第28話 風に散る



 風が吹く。桜は舞わない。揺れているのは綺麗な金髪と、邪魔になってきた長い自分の前髪。深まっていた意識が、現実に戻る。


「…………」


 目の前にいるのは、美春じゃなくて、椿さん。……そうだ。今は余計なことを考えている場合じゃない。俺は、彼女の気持ちに応えなければならない。


 一度、大きく息を吐いて、余計な思考を捨てる。美春のことも、過去のことも、今は関係ない。今はただ、目の前の少女の気持ちに応えなければならない。


 俺は強く歯を噛み締め、真っ直ぐに椿さんを見つめる。椿さんも、真っ直ぐに俺を見つめる。……俺は、胸に浮かんだ痛みが消える前に、その言葉を口にした。



「──ごめん、椿さん。俺は君の気持ちには応えられない」



 風が止む。世界から音が消えたような静寂が、辺りを覆う。椿さんは一度、口を開いて、けれど何も言えずすぐに口を閉じてしまう。俺は椿さんから視線を逸らさず、ただ黙って彼女の言葉を待つ。


 視界の端で、桜の枝が揺れた。椿さんは逃げるように空を仰ぎ、口を開いた。


「……やっぱり私じゃ、美春さんには勝てないのかな?」


 消えいるような呟き。俺は首を横に振る。


「違う。美春のことは関係ない。あいつとは一度ちゃんと話さなければと思うけど、今さらよりも戻すつもりはない。戻せるとも思わないし、戻したいとも思わない」


「じゃあ、私の何が駄目なの! 私……私、もっと頑張るから教えてよ! どうしたら糸杉くんは、私のこと見てくれるの!!」


 日が暮れて、街灯が光る。俺は手を握り締め、言う。


「駄目なのは椿さんじゃなくて……俺の方なんだよ。俺は……人を好きになるって行為の価値を、理解できない。椿さんがいくら好意を向けてくれても、俺は君に……何も返してあげられない」


「要らないよ! 何も……何も要らない! 私は……私はただ! 今日みたいに、一緒にデートしてくれるだけでいい! 側にいてくれるだけで嬉しい! 嘘でもいいから、ただ好きって言ってくれるだけでいい! それ以上は、何も望まない! だから……!」


「ごめん。それでも俺は、君の気持ちには応えられない」


 俺の検証はまだ終わってない。俺はまだ、愛の価値を証明できていない。……いや、分かってる。分かってはいるんだ。そんなものは子供の理屈で、どれだけ時間をかけても愛の価値なんて証明することはできない。


 みんな、そんなこと分かってて人を愛してる。分かってないから、傷ついてる。そうやって生きて、そうやって死ぬ。答えなんて出せなくても、それが間違っているとは思わない。


「でも、駄目なんだよ。……駄目なんだ。ここで君を抱きしめて、幸せになって……楽になって。それで逃げ出したら……俺は人形と変わらない」


 それはただ流されてるだけで、心があるとは言えない。


「俺は、自分で価値が認められないものを、誰かの為に価値があるなんて思いたくない! 俺は椿さんが好きだ! 君と一緒にいられたら楽しいと、今でも思う! でも……駄目なんだよ! 心が納得しても、俺は納得できない!」


 思い出すのは、吊り橋効果。吊り橋を通った時に感じた胸の高鳴りを、人を好きになった時に感じる胸の高鳴りと勘違いする。テレビでそんな話を目にした時、俺は酷く……傷ついた。


「俺たちの心は、恐怖と恋心の違いも分からない欠陥品だ! そんなものに従って、俺は生きたくない! 俺は、俺が価値を証明できてないものを、言い訳で愛したくないんだよ!」


 ずっと、胸の内に溜まっていた想い。叫んだ言葉は、多分きっと誰にも理解されないものだ。誰でも一度は同じようなことを考えたことがあって、でもすぐに忘れてしまう。そんなどうでもいいこと。生きる上で、何の役にも立たないこと。


 でも俺は、そこで足を止めてしまった。……きっと俺の心は今も1人、夜の公園で空を見上げている。俺はあの頃から、何も成長していない。


「……分かんないよ。糸杉くんが言ってること、私にはよく……分かんないよ」


 椿さんは泣きそうな顔で、それでも決して涙を流すことなく、目元を手で拭う。


「でも、糸杉くんが苦しんでることは、よく分かった。……私はずっと自分のことばかりで、貴方の気持ちを理解しようとしなかった。……だから私には、糸杉くんの痛みを分かってあげられない」


「……ごめん」


「謝らないでよ。糸杉くんは悪くない、私は……私はただ、糸杉くんに……」


 震える声で、歯を噛み締める椿さん。俺はそんな彼女に、何も言えない。……言ってあげられない。


 きっと俺がここで彼女を優しく抱きしめたら、全てが丸く収まる。美春のことも、過去のことも関係ない。そうするだけで、全て忘れて幸せになれる。


 でも俺は、それを欺瞞だと思ってしまう。



 『愛していないのに、愛してるようなフリをするな』



 響くのは、過去の自分の声。……呪いだ。俺は過去の自分に呪われている。きっと、最初に選んだレールが間違っていたんだ。検証だとかなんだとか言い出したのが全ての間違いで、でも今さら引き返すことはできない。


「椿さん」


 手を伸ばせば届く距離。けれど俺は決して手を伸ばすことなく、ただ目の前の少女を見つめる。


「……なに?」


 椿さんが俺を見る。俺は口を開こうとして、でも……また口を閉じてしまう。今ここでそれを尋ねていいのか、迷う。でもきっと、今を逃せばもう確かめるタイミングはないだろう。


 俺が今日、彼女とどうしても話しておきたかったこと。確かめなければならなかったこと。



『中学の頃のストーカーの正体は、君なの?』



 それを俺は、椿さんに問いたかった。でも今、彼女にそれを問うてどうなるというのか。……ずっと、気になってはいた。制服の準備が間に合わないような急な転校。あの、射抜くような瞳。どう考えても、ストーカーの正体は……。


「……糸杉くんは、隠し事は下手なんだね」


「それ、どういう意味?」


「思い出したんでしょ? 私のこと……私が貴方に、何をしたのか。ようやく、思い出してくれた……」


 椿さんの手が震える。目の端から、小さな涙が溢れた。椿さんは、言った。



「中学の頃のストーカーの正体は……私なんだよ」



「……本当に、そうなの?」


 俺は確かめるように、目の前の女の子を見つめる。椿さんは小さく頷いて、言葉を続ける。


「中学の頃の私は、何もできない弱虫だった。虐められて、引きこもって、嘘をついて……ずっと逃げてた。それで私は、思った。糸杉くんなら、そんな私を助けてくれるって。彼は私のヒーローだって。私は勝手にそんなことを思い込んで、暴走して、でも糸杉くんはそんな私を助けてくれなくて……」


 それが中学の頃のストーカーの正体。『どうして?』という言葉は単に、『どうして、助けてくれないの?』という彼女の嘆き。……俺も同じだ。


 俺も自分のことに手一杯で、彼女の痛みに気づいてあげられなかった。……本当はもっと早くに、気づいてあげるべきだった。


 椿さんは、涙を流しながら続ける。


「ごめんね、怖い思いをさせて……。自分のことしか、考えてなくて! 私のせいで、糸杉くんはいっぱいいっぱい傷ついた!」


「…………」


 俺は何も言えない。


「でも、迷惑でも! それでも私は、私の弱いところも駄目なのところも全部、知って欲しかった! 隠し事をしたまま、愛されたくなかった! たとえ嫌われることになっても、私は思い出して欲しかった……! ごめん……ごめんね……!」


 そこで、椿さんの言葉は嗚咽に飲まれる。空から溢れる月光が、彼女の白い頬を照らす。……怒りなんてなかった。恨みも憎しみも、何もありはしない。


 ストーカー行為そのものは、どうしたって擁護できない。けれど、彼女の努力は……彼女の想いは間違いじゃない。……でも、それでも俺はその想いに応えてあげられない。


 自分の想いを疑うことしかしてこなかった俺と、自分の想いを信じて……信じ続けるしかなかった椿さん。俺たちは正反対で、だから彼女の手は……俺には届かない。


「私、諦めないから! まだ絶対……諦めないから! ちゃんと謝って、許してもらえたら! 私はまた貴方のことを……好きだって、言う! だから……ごめん!」


 震える声でそう叫び、そのまま走り去る椿さん。俺はその背中を追うことはせず、黙って消えていく背中を眺める。


「……何やってんだよ、俺は」


 胸が痛んだ。自分がとても馬鹿なことをしていると、理解している。それでも俺は、愛してないのに愛してるフリをしたくはなかった。


「くそっ、前髪が邪魔だ」


 風に揺れる前髪をかき上げる。まだ、やらなければならないことが残っている。中学の頃のストーカーの正体は、椿さん。それはもう、間違い。けれどここ最近、俺に変な手紙を送ってあとをつけていたのは多分、別の人物。


 椿さんとは別に、中学の頃のストーカーを模倣した人間がいる。


 ……いろいろあったせいで、話がこんがらがってしまった。中学の頃のストーカーの正体は椿さんで、俺の背中を押したのはマッシュくん。そして、ここ最近、俺に嫌がらせをしていたのは……。


「あいつしか、いないよな」


 俺は、椿さんの姿が完全に見えなくなった後。軽く咳払いをしてから、背後の闇に声をかける。


「それで、君はいつまで黙ってこっちを見てるのかな?」


 その問いに、背後から「あ、バレてたのか」なんて、場違いなほど明るい声が響いて、1人の少女が姿を現す。


「ふふっ。なんか楽しそうだったね? 秋穂くん」


 そう言って姿を現した少女──藤林さんは、心底から楽しそうな顔で笑った。


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