第33話 遠回り
美春と並んで、夜の街を歩く。風の音以外、何も聴こえない静かな夜。頼りない月明かりと街灯が足元を照らす。デートという雰囲気ではないが、それでも手を伸ばせば届く距離に美春がいる。
美春は、ゆっくりとこちらに視線を向け、言った。
「あんたさ、どっか行きたいとこある?」
「お前が誘ったんだろ? お前が決めろよ」
美春の方には視線を向けず、俺はそう言葉を返す。
「今からだと、行けるとこなんて限られてるじゃない。ファミレスかカラオケか……あとは、あたしの家か」
「俺は別に、このまま散歩するだけでもいいけどな」
「……あんたはほんと、何も分かってない」
呆れたような表情。冬の冷たい風に、耳がヒリヒリと痛む。
「…………」
もしかして美春は、これで最後になるのだから何か特別なことがしたいと、そう言いたいのだろうか?
最後に綺麗な思い出を作って、悪くない恋だったなんて言い訳をして、それで一体なんになると言うのだろう? ……どれだけ楽しい思い出を作ったところで、嫌な思い出は消えてはくれない。
そう思ってしまう俺が、間違っているのだろうか?
「そういえばあんた、もう怪我はいいの? なんか車に轢かれて、大変だったみたいじゃない」
「お陰様で。今はもうピンピンしてるよ」
「そ。あんた、昔から運だけはいい奴だし、心配はしてなかったけどね」
「運いい奴は、車になんて轢かれねーよ」
車に轢かれたあの日の夜。美春と椿さんに誘われていた俺は、果たしてどちらの家に向かって歩いていたのか。今さらそれを言葉にしても、意味はない。ただどうしてか今は、あの日の夜より身体が軽い。
きっとあの夜。車に轢かれた瞬間、何か大切なものを落としてしまったのだろう。
「って、お前これ、どこ向かってんだよ。駅とも反対方向だし、こっち行っても山しかねぇだろ?」
「あんたがどこでもいいって言ったんでしょ? 今さら口出ししないで」
「あんま変なとこには連れてくなよ……」
飽きれるように息を吐いて、美春の背中を追う。冬の夜の空気は澄んでいて、寒いけれど心地がいい。山に近づくにつれ明かりがなくなり、夜の闇が濃くなっていく。ふと、何かの鳥の鳴き声が聴こえて、視線を上げる。
「……あ」
見えたのは星空。手が届きそうな……とまではいかないけれど、目を奪われるには十分な星々の海。
「昔さ、こうやって一緒に星を見に行ったの覚えてる?」
少し離れた場所にいる美春が、こちらに向かって何かを投げ寄越す。……缶コーヒーだ。ふと触れた温かさに、思わず缶を落としてしまいそうになる。
「覚えてねーよ、そんな昔のこと。一緒に紅葉を見に行ったのは、覚えてるけどな」
「……そ。あんたは昔から、嫌なことばっかり覚えてる奴だったもんね」
「お前が嫌な思い出にしたんだろ? 人のせいにするなよ」
「…………」
美春は言葉を返さず、どうしてか幸せを噛み締めるような顔で、笑う。俺はその笑顔を見ていられなくて、逃げるように視線を逸らし、貰った缶コーヒーのプルタブを開ける。
……コーヒーはブラックだった。いつか俺がコーヒーはブラックが好きだと言ったのを、覚えていてくれてのだろうか?
「変わらないものなんてない。星の光だって、いつかは消えてなくなってしまう。それでもあたしは、永遠が欲しかった」
「……馬鹿じゃねぇの。ねーよ、永遠なんて」
「ほんとに? あんたが本気でそう思ってたなら、もっと早くにあたしのそばから居なくなってたんじゃないの?」
「どうかな……」
俺は愛を証明したかった。もし仮にそれがなされていたとして、果たしてその愛は永遠に不変のものだったのだろうか? 今日は好きで、明日は嫌い。そんな想いが嘘だと、誰に言えるのだろうか?
「あんたももう、思い出したんでしょ? あんたのお父さんと、あたしのお母さんのこと」
「まあな。お前はその……大丈夫だったのかよ?」
「大丈夫って、何が?」
「俺は別に、父親のことも母親のことも好きじゃない。だから今さら家族なんて関係が壊れた程度で、何も思ったりしない」
家を追い出されたら困るけどな、と俺は嘯く。
「でも、お前は違うだろ? お前は……好きだったんだろ? お父さんのことも、お母さんのことも。だから……平気なのかよ?」
「大丈夫よ。あたしはあんたと違って、忘れてた訳じゃないから。もう乗り越えた。許せはしないけど、別にそれで……傷ついたりはしない」
こちらを真っ直ぐに見つめる、射抜くような眼光。美春は強い。目を背けてしまった俺とは、人としての在り方が違う。……でも、人は強いだけでは生きられない。
強い癖に脆いこの女は、いずれその強さに耐えきれずバラバラに砕け散ってしまうだろう。その片鱗は、もう既に何度も見た。ここしばらくの美春の不安定さ……弱さ。それがいつか、この女を殺す。
そしてその時、俺は彼女を支えることはできない。……支えてやるつもりもない。
美春は、どうしてか小さく笑って、俺の頭を叩いた。
「そんなことより、早く行くわよ」
「行くってどこにだよ? こんな時間に山登りなんてしたら、遭難するのがオチだぞ?」
「山なんて登らないわよ。もうちょっと道沿いを歩くだけ」
「それに何の意味があるんだよ」
「意味なんてないわ。でも夜の街って、少し散歩するだけでもわくわくするでしょ?」
「────」
なんだか、酷い不意打ちを喰らったような気分だ。夜空を見上げながら歩いていたら、いつの間にか子供の頃の夢に迷い込んでいた。そんな感覚。
胸が、ただ痛む。
「さ、行くわよ」
こちらの心境も知らず、美春は俺の腕を掴んで歩き出す。
今日のシンデレラの劇。退屈だと思ったあの劇も、隣に美春が居たら、何かが変わったのだろうか? 退屈としか思えなくなった夜の街も、美春が隣に居てくれるだけで何かが変わるのだろうか?
「…………」
そして、この女……美春は、俺が隣にいるだけで楽しいと思ってくれるのだろうか?
「……馬鹿馬鹿しいな」
つまらない感傷だ。意味のない……散って地面に落ちた、桜の花びらのような感傷だ。地面に落ちた花びらをいくら投げたところで、花はもう風には舞わない。
もう、終わったことだ。
このデートに意味なんてない。桜の花はもうとっくに散ってしまった。俺たちはただ枯れ枝を眺めながら、桜の花に思いを馳せているに過ぎない。
俺が美春に言わなければならないのは、本当に一言だけ。その一言で全てが終わる。美春がいくらごっこ遊びを望んでも、そんなことに意味はない。すぐに幕は降りる。
終わった後に誰も拍手をしてくれなくても、それでも……いつまでも演技を続けているわけにはいかない。
美春は、まるで恋人のように俺の腕を抱きしめ、口を開く。
「好きなものはね、呪うか殺すか争うかしなければならないのよ」
「なんだよ、突然」
「坂口安吾。あんた昔、好きだって言ってたでしょ? いろいろ読んでみたけど、あたしには難しくてよく分からなかった。でも、その台詞だけは妙に頭に残ってるの」
「……言葉の意味は分かるのか?」
「ぜーんぜん。あんたは分かるの?」
「言葉通りの意味だよ」
意味わかんないと、美春は首を傾げる。でも、意味なんてないんだ。愛は身体を蝕む毒で、それに抗うことをしなければ人は簡単に腐り落ちる。愛しいものは、愛するだけでは駄目なんだ。俺とお前が、そうだったように。
夜の散歩は続く。意味のない遠回り。中身のない会話。それでもそれを止められないのは、どこかでそれを楽しいと思ってしまっている自分がいるから。
「なんだ、戻ってきたのか」
気づけば、最初の公園に戻って来てしまっていた。既に時刻は深夜。思ったよりも長い間、歩いていたようだ。
「ねぇ、秋穂」
美春が俺の名前を呼んだ。どうでもいいことの筈なのに、どうしてか胸が痛む。
「……なんだよ」
平静を装い、美春の方に視線を向ける。
「最後にあたしの名前を呼んで」
「意味分かんねーよ。どうしたんだよ、突然」
「いいから早く!」
おねだりする子供のように、俺の腕を掴む美春。俺は小さく息を吐いて、言った。
「……美春」
「ふふっ、なに?」
「なにってなんだよ。お前が呼べって言ったんだろ」
風が吹く。一際冷たい風が吹いて、美春は身体を震わせる。俺は思わず手を伸ばしそうになって、辞める。……そろそろ、終わりにしなければならない。
「俺はずっと、お前が何を考えているのか分からなかった。急に俺に辛く当たるようになったお前は、俺のことが嫌いになったんだと……ずっとそう思ってた。でもお前はただ──」
「待って」
美春が俺の言葉を遮る。でも流石にこれ以上、余計な時間を過ごすつもりはない。……そう言おうとしたのけれど、美春はまるでこちらの心を見透かしたように、首を横に振る。
「あたしの口から話す。自分のこと他人に話されるの嫌いなの、知ってるでしょ?」
「知らねーよ」
「でも、もう知ってる。だから……お願い」
美春が俺を見る。真っ直ぐな目。それでも俺は、目を逸らすような真似はしない。
「いいよ、分かった。聞くよ、お前の話。幸い朝まで、時間はいくらでもあるからな」
その言葉を聞いて、美春は笑った。やはりそれは、とても寂しげな笑みだった。
「あたしはね、否定したかったの。あたしの気持ちと、この世界のルールを」
そしてそれが、佐倉 美春の検証だった。
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