第16話

 冬の到来によって、ノートルの町は変化していた。

 冷たい風が街を貫き、人々の息が白くなっている。緑の力はなくなり、どことなく暗い雰囲気が漂っていた。

 土埃が舞う道を行き交う人々は、肩を寄せ合って寒さから身を守ろうとしていた。


「さむ……」


 あたしはワンピースに羽織った茶色い外套の前を引き寄せる。

 ストール一枚じゃ、足りなかったかもしれない。

 今さらのことにため息をつく。目的もなく家を出て、ふらふらと町を歩いていた。

 すると大きな布を身にまとった女性がにこやかな笑顔を浮かべながら近づいてきた。


「ライラックさま、今年も魔力布をありがとうございます」

「今年の冬も寒そうだから、うまく使ってね」

「はい」


 笑顔で見送る。

 保温効果のついた魔力布の配布はうまく行っている。だが、不安は尽きない。

 本格的な冬が始まると、薪や食料があっという間に減っていくのだ。

 支度金は冬を越すための手段であり、手を着けたくないのが、素直な気持ちだ。


(支度金は使いたくないけど、期日がな)


 あたしは道と牧場を分ける柵に手をついて、ぼんやりと眺めた。

 牧草地にはぽつぽつと牛と馬が放されている。牛や馬が散歩している様子が目に映る。

 ふーっと両手を温めるように、息を吐けば白い靄が昇っていった。


「ライラ!」


 ぼんやりしていたからか、突然の声に世界に連れ戻されたような気分になった。

 声の方に振り返れば、きちんとした佇まいのアシュタルテさまが見えた。

 少しだけ目を細める。彼女はいつでも令嬢として完璧だ。

 そのことになぜかほっとしている自分がいた。


「アシュタルテさま、一人で動き回っては危ないですよ?」


 あたしは近づいてくるアシュタルテさまに注意深く語りかけた。

 彼女はいつものように気品あるドレスに毛艶のよい茶色の外套を身にまとっていた。外套を着てさえ華やかさがにじみ出ている。

 アシュタルテさまはあたしの言葉に呆れたような表情を浮かべつつ、瞳には何かが隠されているように見えた。


「領主のあなたが動いてるのだから、今更だわ」


 あたしは意図的に真面目な口調で答えた。


「視察です」

「なら、私も視察よ」


 あたしとアシュタルテさまは顔を見合わせて笑い合い、歩き始めた。

 何となく、方向なんて決めてない。

 流れていく街は冷たく静かな雰囲気に包まれていた。

 どことなくタイミングを見計らっているのを、あたしもアシュタルテさまも分かっていた。


「ライラ、お金のことなんだけれど」

「はい」


 アシュタルテさまが足を止めた。じっと赤い瞳に見つめられた。

 彼女の視線には決意が見て取れた。次の言葉を言うまでの間、アシュタルテさまが珍しく小さく深呼吸した。


「あなたが支払う必要はないわ」

「ですが」


 どういうことだろう。

 あたしはアシュタルテさまの言葉に驚きを隠せなかった。

 不安のまま彼女を見つめていたら、アシュタルテさまは首を横に振る。


「少なくとも、頭金は私が払うわ。王都に戻れなくても、持ってきたものはあるもの」


 持ってきたものがある――というのは、持ってきたものを売り払うという意味だ。

 あたしを更なる驚きが襲う。その驚きのままアシュタルテさまを見つめた。彼女の言葉は素直にありがたい。少しでも支度金を残しておきたかった。

 だが、アシュタルテさまのことを考えれば素直に喜べない。


「それは」

「いいの、こういうときのために装飾品はあるのよ」


 アシュタルテさまは小さく首を横に振りながら微笑むだけだった。

 指を口元に当てて微笑むのを見て、少しだけ心が軽くなる。


「足りなかったら、働くわ」


 アシュタルテさまは数歩先に飛び出すと、くるりと軽やかに回って見せた。

 それから告げられた言葉にあたしは顔をしかめる。

 彼女ならできる。だからこそ、困ってしまう。


「それは一番辞めてほしいですね」

「でしょ?」


 ふふと16歳の令嬢らしい笑いが漏れた。その笑顔に心がほぐれていく。

 それから、彼女の決意を受け止め、表情を引き締めた。

 アシュタルテさまがそこまでしてくれるならば、あたしも全力を尽くす必要がある。


「わかりました。売却のときは、あたしも呼んでください」


 あたしの言葉にアシュタルテさまは少し首を傾げた。


「つまらないわよ?」

「こう見えても、目利きは得意なんですよ」


 戸惑いと疑問の表情を浮かべるアシュタルテさまに、あたしはウインクしてみせる。

 それが彼女に希望の光をもたらしたように見えた。



 アシュタルテさまの部屋は、ノートルの屋敷の中で一番整っている部屋だ。

 内装も一番モダンなものであり、掃除も行き届かせた。

 家具も滞在するには不足のないようになっている。

 だけれど、久しぶりに、というかアシュタルテさまが来てから初めて入ったその部屋は、アタシの記憶の中と様変わりしていた。


(まさか、こんなに綺麗になっているとは)


 部屋の主が雰囲気を作るというが、同じ家具や内装のはずなのに、どこか気品が感じられる。

 配置の問題なのか、なんなのか。

 あたしは商人と向かいあうアシュタルテさまの後ろでそんなことを考えていた。


「もう一度言ってくださる?」


 アシュタルテさまはソファに深く座っていた。彼女の視線は商人に冷たく注がれている。

 値段が思ったより低かったのだろう。

 あたしには彼女の心の中で不安と焦りが渦巻いているのを言葉尻から感じ取れた。

が、初対面の商人にそんなことができるわけもなく、豪奢な部屋の中で窮屈そうに身を縮こまっていた。


「合わせて300万フランになります」


 300万フラン。頭金の三分の一。

 まったく足りない。

 アシュタルテさまの表情も、苦悩を隠しているように見えた。


「本当にその値段なのね?」

「はい、間違いありません」


 アシュタルテさまがもう一度商人に尋ねる。

 商人は自信を持って頷き、誠実な表情で応える。

 その間に、アシュタルテさまからちらりと視線が送られてきた。


「この価格は他の店舗でも十分に証明されるものです。うちは信頼を大切にしていますから」


 商人が焦ったように言葉を付け足す。

 顔色が微妙に変わったのに気づいたアシュタルテさまは、微かに眉を寄せた。

 あたしは確信を持って頷いて見せた。


「うん、ちゃんとした査定だよ。むしろ、宝石の質もよく見てるんじゃないかな」


 アシュタルテさまの耳に顔を寄せて、小声で答える。「そう」とこれまた、あたしにだけ聞こえる返事が返ってきた。

 あたしは商人へ顔を向けるとにっこりと笑顔を作った。


「良心的な鑑定をありがとうございます」

「いえいえっ」


 まさかお礼を言われると思わなかったらしく、商人が驚いたように身を引いた。

 アシュタルテさまの表情には、複雑な思いが伺えた。

 あたしと商人のやりとりを静かに観察する裏で、アシュタルテさまはくるくると思考を回している様子だった。

 虚を突かれた商人はすぐに商人らしい笑顔へ切り替わり、言葉を続ける。


「それが私共の仕事ですから……さすが、目が肥えていらっしゃる」

「女で領主代行なんてしてると、舐められることが多いいので」


 肩をすくめて愛想笑い。

 昔のことを思い出すように部屋を眺めるた。

 ほんと、女というだけで値切ったり、吹っ掛けたり。スキルがなければ気づかなったことも何度かある。


「色々勉強させてもらいました」


 アシュタルテさまが興味深そうに見上げてくるのがわかった。

 あたしは視線を下ろさないよう注意しながら、会話を続ける。

 今アシュタルテさまの綺麗な顔なんて見たら、絶対頬が緩む。そんな顔は見せられない。

 商人は両手をもみ自分を売り込もうと前のめりになった。


「当商店は信頼を軸にしていますので、そんなことはいたしません」

「そうみたいですね」

「これからもご贔屓にしてもらえるとありがたい限りです」


 わかりやすいすり寄り。あたしは苦笑を隠しつつ、素直に頷こうとした。

 その時、アシュタルテさまが静かに扇子を閉じた。音が響き、視線が集まる。

 アシュタルテさまはたっぷり、自分に注目が集まるのを確認した後、閉じた扇子を顔の脇に寄せ顎をつんと上に向けた。


「もうちょっと増やしてくれたら、ぜひそういたしますわ」


 びっくりして言葉を失った。

 アシュタルテさまの表情は変わらない。

 ターゲットをあたしからアシュタルテさまに変えた商人が笑みを深める。


「なるほど……では400万にしておきましょう」


 400万?

 いきなり100万フランも上がってしまった。

 商人の顔を見る。笑顔。アシュタルテさまを見る。こちらも笑顔。

 首を振り子のようにアシュタルテと商人の間で動かした。


「助かるわ。特許申請したら早めに教えるわね」

「是非とも、お願いいたします」


 深々と頭を下げる商人を驚きのまま見つめる。

 頭を上げた商人は満足そうな顔でお金を払い、アシュタルテさまの売り払った商品を持って部屋を出ていった。

 扉が閉まる。

 あたしは大きく息を吐き、額に手を当てながら、アシュタルテさまの顔を後ろから覗き込む。


「アシュタルテさま?」

「あなたの能力を考えれば安いくらいよ。500って言えばよかったかしら」


 アシュタルテさまは少し顔を横に向け、なんてことはない口調で言った。


「はぁー、その機転、羨ましいです」


 あたしにはできない。適正と分かっていて、値段を吊り上げるなど、胃が痛くなるだけ。

 頬を掻きながらアシュタルテさまを見る。小さく首を傾げる可愛らしい姿を直視してしまう。

 失敗した。こうならないように、後ろに立っていたのに。

 あたしは顔が熱くなるのを感じた。


「こういうのは得意な人間に任せればいいのよ」


 アシュタルテさまがそう言い放ったので、こういう部分では敵いそうにないなと思った。

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