第17話 怒り



「貴女に……貴女に! そんなこと言われたくない……!」


 そんな聞き覚えのある声が、近くの空き教室から聴こえてきた。その声はどう考えても……椿さんの声で、だから俺は慌てて美春が言っていた空き教室の扉を開く。


「なにやってんだよ! 美春!」


「……ようやく来た」


 そこに居たのは怒り……というよりは、どこか冷めた目をした美春と、今にも叫び出しそうなくらい顔を真っ赤にした椿さん。


 椿さんは怒りに任せて美春の胸ぐらを掴み、背の高い美春はそんな椿さんをただ見下ろしている。2人の間に何があったのかなんて、俺には全く分からない。しかしそれでも、このまま傍観していていい状況じゃないのは分かる。


 俺は慌てて、椿さんの方へと走る。


「椿さん! 何があったのか知らないけど、暴力は駄目だって!」


 羽交いじめするような形で、椿さんを抑える。


「離して! 離してよ、糸杉くん! こいつ……この女は、私に……私にっ!」


「ちょっ、椿さん! 落ち着いて落ち着いて! そんな風に暴れたら……危ないって!」


 手を離すとすぐにでも美春に掴みかかろうとする椿さんを、なんとか美春から引き離す。


「…………」


 対する美春は俺には視線を向けず、相変わらずの冷めた目で椿さんだけを見つめ続ける。


「おい、美春。お前、椿さんになにしたんだよ? どうして俺を呼び出しておいて、椿さんと喧嘩してるんだ? 意味わかんねーよ」


「別にあたしは、大したことは言ってないわ。ただその子、どこで聞いてきたのか知らないけど、急に『話したいことがある』なんて言ってきたから、あたしはそれに答えてあげただけ」


「……なにを話をしたんだよ?」


「あんたの見る目がないって話よ。……あんた、ほんと昔から人を見る目がないわね。昔と見た目が変わってるから気づかなかったんでしょうけど、その子は──」


「違う! 私は……私は、ストーカーなんかじゃない……!」


 美春の言葉を遮るように、椿さんが叫ぶ。美春はそんな椿さんを見て、嘲るように笑う。


「昔、いたでしょ? 小学生の頃、よくあたしたちの後ろをついて来てた鈍臭い眼鏡の子。それがこの子なのよ」


「いや、なに言ってんだよ。椿さんは転校生で、小学生の頃は──」


「一緒だったのよ。よく思い出してみなさい。大きな黒ぶち眼鏡をかけた子よ」


「…………」


 そう言われて少し頭を悩ませるが、どうしても……思い出すことができない。


「あはっ。やっぱり覚えてないじゃない。……だからあたし、言ったでしょ? 秋穂はあんたのことなんて、覚えてないって」


「……っ。私は別に、覚えてて欲しかったなんて思ってない。ただ、私は……」


「なにそれ。本当は覚えてて欲しかったくせに。無理してるのが見え見え。馬鹿みたい」


「違う! 私は……私は、本当に……」


 椿さんは電池が切れたおもちゃのように、力なくその場に膝をつく。……まだ状況が上手く把握できていない俺は、どんな言葉をかけていいのか分からず、動くことができない。


「いや、でも椿さんの過去がどうであれ関係ない。そもそも椿さんは、あの女……ストーカーじゃない。……他でもない俺が、あの女の顔を忘れるわけないだろ?」


「ほんとに?」


「決まってるだろう。俺は──」


「本当にあんたは、あのストーカーの顔を覚えてるの?」


「…………」


 改めてそう言われて、また少し頭を悩ませる。……でも、駄目だ。上手くいかない。……あれ? なんでだ。嫌なことだから、思い出さないようにしていたのは確かだ。でも、こんなにすっぽりと、まるで穴が空いたみたいに思い出せないのは流石におかしい。


「……なんだよ、これ」


 あの少女の壊れたような笑顔。一時期は頭にこびりついて離れなかったのに、どうしても思い出すことができない。……薄らとは思い浮かぶが、どれだけ頑張っても焦点が合わない。



 もしかして俺は、何か大切なことを忘れているのか?



 美春がこんな風になってしまった理由。椿さんのこと。ストーカーのこと。……俺が忘れてしまっただけで、本当は全部……繋がっているのか?


「あんたはなにも分かってない。なにも分かってないから、分かってないことすら分かってない。……ほんと、馬鹿みたい」


「……だとしても、椿さんを傷つけるようなことを言うのは辞めろ。いや、違う。そうじゃない。そんなことを言いにここに来たわけじゃない。俺は、お前に……」


 そこで思わず、口を閉じる。この状況で、何を話すというのか。椿さんは力なくうずくまり、両手で顔を覆っている。


 そもそも俺が遅くなったせいで、あと10分もすれば下校時間を知らせるチャイムが鳴る。どう考えても、ゆっくり話をするような状況じゃない。


「…………」


 美春もきっと、同じようなことを思ったのだろう。彼女は一度、呆れたような目で椿さんを見てから、大きく息を吐く。


「今日、うちの親帰ってこないから。夜、家来て」


「……別にわざわざ家に行かなくても、明日でも──」


「よくない。よくないからあんたも今日、ここに来たんでしょ?」


「…………」


 思わず口を閉じてしまう俺。なんだか今の美春は、普段よりもずっと理性的に見える。椿さんの様子がおかしいことはひと目見たら分かるが、どうやら美春の様子も普段とは違うようだ。


「とにかく……待ってるから」


 朝と同じような言葉を残して、美春は立ち去る。夕暮れの薄暗い空き教室に残ったのは俺と、未だにうずくまったまま動かない椿さん。


「…………」


 椿さんがあのストーカーなわけがない。……そう思うのに一瞬、戸惑ってしまう自分がいた。


 椿さんと知り合ってから1週間経たないうちに、またあの時と同じような手紙が届くようになった。時おり、変な視線を感じるようになった。……でも椿さんは、知り合ったばかりの俺に優しく寄り添ってくれた。



 こんないい子が、ストーカーなわけがない。



 ……そう思いたいけど、俺は知らない。椿さんの根っこの形を。優しい椿さんの裏側を。そもそもどうして俺は、ストーカーの顔を忘れてるんだ?


「いや違う。俺は、決めたんだ。いつまでも疑っても仕方ない。……椿さん、大丈夫?」


 今はとりあえず余計な疑問を飲み込んで、うずくまる椿さんの肩に手を置く。


「糸杉くん!」


「ちょっ、椿さん⁈」


 椿さんが俺に抱きついた。俺は思わず身構えてしまうが、椿さんは俺に危害を加えるような真似はせず、ただ俺の胸で泣いた。


「……何があったの?」


 と、俺は問う。けれど椿さんは、しばらく痛みを堪えるような声で泣くだけで、何も答えてはくれなかった。


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