第15話

 あたしは窓を背に、定位置になりつつある椅子に座っていた。

 執務室の大きな机の上に問題の手紙が、触れられたくない呪物のように鎮座している。

 アシュタルテさまはあたしの隣に立ち、いつものように口元を扇子で隠していた。

 ディルムは机を挟んで険しい顔をしている。

 机の上に手をつき、手紙について詰め寄るディルムの声が頭に響く。


「こんな膨大な請求がくるなんて、さすが婚約破棄されるだけはある」


 嫌味。最初からまったく騎士らしくない話の切り出し方。

 わかりやすいトゲに、あたしは顔をしかめた。

 アシュタルテさまの噂に金遣いが荒いはなかったはず。言いがかりが過ぎる。


「婚約破棄の原因はお金ではありません」


 アシュタルテさまの言葉は落ち着いていたが、彼女の青い扇子で隠された口元からは、微かな苛つきが滲んでいた。

 二人の視線がぶつかり合った瞬間、火花が飛び散ったようにさえ感じる。

 ディルムが彼女を鋭く睨めば、アシュタルテさまは少し目を細め、意思を示すように見つめ返した。


「誤った情報を信じると痛い目にあいますわよ?」


 アシュタルテさまの声は静かで、けれどもっともな忠告に満ちていた。その声からは、深い哀れみさえ感じられる。

 一方で、ディルムの視線はアシュタルテさまを見下すように彼女に突き刺さっていた。

 アシュタルテさまは口元を青い扇子で隠す姿勢を保ったまま、冷静に状況を見つめている。


「ノーブル装飾品店。王都の貴族がこぞって使う店らしいが?」


 あたしでさえ聞いたことのある有名な店だ。

 ディルムの言葉はアシュタルテさまを苛立たせることに成功したようだ。

 彼女の赤い瞳が少し細められ、扇子がゆっくりと動き、閉じられる。


「私は、使ったことがありません」


 私は、にアクセントがあった。

 閉じられた扇子がアシュタルテさま自身の顎の下に向けられ、自分自身を強調している。


「だが、服飾代として3000万フランと請求されている」


 アシュタルテさまの声は鋭く、堂々としていた。

 だが、ディルムは端から彼女の言葉を信じていない様子だ。彼の性格を考えれば仕方ない。

 あたしは二人のやりとりをじっと見つめてから、顔を覆うように組んでいた腕を下ろす。

 部屋の空気は緊迫感に満ちていた。


「金額もですが、問題はこの請求書の宛名がうちの領になっていることです」


 この請求書の一番の問題点はそこだ。やっと解決したと思ったお金の問題がさらに巨大になって帰ってきていた。

 3000万フラン。

 支度金を渡しても、全て支払うことは難しい額だ。


「ノートルに関係のないお金だ支払う必要がない!」

「私も身に覚えがない請求です。払う必要はなくてよ」


 ディルムの口調は益々激しくなり、怒りを帯びている。

 あたしに言わせれば、経理に関係したことのない彼が口を出す時点で腹立たしい。

 アシュタルテさまの声も自信に満ちていたが、赤い瞳にはわずかに不安が見え隠れしていた。

 自分自身の無実と、請求書が存在する矛盾。その間で揺れているのだ。

 詰め寄ってくるふたりにあたしは深いため息をついて、ポケットから別の紙を取り出す。


「わたしだって払わなくていいなら、そうしたいです。ですが、これを見てください」

「アルフォンス殿下……!」


 アシュタルテさまは憎々しげに名前を呼ぶ。

 手紙には、この請求は正当なものであること、支払わなければノートル領との取引に制限がでることが書いてあった。


「服飾代も、アシュタルテさまじゃないなら、別の人のものでしょう。このリストの商品に見覚えは?」


 請求書に添えられていた購入リストをアシュタルテさまに差し出す。

 彼女は急いでその紙を受け取り、上から下へと視線を走らせた。読んでいる最中から眉間の皺がどんどん深くなる。


「セレナのものだわ」


 アシュタルテさまが紙を握る手の震えが、その書類の表面に小さな皺を寄せた。

 彼女の苛立ちや怒りががそのまま、紙に反映されていく。

 それを見守ってから、あたしは心を落ち着けてディルムに向き直った。


「不服を申し立てるにしても、支払期日が短すぎます。この金額の未払いがあると発表されると、ノートルと取引してくれる店は少なくなってしまう」


 完全に撤回してもらうには無理がある。

 未払いで割を食うのは平民たちだ。それだけは避けたい。

 冷静に、できるだけ理路整然と。起こりうる事実を把握しなければならない。


「冬にそれは困るんです」

「だから、その女を放り出してしまえば」


 ディルムの発言にあたしは彼を真っ直ぐに見る。

 放りだす。そんなことできるわけがない。

 アルフォンス殿下からの手紙は明らかな嫌がらせだ。アシュタルテさまがいる場所をなくしたいのだろう。

 あたしは言葉を選ぶように沈黙し、それからぎゅっと唇を引き結んだ。


「アシュタルテさまは、ノートルが陛下よりお預かりした身です。アルフォンス殿下が望んでいようと、放逐などできませんし……したくない」


 これだけ彼の顔を見つめたことがあっただろうか。

 この頃は、最初からあきらめて顔を見ることさえしなくなっていた。

 だけど、引けない。アシュタルテさまを守ることは、陛下からの命令だ。

 さらに、それ以上にあたし自身がそうしたくないと思っていた。

 ディルムの表情には苛立ちが滲み、あたしの言葉に反発する糸口を探しているようだった。


「とにかく頭金だけでも払って、期日を伸ばしてもらうことが先決でしょう」


 あたしは書類に指をすべらせる。下までたどり、その文章をじっと見つめる。

 請求額、期限までの短さ。どれも見たことがないレベルだ。

 頭金だけと言いながら、その頭金さえ払うのが難しいことに、あたしは悩みを深める。

 ディルムは頭金の話に我が意を得たりと、仰々し答えた。


「だが頭金は3割と書いてある。それだけで、900万フランだぞ」


 彼の言葉は鋭く、あたしの胸を抉った。

 アシュタルテさまも扇子を握っている手に力が入り、白くなっている。

 900万フラン。

 あたしは長くため息を吐き出した。


「いざとなれば、支度金で払うしかないでしょう」


 あたしの言葉にアシュタルテさまが驚いたように、こちらへ顔を向ける。

 扇子で隠されていない目元からだけでも、気持ちが伝わってくる。

 目があい、あたしは微笑みながら頷いてみせた。


「あれは、使えないと」


 アシュタルテさまの声が震えている。

 彼女は知っているのだ。ノートル領の中での900万フランの価値を。

 そして、冬という季節がいかに大変かを。

 支度金を使っても、使わなくてもこのままではノートル領に未来はない。


「払わなければどちらにしろ、冬の間に死者が出ます」


 あたしはぎゅっと目を閉じ、重い感情を吐き出すように口にした。

 どうして、こんなことになったのか。

 元々ノートルの財政は豊かではない。だが、開発を進めたことで、死者はだいぶ減らすことができた。

 今、あたしにできることは、とにかくノートルの民たちを生き延びさせる道を選ぶことだ。


「少しでも、延命するためです」


 手を組み胸の前で握りしめる。

 頭金を支払い、期日を伸ばす。そして、支払いを済ませる。

 それだけがノートルに残された道なのだ。

 自分で言っておきながら、それがどれだけ困難な選択か、途方に暮れた。

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