第7話 放課後



 雪坂先輩は、昔から趣味で絵を描いていたらしい。


 でも中学の頃は、バレーをやっていたせいで絵を描く時間がとれず、それが嫌で高校ではバレーを辞めて美術部に入った。それで、近々開催するコンテストに絵を送ろうと、ずっとそのモチーフを探していた。


 テーマは『怒り』。


 そして昨日偶々、俺が校門前で怒鳴っている姿を見て何かピンときたらしい雪坂先輩は、俺をモチーフに絵を描きたいと思った。


「それで、引き受けたんだ?」


 放課後。わざわざ教室まで迎えにきてくれた椿さんに、一通りの事情を説明すると、彼女はどうしてか怒ったような顔でペシペシと俺の肩を叩いた。


「いやまあ、いきなりで驚いたけど、別に断る理由もなかったし。……というか、なんで叩くの?」


「雪坂先輩だっけ? その人、すっごい美人さんらしいね。……糸杉くんってさ、歳上が好きなの?」


「どうだろう? どっちかっていうと、苦手だとは思うよ。歳上ってだけで、気を遣っちゃうし。それが美人な先輩なら、なおさら」


「……ふーん」


 不機嫌そうな顔で頷いて、ようやく叩く手を止めてくれる椿さん。……女の子って偶に、よく分かんないことで機嫌が悪くなるよな、と俺は一歩距離を取る。


「というか、椿さんも来るの?」


「なに? 一緒に行っちゃ駄目なの?」


「いや、そんなことはないけど……」


「なら、いいじゃん。美術部なんでしょ? どうせなんか部活の見学したいと思ってたし、ちょうどいいよ」


 俺が距離をとった分、強引にこちらに近づいてテクテクと歩く椿さん。俺は「なんだ、美術部の見学がしたかったのか」と納得し、そのまま一緒に歩く。


「来てくれましたか、秋穂くん……っと、そちらは?」


 ドアを開けると、先に部室に来ていた雪坂先輩が、隣の椿さんを見て首を傾げる。


「見学でーす」


 と、椿さんは返す。……やっぱり今日は機嫌が悪いのか、ちょっと怒ってるように見える。


「……ああ。貴女は噂の、転校生の方ですか。ええ、構いませんよ。美術部は私を含めて3人しか部員がいなので、見学はいつでも大歓迎です」


「うっ。美人スマイル……」


 どうしてか、気圧されたように後ずさる椿さん。俺は勧められるまま、また雪坂先輩の前の席に座る。


「というか今さらなんですけど、美術部なのに美術室じゃないんですね?」


 俺のどうでもいい疑問に、雪坂先輩は静かな笑みを浮かべたまま、答える。


「3人だと美術室は広すぎますからね。普段は、部室棟の空いてる部屋を使わせてもらってるんです。流石に油絵なんかを描くときは、美術室を使わせてもらいますけどね」


「なるほど」


「…………」


「………………」


 そして、沈黙。雪坂先輩は手を動かすことなく、無言で俺の顔を見つめる……というより、観察し続ける。……やばい。なんか滅茶苦茶、落ち着かない。


 ただでさえ雪坂先輩は美人なのに、こんな風に真正面から真っ直ぐに見つめられると、どうしても緊張してしまう。俺は逃げるように視線を逸らして、口を開く。


「雪坂先輩。手、動かさないんですね?」


「欲しいのは、インスピレーションですから。私が描きたいのは貴方そのものではなく、貴方が見せた……怒り。私は貴方を通して、貴方の感情を描きたいんです」


「……なんか意識高い系」


 椿さんがポツリと呟くが、雪坂先輩は特に気にした様子もない。


「ところで、椿さんでしたっけ?」


 俺の方に視線を向けたまま、雪坂先輩が口を開く。


「……何ですか? 雪坂……先輩」


 椿さんは相変わらず不機嫌そうな目で、雪坂先輩の方を見る。


「いえ、勘違いなら構わないのですが、貴女……昔この街に住んでらしたのではないですか? 椿という苗字と、貴女のその綺麗な瞳。確か──」


「何のこと言ってるのか、分かりませーん。私がこの街に来たのは、つい先週の話でーす。人違いだと思いまーす」


 言葉の途中で、遮るように椿さんは言う。


「……そうですか。なら、私の勘違いですね」


 雪坂先輩は小さく笑う。椿さんは笑わない。……なんだろう? もしかしたらこの2人は、相性が悪いのかもしれない。


「そういえば、秋穂くん。貴方は、もう大丈夫なのですか?」


「……と、いうと?」


「いえ、中学の頃、少し噂になっているのを耳にした覚えがありまして。……なんでも秋穂くん、酷いストーカーに付きまとわれていて、困っていたとか」


「……ああ。そんなことも、ありましたね」


 少し、昔のことを思い出す。実は俺は中学の頃、変なのに付きまとわれていた時期がある。『あなたをあいしてます』なんて書いた手紙が、毎日のように家のポストに入っていて、よく分からないぬいぐるみ? のようなものが、家の前に置かれていた。


 それを見た俺の親が、虐められているのでは? と怒って学校に乗り込み、少し騒ぎになった。……そして俺は一度、そのストーカーらしい少女と顔を合わせた。



『あなたをあいしてます』



 ……あの笑顔は、今でも忘れられない。好意でも人を傷つけることができるのだと、俺はそのとき初めて知った。


「でも、昔の話ですよ。いろいろありましたけど、今は比較的平和な日々を送ってます」


「……そうですか。なら、よかったです」


 雪坂先輩は笑う。その笑顔がとても綺麗で、やっぱりつい視線を逸らしてしまう。この人の笑みは、なんだか魔力みたいなものがある気がする。


「少し、休憩にしましょうか。コーヒーを淹れる……と言いたいところなのですが、生憎ちょうど切らしてまして。外の自販機で買ってくるので、申し訳ないですが2人は少しここで待っていてください」


「あ、いや、そこまでしてもらわなくても──」


「私のわがままに付き合って頂いているのですから、それくらいはさせてください」


 それだけ言って、雪坂先輩が部室から出て行く。その背中を見送って、俺は大きく息を吐く。


「……やっぱり、緊張するな」


 見られてるだけなのに、酷く疲れてしまった。というか、あんな至近距離で見つめられると、こっちもいろいろ見てしまって困る。


 大きい胸とか、柔らかそうな太ももとか。普段、女子のそういうのはあまり意識しないはずなのに……。実は俺、本当は歳上が好きなのかもしれない。


 なんてことを考えていると、不機嫌そうに頬を膨らませた椿さんが立ち上がり、こっちに近づいてくる。


「いーとーすーぎーくーん」


 そしてまた、ペシペシと肩を叩かれる。


「なに? もしかして椿さん、怒ってる?」


「おこってませんー。ただちょっと糸杉くん。歳上の美人なおねーさんに、デレデレしすぎなんじゃないですかねー」


「別に、デレデレなんかしてないって。……美人だとは、思うけどさ」


「そ、れ、を! デレデレしてるって言うんですー」


 ペシペシ。ペシペシ。椿さんが俺の肩を叩く。痛くはないけど、椿さんがどうして不機嫌なのか、俺にはよく分からない。


「何に怒ってるのか知らないけど、それを言うなら椿さんだって美人でしょ? 別に怒る理由なくない?」


「うっ……。糸杉くんって、なんか……あれだね。美人な子と付き合ってたからなんだろうけど、平気で女の子に可愛いとか美人とか言うよね?」


「別に、口説いてる訳じゃないし。綺麗な子に綺麗って言うのは、普通のことなんじゃないの?」


「……この、天然タラシめ」


「いてっ」


 何故か、頭突きをされてしまう。それはほんのちょっとだけ、痛かった。


「お待たせしました」


 そこで、雪坂先輩が戻ってくる。手にはどうしてか、缶コーヒーが4つ。


「先輩、どうして4つも缶コーヒー持ってるんですか? もしかして、間違えました?」


 当然の疑問を尋ねると、雪坂先輩は言葉の意味が分からないと言うように、首を傾げる。


「? 貴方と私と椿さん。それから、そちらの方の分ですよ?」


 と、雪坂先輩は誰も座っていない椅子の前に、缶コーヒーを置く。


「……え?」


「ひっ……」


 驚いた椿さんと思わず抱き合う俺。なんだ? この人には一体、何が見えてるんだ?


「なんて、冗談ですよ、冗談。これは偶々、ルーレット? みたいなやつで当たっただけです。……ふふっ。2人とも驚いた顔して、可愛いところがあるんですね?」


 驚いた俺たちを見て、楽しそうに笑う雪坂先輩。この人は思ったよりも、子供っぽいところがあるのかもしれない。……そんな風に、その後もしばらくたわいもない話をして、その日はお開きになった。


「では、また明日」


 これから放課後はしばらく、雪坂先輩に協力するという約束をして、椿さんと2人で家に帰る。昨日、教えてもらったのだが椿さんの家はうちの近所らしく、今度遊びに行くよなんて話をした。


「じゃ、また明日ねー!」


 別れる頃には椿さんの機嫌も直っていて、やっぱり女の子の気持ちは分からないな、と俺は改めてそう思った。


「……そういや雨、降らなかったな」


 そんなことを呟いた直後に、ポツポツと雨が降り始める。


「ギリギリセーフか、運いいな。……いや、椿さんは大丈夫かな?」


 背後に視線を向けてから、なんとなしに郵便受けを確認する。……そこにはピザ屋のチラシと、そして……1通の手紙が入っていた。



『あなたをあいしています』



 ああ、どうしてこう面倒なことばかり起こるのだろう? と、俺は大きく息を吐いた。


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