは赤い夕焼けに視線を向けたまま、言った。
「さっきは、ごめんね? 変なとこ見せちゃって……」
「……別にいいよ、気にしてない」
俺は慎重に言葉を選びながら、そう返事をする。
「ほんとに?」
「多分、ほんとに」
「なにそれ」
椿さん笑う。弱々しい今にも崩れてしまいそうな笑み。……俺は、笑えない。
「私ね、実は昔この街に住んでたんだよ」
「……さっき美春も、そんなこと言ってたね」
「うん。小学生の低学年の頃。ほんの……一時期だけ。昔はうちのお父さんの仕事が忙しくて転校ばっかりだったから、糸杉くんが覚えてないのは……無理ないよ」
「…………」
隣を歩く椿さんを見る。相変わらず整った綺麗な横顔。でも、そこにいつもの華やかな笑みはなく、何かを諦めたような乾いた笑みが張り付いている。
「私にとって、この街の思い出は特別だった。鈍臭くて人見知りで何もできなかった私に、優しくしてくれた人がいたから」
「……それが、俺のことなの?」
「……うん。でもいいんだ。昔の私はカッコ悪かったから、思い出さなくていいよ。忘れてくれて……いいんだよ。せっかく綺麗な桜が咲いてるのに、わざわざ枯れ枝だった頃のことなんて思い出す必要はない」
「でも、それはずるいって、前に言ってなかったっけ?」
「ずるい女なんだよ、私は」
椿さんは疲れたように息を吐く。風が吹いて、彼女の綺麗な金髪が揺れる。
「さっき、美春と何があったのか……訊いてもいい?」
「話したくないって言ったら?」
「何も訊かないよ。この前……俺が美春と言い合いした後、椿さんは何も訊かないでくれたでしょ?」
「でも糸杉くんは、話してくれた」
「それは、俺が話したいから話しただけだよ。別に椿さんが俺に合わせる必要はないよ」
「……やっぱり、糸杉くんは優しいね」
椿さんが息を吐く。でも多分俺は、優しいんじゃなくて臆病なだけ。……自分の弱さが嫌になる。
椿さんは、何かを探すように視線を彷徨わせてから、口を開く。
「……今朝さ、またあのマッシュくんに声をかけられたんだ。だから私、言ったんだよ。他に好きな人がいるって」
「またあいつか……」
「うん。そしたらマッシュくん、驚いた顔でどっか行って、私よかったーって思ってたんだけど、でも……昼休み。あの人また私のところに来て、言ったの。糸杉くんは、美春さんと付き合ってるって」
「あのキノコ……勝手なことを……」
昼休み、教室で美春と何か話していると思っていたが、それと何か関係があるのか? なんにせよあのキノコ、余計なことばっかりしやがって。今度あいつとも、ちゃんと話さないと駄目かもしれない。
「糸杉くんが、美春さんのことをもう好きじゃないっていうのは、私も知ってるつもりだった。……でも、クラスの他の子たちも、言うんだよ。余計な揉め事を起こしたくないなら、美春さんと……糸杉くんには関わらない方がいいって」
「美春はともかく、俺までそんな風に言われてるのか」
「うん。それで私、カチンときちゃって。美春さんは昔から、糸杉くんに迷惑ばっかりかけてる。なのにあの人は、少しも糸杉くんに感謝してない。だから私は放課後、美春さんを探し回って、それで……」
「それで、喧嘩して言い負かされちゃった?」
冗談めかして軽く笑う。椿さんはいつものように、俺の肩を軽く叩く。……よかった。少しだけでも、元気が戻ってきたようだ。
「糸杉くんがね、ストーカー被害に遭ってたことは私も知ってたの。中学の頃、少しの間だけこの街に帰ってきてたことがあったから」
「それなら声、かけてくれたらよかったのに」
「……かけたんだよ。でも糸杉くん、私のこと覚えてなかった」
「……ごめん」
「いいよ。そのお陰で私、変われたから。いつまでも過去に縋ったままの、弱い女じゃ駄目だって分かった。だから私、頑張った。髪を染めて、スキンケアして、性格も明るくして。新しい椿 冬流として、貴方に……会いたかったから」
「偶然じゃなかったんだね。道に迷って、声かけて来たの」
「スマホが壊れちゃったのは、本当に偶然だけどね」
椿さんは小さく笑う。……正直、その笑顔に心当たりはない。小学生の頃の知り合い。俺は元々、記憶力がいい方ではないから、椿さんのことだけじゃなくて昔のことなんてほとんど覚えてない。
……それに多分、当時の俺は美春のことしか見えてなかったのだろう。
「…………」
しかしそれでも、ストーカー被害に遭ったのは中学の頃だ。その時のことを覚えてないのは、どう考えてもおかしい。そこにはきっと、俺が忘れてしまった何かがある。
「……あ」
そんなことを考えていると、ふと、俺はとある事実に気がつく。
「椿さん、制服変わってるじゃん。ちゃんとうちの高校のになってる!」
先週まではずっと前の高校の制服で、それもそれで彼女に似合っているなと思っていたが、ようやく新しい制服が届いたようだ。いろいろあったのと、あまりに馴染んでいたせいで、気づくのに遅れてしまった。
「えぇ、今頃……。いや、気づいてくれたのは嬉しいけど、今になってそんな驚かれても反応に困る」
「そう? でも似合ってるよ。可愛い」
「……ありがと」
また、ぺしぺしと肩を叩かれる。少しずつではあるが、調子が戻ってきたようだ。俺は軽く伸びをして、身体から少し力を抜く。
「俺さ、美春がなんて言おうと椿さんがストーカーだなんて思わない。そもそも椿さんには……」
「私には……なに?」
「いや、なんでもない」
俺は誤魔化すようにそう言って、視線を逸らす。
「それより、1個だけ聞かせて欲しい」
「……なに?」
「どうして椿さん、あんなに怒ってたの? 椿さんが、俺と幼馴染だったってことは分かった。マッシュくんが余計なこと言って、美春を探してたってことも理解できる。でも……どうして美春が椿さんをストーカー扱いして、椿さんはあんなに怒って……泣いたのか。それだけ、聞かせて欲しい」
俺が椿さんを信じるかどうか。椿さんが俺を信じるかどうか。話したくないと言うのなら、別に無理して聞く必要はない。
……でも、何もかもを秘密にしたまま笑い合えるような関係を、どうしても俺は想像できない。俺は椿さんの根っこの形を知りたい。華やな椿さんの裏側を知らないままでいたくない。
だから俺は真っ直ぐに椿さんを見る。椿さんはそんな俺を静かな目で見つめ返し、言った。
「……見た目は変わっても、陰気な中身は変わってないって言われたの。だから私、怒ったんだよ……実際、私もちょっと同じようなこと思ってたから、頭にきちゃって」
「そんなことはないと思うけど……」
「ほんとに? 無理してるように見えない?」
「見えない見えない。俺、椿さんの第一印象、友達作りに困らなさそうだなーだもん」
「……そっか。ずっと不安だったけど……うん。糸杉くんにそう見えてたなら、ちょっとは頑張った甲斐はあったのかもしれないね」
椿さんは笑う。肩から力が抜けた自然な笑顔で、俺は少し安心する。
「ねぇ、糸杉くん。私からも1個いい?」
「いいよ、なに?」
と、俺は軽い気持ちで言葉を返す。椿さんは視線を逸らすことなく、真っ直ぐにこちらを見つめて言う。
「さっきさ、これから美春さんの家に行くって言ってたけど、あれ……辞めて欲しい。行かないで欲しい」
「いや、でも……俺は──」
「うちも今日、お父さんとお母さん帰ってこないの。だから、待ってる。私も糸杉くんに聞いて欲しい話、沢山あるから。だから……待ってるかね?」
「ちょっ、椿さん! ……って、行っちゃった」
椿さんは言いたいことだけ言って、そのまま走って行ってしまった。勝手だなとは思うけど、責める気にはなれない。自分勝手なのは、俺も同じだ。
「……そもそも椿さんがストーカーなんて、あり得ないんだよな」
この前、あの手紙が届いた日。俺は椿さんと一緒に、美術部の部室で雪坂先輩と話をしていた。あの手紙に住所なんかは書かれてなかったから、直接、郵便受けに投函したのは間違いない。
だから椿さんには、アリバイがある。……あまり関係はないが、雪坂先輩にもアリバイがある。逆にアリバイがないのは……。
「やっぱり話を聞かないといけないのは、あの女の方か」
俺はゆっくりと暮れていく夕焼けを眺めながら、大きく息を吐いた。
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