第11話 許せない



「あんたを待ってたの」


 そう言ってこちらを見る美春は、いつものような覇気がない。真っ赤になった目に、乱れ髪。それに、部屋着のまま出てきたのだろう。服装は薄いシャツにジャージ。こんな時間に出歩くような格好ではない。


「……なんなんだよ、お前は」


 わざわざうちの前で、待ち構えていた美春。昨日の電話といいこの女が何を考えているのか分からず、俺は吐き捨てるようにそう呟く。


「どうしても……あんたに、会いたくて。お願い、今だけでいいから、側にいて……」


 縋るような目。普段は見せないような弱った顔。熱のせいか頬がうっすらと赤く、今にも倒れてしまいそうだ。


 ……でも、だからなんだ?


「いい加減、辞めてくれよ。何度も言わせるな。今さら、甘えてくるんじゃねぇよ」


「……まだ、怒ってるの?」


「終わってるんだよ、もう。あんな真似しておいて……。『飽きた』なんて一言で終わらせておいて。お前は今さら俺に、何を期待してるんだ? ……馬鹿じゃねぇの」


 苛々する。髪を掻きむしりたくなるような衝動を、必死に抑える。


「いいからもう帰れよ。こんなところに居られたら、迷惑なんだよ。……知ってるだろ? 俺が両親とあんまり仲良くないの。揉めたくないんだよ。お前がそんな顔でここに居たら、責められるのは俺なんだ」


「……お願い。あたしが……あたしが、悪かったから。元気になったら、何でもしてあげるから。……寂しいの。秋穂に側にいて欲しい。他の誰かじゃ駄目なの。……お願い!」


「辞めろ。そんな目で見るな。こっちに近づくな。昨日……昨日も言っただろ? 今さら甘えるな。俺はお前の召使いでも、都合のいい男でもない」


「知ってる。分かってる! 秋穂のことをそんな風に思ったことなんて、一度もない!」


「……っ! お前が分かってるなら、俺はこんなに苛々してないんだよ! お前……お前は俺を、人形かなんかだと思ってないか? 俺はここに生きてるんだよ! それを尊重できない人間が、都合のいいことばっか言うんじゃねぇ!」


 苛々する。気を抜くと、近くの壁を蹴り飛ばしてしまいそうだ。どうして……何にそんなに苛ついているのか。こんな女のことなんて、俺にはもう関係がない。そのはずなのに、どうしても……苛々が治らない。


「……別に、寂しいなら俺じゃなくてもいいだろ? サッカー部の誰々に声かけられてるとか、自慢げに言ってたじゃねーかよ。そいつとよろしくやってろよ」


「こんな顔してるとこ、あんた……秋穂以外に……見られたくない」


「だから、わざわざ家の前で待ってたのかよ? 熱あって……しんどい癖に。馬鹿なんじゃねーの」


 こんなところをうちの親に見られたら、なんて言われるか。俺は両親に一度も、美春と付き合ってるなんて言ったことはない。それでも、近所に住んでて半年も一緒にいたら、流石に何か察しているだろう。


 そんな状況で、家の前で弱った美春と言い合いをしている。……仮に放置したところで、どうせ俺が責められる。幸いまだうちの両親は帰ってきてないようだが、余計な揉め事は御免だ。


「いいから、早く帰れ。お前が何を言おうと、俺の気持ちは変わらない」


「嫌。側に居て。……あたしが、1人が嫌いなの知ってるでしょ? ……寂しいの」


「知らない。風邪なんて寝てりゃ治るだろ? ガキじゃないんだから、甘えてくんな。……だいたい、どの口で言ってんだよ? もう飽きたんだろ? お前は」


 きっとこの女は相も変わらず、世界の中心は自分だと思っている。だから少し頼めば、俺が何でもすると勘違いしてる。


「…………」


 或いは、お見舞いに行くと言っていた雪坂先輩と、何かあったのか。何にせよ、関係ない。俺にはもう関係のないことだ。


 歯を噛み締め、目の前の女を睨む。美春は、震える声で言った。


「……謝れって言うなら謝る。だから……だからあたしを、1人にしないで!」


「軽く見んなよ。お前、一度謝ったら俺が今までのこと全部、許すとでも思ってんのか?」


「じゃあ、許さなくてもいいから! だから、側にいて……!」


 美春がこちらに手を伸ばす。俺はその手を、振り払う。


「触れるな! ……雪坂先輩は、お前に何があったのか知りたいって言ってた。けど俺はお前に何があったとしても、お前を……お前を許してやるつもりはない」


 悪事が正当化される理由なんてない。許しなんて概念は、この世界には存在しない。許して欲しいなんて言う奴は、自分の為に苦しんでとほざいているのと同じだ。


 傷は癒えても、痛みは消えない。


 被害者は永遠に苦しんで、だから加害者だって永遠に苦しみ続けなければならない。それがバランスだ。加害者だけが簡単に許されてしまったら、苦しむのが被害者だけになってしまう。


「お前はいつも自分のことばっかりで、俺のことなんて気にかけちゃいない。調子がいい時は嘲笑って、弱ると縋る。許さなくてもいいって何だよ? それは単に、どうでもいいだけだろ」


「違う! あたしはただ、あんたを──」


「うるさい! もう……もう俺に関わるのを、辞めろ。鬱陶しいんだよ、いい加減」


 俺は大きく息を吐いて、歩き出す。


「待って!」


 美春はそんな俺を止めようと手を伸ばし、


「……っ」


 けれど、その途中で足を滑らせて転んでしまう。


「ほんと、何やってんだよ、お前は……」


 苛々する。こんな女、助けてやる価値はない。見捨てられて当然のことを、この女は今まで何度もしてきた。俺が転んでも指を刺して笑っているだけだった女を、どうして俺が助けてやらないとならない?


「……いい加減、気色悪いんだよ」


 ああ、でもそうか。気がついた。……気がついてしまった。何にこんなに苛々しているのか。どうしてこの女を見ると、ここまで心が乱れるのか。関係ないと言いながらも無視できないのは、ただ単に……。


「辞めだ、辞め」


 俺は冷めた目で、地べたで這いつくばる女を見る。……女は何も言わない。俺は言った。


「歩けるか?」


 俺は転んでしまった美春に、手を差し出す。


「……いいの?」


「いいわけねーだろ。今だけ我慢してやるって言ってんだ。ゴタゴタ言わず、手を伸ばせ」


 立ち上がり、それでもまだふらふらと危ない美春。俺はまたため息をついて、美春をおぶって歩き出す。


「……ほんと、何やってんだよ」


 美春の身体は冷たい。きっと長い間ずっと、あそこで俺を待ち続けていたのだろう。どうして今になって、そんな真似をするのか。この女……美春が何を考えているのか。俺には全く分からない。


 ……分からないまま、こんなところまできてしまった。


「……ありがと」


 と、美春は言った。どこか縋るような、弱々しい声。


「…………」


 俺はそれに、何の言葉も返さない。


 もしかしたら美春は、俺の知らない何かを抱えているのかもしれない。俺の知らないところで、1人でずっと傷ついてきたのかもしれない。でもそんなこと、やはり俺には関係がない。


 雪坂先輩が言ったサイコロの例え。


 人にはいろんな面があり、その全てを受け入れることが愛なのだと、あの人は言った。……でも俺には、そんな真似はできない。


「ほら、こっからはもう歩けるだろ?」


 家の前で、美春を下ろしてやる。


「…………」


 それでも美春は、何か言いたそうな目でこっちを見る。しかし生憎、部屋まで行って面倒を見てやる気はない。


「そんな目で見ても、もう帰るから。だからもう、俺の家にはくるなよ?」


 それだけ言って、俺は立ち去る。……いや、立ち去ろうとして、けれど美春はそんな俺の背中を強引に抱きしめた。


「おい、お前。いい加減に──」


「ごめん! ……ごめんね、秋穂!」


「なんなんだよ……」


 美春は、泣いていた。子供みたいに声を震わせて、声を上げて泣いた。ごめん、ごめんと。何度もそう呟きながら、彼女は泣いた。


「……今さら泣いて謝って、それで俺にどうしろっていうんだよ?」


 美春の泣き顔は俺には見えない。けれど、この女がどんな顔をしていたとしても、俺にはどうしても……許すなんて真似はできそうになかった。


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