第6話
ノートルの冬は寒い。
窓には厚手のカーテンが吊り下げられ、太い木枠で囲まれている、少しでも窓から伝わる冷気を遮断しようとしている。
窓の近くに机を置くと背中が冷えるくらいだ。
あたしが使っている執務机は父から譲り受けたものだった。
十枚近くの書類を重ならないように広げられるほど大きく、長年、使い込まれたのだろう艶と色がお気に入りだ。
(落ち着かない……!)
自分の執務室だといのに、アシュタルテさまがいるだけで違う部屋のようだ。
書類や書籍をおく本棚が壁の片面を占めてあるので、見える背表紙を目で追っていた。
アシュタルテさまは部屋の中央に備えられたソファに座って、紅茶を飲んでいる。その左隣にあたしは座って、アシュタルテさまと部屋の間で視線を彷徨わせていた。
「紅茶をお持ちしましょうか?」
「まだあるから、大丈夫。ありがとう」
後ろに立っていたメイドのオレットから声をかけられる。
赤毛を三つ編みにして綺麗に結い上げている。花が彫られた髪飾りも可愛らしいのだが、メイド長に見つかれば怒られるだろう。
だけど、この子の笑顔はどこかほっとするのだ。
「失礼する」
背筋をピンと伸ばしたままだったアシュタルテさまの身体が小さく跳ねた。
ノックもせずにディルムが入ってきたためだ。
(あんなに言ったのに)
アシュタルテさまを預かることになって、すぐに執事長とメイド長に手紙を書いた。
部屋の準備を整えておいて欲しいこと。伯爵令嬢にも失礼がない侍女の準備についてだ。
ディルムには帰ってすぐに、直に伝えに行ったというのに。
アシュタルテさまの片眉が上がる。右手に握られた扇が僅かに開き、閉じられた。
(まずい)
誤魔化すようにソファから立ち上がり、ディルムを迎える体を取る。
小声でディルムの無礼を謝れば、視線がこちらを射抜く。頷いてくれたので、とりあえずセーフだったようだ。
ディルムの脇に立ち、片腕を広げてアシュタルテさまに紹介した。
「こちらがノートル領第一騎士団団長であるディルム・リルムッドです。わたしの婚約者になります」
必要最低。いるところだけ。
あまり長く話すとボロが出そうだ。
紹介に合わせて、ディルムが胸の前に片手をかざし、わずかに頭を下げた。
騎士の礼だ。まともな挨拶をする婚約者の姿に、あたしは胸を撫で下ろした。が、次の一言で血の気が引いた気がした。
「ノートル領第一騎士団団長ディルム・リルムッドだ。こんなところで第二王子の元婚約者殿に会えるとは幸せです」
アシュタルテさまの顔に影が差す。赤い瞳はキレイな二重に縁取られているのだけれど、細められるとドキリとする冷たさがある。
我が婚約者が無礼すぎて、身体が硬直した。
動かない身体の中で、心臓だけが早鐘を付き始める。
ディルムは何も気づいていない。顔色も変わらない。
アシュタルテさまは目をわずかに細めたまま、彼の挨拶を聞いていた。
「……そう、ありがとう」
アシュタルテさまは立ち上がりはしたが、挨拶は返さない。
通常の流れであれば、身分が下の者が名乗ったあと、上の者が名乗り返す。返してもらえなければ、名前を教える資格がないと言われたようなものだ。
それは知っていたようで、ディルムは少しだけムッとした顔をした。
「ノートル領にいる間は私が守りますが、勝手な行動は控えていただけると幸いです」
なんということを、あたしは額に手を当てる。めまいがした。
人間、驚きすぎると動けなくなるらしい。口をパクパク動かしても、さっぱり声は出なかった。
とうとう扇が開かれ、アシュタルテさまの口元が隠される。
令嬢は不機嫌な顔を見せてはいけない。つまり、今アシュタルテさまは隠せないほど不機嫌なのだ。
「ディルム騎士団長!」
やっと出た声は叫びに近かった。
ディルムはこちらを見ることもせず、アシュタルテさまに厳しい視線を投げかけている。
ディルムに注意しようとしたら、アシュタルテさまがあたしの前にすっと手を差し出し制止してきた。
戸惑いながら視線を交わす。
「あら、そうなのですね。ライラの下で大人しくしていますからご安心を」
にっこりと、アシュタルテさまは扇を広げたまま笑った。
完璧な笑みは、あたしが最初に見た柔らかさはない。
本当に人形のような美しさ。
いつ魔力の発現があってもおかしくない雰囲気にヒヤヒヤする。
「ノートルは寒い場所ですが、良いところです。どうぞ私の街を楽しんでください」
ここで、そのセリフ。
私の街?
冗談じゃない。まだ結婚もしていない彼に、その権利はない。
あたしはもう額に手を当てたまま、ディルムに声をかけた。
「ありがとう、ディルム騎士団長。もう、仕事に戻ってください」
ディルムは鼻息荒く部屋から退場していった。
足音が遠ざかる。物音がしなくなったのを確認してから、あたしは大きく息を吐いた。
ソファに座り直していたアシュタルテさまが小さく笑う。
「あら、大きなため息」
「すみません。ほんと、色々不躾なことばかりで」
気分としては跪いてお詫びしたい。
誠心誠意、頭を下げた。
ディルムへの怒りは沸々と湧いてくるが、今さらどうにかなる部分でもない。
アシュタルテさまは、紅茶を再び手に取り口をつけようとして、すぐにティーカップを置いた。
オレットが音もなく側に寄り、小さく頭を下げた。
「紅茶、入れ直しますよ」
「ありがとう、お願いするわ」
扇が降ろされたアシュタルテさまの顔はもう普通だった。赤い瞳が輝くような怒りも、人形のような冷たさない。
何を言うこともできず、ソファに座りテーブルの木目をじっと見つめる。
ふわりとオレットが入れ直した紅茶の良い匂いがしてきた。
「あれが婚約者なんて、あなたも大変ね」
「幼なじみなんです。父が生きていたときは、もう少しマシだったのですが」
きゅっと唇を結ぶ。
父がいなくなってから酷くなるばかりだ。
貴族のマナーくらいは守ってくれると思っていたのだが、その希望も先程の様子から打ち砕かれた。
アシュタルテさまは紅茶を片手に、憐れみの視線をもらう。
「王都だとできない新鮮な経験だったわ……爵位もない騎士風情が、この私にあの口調。たまには外に出るのもいいわね」
「すみません。騎士として女性は守るものという信念が」
嫌味たっぷりの言葉に頭を下げて、言い訳を口にする。
口にしているあたしでさえ、嘘くさいなと思った。
最後まで言い切る前に、アシュタルテさまに遮られる。
「私の街、ですって」
ぎゅっと握っていた手に力が入った。
アシュタルテさまは、唇を少し釣り上げて笑う。
「女性は支配するもの、の間違いじゃないかしら」
ひくりと頬が引きつるのを感じた。
たった一回でそう思われるほど、ディルムは酷かったということだ。
天井を見上げて目を瞑る。それから何も良い言葉が浮かばず、あたしは肩を落とした。
「アシュタルテさま……手厳しいです」
「ふふっ、あれの相手をまともにするほど馬鹿じゃないわよ。面白いものが見れそう」
入れ直された紅茶を口に含み、アシュタルテさまは小さく笑った。
ふわりとした笑顔は、年相応の可愛らしさがある。
不興は買ったが、不機嫌にはならなかったようだ。
あたしもソファに腰を下ろすと、紅茶に口をつけた。
(良い香り)
上手に淹れられた紅茶は気分転換にぴったりだ。
あたしはアシュタルテさまの顔に、気を取りなおして笑顔を浮かべる。
「今日は街を紹介します」
「ディルムの街かしら?」
楽しそうに笑うアシュタルテさまの言葉には、からかいが混じっていた。
あたしは紅茶を静かに下ろしたあと、両手の拳を握って答える。
「……ノートルの街です!」
アシュタルテさまは優雅に紅茶に口をつけながら笑うだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます