第10話 サイコロ



 翌日も、美春は学校を休んだ。


「…………」


 当然ではあるが、俺は美春に会いになんていかなかった。今さら、どの口で『会いたい』なんて言ってるんだというのもあるし、弱った時だけ優しくしても、どうせあいつは元気になれば全て忘れる。


 1人で泣いて苦しんで、少しは反省すればいい。


「……いや、もう関係ないか」


 今さら美春が反省したところで、俺にはもう関係がない。あいつが本気で反省して頭を下げて来たとしても、俺はもうあいつの言葉を信用することはできない。仲直りできる地点は、とっくに通り過ぎてしまった。


 ……きっとあいつには、そんなことも分からないのだろうけど。


 そんな風に、益体もないことを考えているとあっという間に授業が終わって、放課後。俺は雪坂先輩の絵のモデルになる為に、美術部の部室に向かう。


「……でも藤林さんも、何を考えてるのかな」


 昨日と同じように今日も、藤林さんがいろいろと声をかけてきたが、流石に今日は断った。……もしかしたらあの子も、俺が思ってるほど悪い子ではないのかもしれないが、どうしても苦手意識が先にくる。


「……あ。今日は椿さん、これないのか」


 途中、椿さんからメッセージが届く。『今日は家の用事があるから、一緒には帰れない』。彼女は律儀に、そんなメッセージを送ってくれた。俺はそれに『了解』と返信をして、部室の扉を開ける。


「秋穂くん、来てくれて嬉しいです」


 背筋を伸ばして椅子に腰掛けた雪坂先輩が笑う。いつもの優しい、静かな笑み。俺はつい、視線を逸らしてしまう。……そしてまた、勧められるがまま雪坂先輩の前に座って、観察の時間が始まる。


「秋穂くん。もしかして何か、悩み事でもありますか?」


 しばらく、無言の時間が続いた後。俺がチラリと窓の外に視線を向けた瞬間に、雪坂先輩はそんな言葉を口にした。


「……どうして、そう思うんです?」


 俺はつい、誤魔化すような言葉を返す。


「今日はなんだか少し、意識が他の方を向いているように見えたので。……外れてましたか?」


「…………」


 俺は少し考える。悩み事。思い当たるのは、美春と別れてからのこと。ストーカーからかもしれない手紙が、また届いたこと。……或いは、昨日の電話のこと。


「……すみません。私の勘違いだったようですね」


 黙り込んでしまった俺を気遣ってか、雪坂先輩はそう言って、それ以上は何も訊かないでくれる。ストーカーの件はともかく、美春のことは話してもいいのかもしれないが、あまり感情的になっているところを見られたくはなかった。


 ……この人が俺の、そういうところを見たいのだとしても。


「雪坂先輩は、普段はどういう絵を描くんですか?」


 話を逸らす為に、俺はそんな問いを口にする。雪坂先輩は笑って、答えてくれる。


「私はなんでも描きますよ。風景画も人物画も、抽象画も」


「器用なんですね」


「というより、できることは何でもやってみたいだけなんです。……昔、教わっていた先生には、節操がないとよく怒られましたが」


「なんでも描けることは、いいことじゃないんですか?」


「良くも悪くも、なんだと思いますよ。全てを完璧にこなせるほどの才能は、私にはないですから。……まあ、今はただの趣味なので、そこまで拘りがある訳でもないですが」


 雪坂先輩は長い黒髪を耳にかける。距離が近いせいか、石鹸のいい香りが漂ってきて、無駄にドキドキしてしまう。


「ああでも、去年描いた絵が小さなコンテストで入賞したんです。それはちょっと、嬉しかったですね」


「へぇ、凄いですね。何を描いたんですか?」


「サイコロです」


「サイコロ、ですか?」


 いまいちイメージができなくて、首を傾げる俺。雪坂先輩は自身の白い太ももの上に手を置いて、続ける。


「大小様々なサイコロを、無造作に描いただけの絵です。普通の6面のサイコロから、現実では成立しないような多数の面を持ったサイコロまで。キャンバスを埋め尽くす勢いで、いろんなサイコロを描きました。私はそれで、人を表現したんです」


「サイコロで人、ですか……」


 絵について何の知識もない俺は、やはりそれを上手くイメージすることができない。そんな俺の疑問が伝わったのか、雪坂先輩は真面目な顔でこちらを見て言う。


「普通のサイコロは、1から6の面で成り立っているでしょう? 一度振って1が出たからといって、他の面が全て1だとは限らない。それは当たり前のことですか、人とは得てして他人のことをそういう風に見てしまう」


「……悪いことをしている人が、どんな時でも悪人だとは限らない。そういうことですか?」


「そうです。そしてその逆も然り。どんなにいい人にも、必ず裏の顔がある。よく、追い詰められた時に本性が分かるなんて言いますけど、追い詰められた時に分かるのは、追い詰められた時の顔だけ。それを本性だと言うのは、どう考えても間違いです」


 俺は小さく頷く。その言葉は、理解できる。俺は真っ直ぐに雪坂先輩を見つめ返して、言う。


「サイコロは、1から6の面まで全て合わせて1つのサイコロ。同じように人間も、いろんな面を持っている。それら全てを合わせて1人の人間だと、雪坂先輩はそう言いたいんですね?」


「そうです。どれだけ屈強で強そうな人でも、ナイフで2、3回刺せば、痛い痛いと泣き喚くのが人間という生き物です。それで幻滅したなどと言うのは、人を知らないだけなんですよ」


 雪音先輩は笑う。めちゃくちゃ過激なことを言っているようで、言ってることは理にかなっている気がする。


 俺はずっと、美春の優しかった面だけを見ていた。けれど同じように彼女には、俺を馬鹿にして嘲笑う嫌な面があった。……そして、風邪で弱ったら甘えた泣き言を言ってくるような面もある。


 その全てが佐倉 美春で、どれか1つが彼女の本性な訳じゃない。


 俺は、納得したように頷く。雪坂先輩は、どこかこちらの内心を見透かしたような顔で言う。


「普通のサイコロは6面だけですけど、人間は100面あっても足りません。全ての面を知るなんて真似は、何年付き合っても無理なんですよ」


「……そう割り切ってしまうのは、ちょっと寂しいですね」


「そうですね。でも私は、人を愛するということは、綺麗なだけじゃない面も受け入れることなのだと思います。……まあ残念ながら、恋人ができたことなんてないんですけどね、私」


「じゃあ、作ればいいんじゃないですか? モテるでしょ? 雪坂先輩」


「では、貴方が付き合ってくれますか? ……なんて、冗談ですよ」


 雪音先輩は立ち上がり、窓の外を見る。ずっと降り続いていた雨はようやく上がって、心地のいい日差しが部屋に差し込む。


「実は私、これから美春さんのお見舞いに行こうと思ってるんです。あの子、今日も風邪で休んでいるのでしょう?」


「そうですけど……よく知ってますね」


「あの子は良くも悪くも、目立ちますからね」


「……でも、行っても多分、追い返されるだけだと思いますよ?」


「普段のあの子ならそうでしょうけど、弱ったあの子なら……いつもとは違う面を見せてくれるかもしれない。そうは思いませんか?」


「……どんな顔でも、今さら俺は美春の顔なんて見たいとは思いません」


 俺の答えに、どうしてか雪坂先輩はさっきまでとは違う、楽しそうな……悪戯前の子供のような笑みを浮かべる。


「でも、気になりはしませんか? あの子に何があったのか。どうしてあの子は、あんな酷い性格になってしまったのか。一目見ただけでは分からないあの子の根っこは今、どんな形をしているのか。……気になりませんか?」


「俺は──って、雪坂先輩⁈」


 視線を戻すと、すぐ側に雪坂先輩の顔があって、思わず椅子から転げ落ちそうになる。


「やっぱり秋穂くん、綺麗な肌をしてますね」


「……いや、近いです、先輩」


「ふふっ、すみません。驚いた貴方の顔が見たかったので、つい悪戯してしまいました」


 雪坂先輩は冷たい手で俺の頬に触れてから、ゆっくりと距離を取る。


「さて、今日は、このくらいにしておきましょうか」


「まだ早いですけど……やっぱり、美春のお見舞いに行くんですね」


「はい。秋穂くんも一緒に来ますか?」


「いや、俺は辞めておきます」


 俺は即答する。雪坂先輩はやはり、笑う。


「では、お疲れ様でした。絵、完成したらお礼になんでも1つ、貴方の願いを聞いてあげます。だからもうしばらく、私に協力してくださいね?」


 雪坂先輩は、俺に触れていた手のひらを自身の頬に押し当ててながら、小さく口元を歪める。その仕草の妙な色っぽさに俺は何も言えず、ただ頷きだけを返した。


 そうしてその日は、大した問題もなく終わった。……なんて、そんな風に都合よくは終わってはくれない。


「……もう真っ暗だな」


 雪坂先輩と別れた後。まだ早い時間だからと、久しぶりに菖蒲のところに顔を出していたせいで、すっかり遅くなってしまった。俺は早足で、家に向かって歩く。



 けれど、その途中。小さな人影を見つけてしまう。



「……何やってんだよ」


 と、俺は言った。


「あんたを待ってたの」


 真っ赤になった目を擦りながら、その人影──美春は、そんなことを言ったのだった。


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