第33話 冷血令嬢の目覚め


 最初に見えたのは、ぼやけた天蓋に映る影だった。

 薪が燃える音がする。そして、体が重い。

 アシュタルテはどうにか首を動かした。


「ん……」


 自分のベッドに見慣れた深い緑の髪の毛が乗っていた。

 わずかに見える横顔は白い。

 ベッドの脇にひざまずき、上体だけを乗せている。

 こんな体勢で良く休んでられる――と思ってから、ふと、こんな体勢でも寝てしまうほど疲れている可能性に気づく。

 アシュタルテは、どうにか体を布団の中から引きだした。

 そっとライラの髪の毛に指を通す。


「ライラ……?」


 髪の毛を耳にかけ、そっと呼びかける。

 体はまるで錆びた道具のように、ギシギシと動かしづらく、刺さるような痛みがあった。

 ライラはんん、と小さく身じろぎするだけ。

 子供がもっと寝たいとせがむ仕草にアシュタルテは頬を綻ばせた。優しく見える頬を指の背で撫でる。

 と、笑ったせいで背筋に鈍い痛みが走る。

 額に手を当てて、この状況になった原因を考えた。


「ダンジョンで」


 スピドラクイーンが繁殖期を迎えていた。

 以前はクイーンだけがいた部屋は、扉を開けた瞬間に、スピドラに満ち溢れており、その光景に背筋が粟立った。

 多くの目が一気に自分たちを見てくる情景は思い出したいものではない。


「んぐっ」


 体に力が入っていたのか、ライラが顔をしかめた。

 顔だけを上げ、ごしごしと目元をこする。

 アシュタルテが起きていることには、まだ気づいていない様子だ。


「起きた?」


 しばらく、顎の下に手を置いて、彼女の覚醒を眺めていた。

 だけど、久しぶりのライラにそわそわしている自分がいることもアシュタルテは気づいていた。

 待てずに声をかける。

 ぱちぱちと年上とは思えないほど可愛らしい瞳が大きく瞬きされた。


「アシュ、タルテさま?」

「そうよ」


 ライラの琥珀色の瞳に、アシュタルテが映る。

 彼女に自分のことを刻み付けるように、アシュタルテはわざと魅惑的な笑みを作った。

 これも王妃教育の一つにあった。表情コントロールの一つだ。

 だけど、ライラには効果がなかったようで、頬を染める前に琥珀の瞳に薄い水の膜が溜まってきてしまう。


「起きて、る」

「心配、かけたわね」


 アシュタルテは何もつくろわず、ライラの頬を拭う。

 女の涙は武器になると聞いてはいたが、こんなところで実感するとは。

 ふにゃっとライラの顔が緩んだと思った瞬間に、涙が滝のように流れ始めた。


「ちょっ」

「ご、こめんっ」


 慌てて手を伸ばそうとするアシュタルテの前で、ライラは自分の腕で乱暴に涙を拭った。

 アシュタルテは唇を尖らせる。

 そんなにしたら腫れてしまうし、隠されるのが嫌だった。

 涙を拭き終わったライラは、アシュタルテの肩を掴み半ば強引にベッドに戻そうとする。


「寝てて下さい。すぐにお医者さん、呼んできますから」

「心配性なんだか、強気なんだか」


 上掛けに体を埋め込みながら、アシュタルテは大急ぎで部屋を出ていくライラを見送った。

 廊下を走る音。アシュタルテが起きたことを伝える声。

 それが横になっても聞こえてくる。

 ふっと、天蓋を見ながら頬を緩める。


「分からない人ね」


 だけど、それが何故か心地良い。

 ライラが医者を連れてくるまで、アシュタルテは大人しくベッドに入っていた。


「しばらく、魔法を使わないように……ですって」


 診察が終わり、次の日の朝。

 朝一番にアシュタルテの部屋に来たライラに医者に言われたことを教える。

 不満が顔に出ていたのか、ライラは苦笑した。


「使っちゃダメですよ。無理したんですから」


 ライラまでそう言う。

 アシュタルテはわざと澄まし顔で言った。


「使わなくて済むなら使わないわよ」

「もう!」


 頬を膨らますライラが可愛くて、小さな笑みが漏れる。

 魔法は使えないが、無理せず動くくらいはもうして良いらしい。

 体は健康体。毒の影響は魔法のみのようだ。

 だか、この分では動くこともライラが付きっきりになりそうな勢いだ。


「ダンジョンの件はどうだったの?」


 アシュタルテはソファにゆったりと座りながら、ライラに尋ねた。

 ライラの顔が一瞬で曇る。


「上手く行ったんだけど」

「だけど?」


 アシュタルテは首を傾げた。

 ステージア家からも手を回した。陛下の感触も悪くなかった。

 上手くいかないわけがない。

 ライラが話しだそうとしたとき、ノックと共に聞いたことのある声が響いた。


「おっと、そこからは私が説明しますよ」

「ピエール」


 扉に立っているのは、貴公子をそのまま形にしたような男。

 ライラがピエールと言ったのにあわせて、アシュタルテは深く首を傾げた。

 まさか、見間違いかと目を細める。


「ピエール……?」

「お目覚めはいかがですか? アシュタルテ嬢」


 にっこり笑い、胸に手を当て、腰を折る。

 その姿に、何の冗談だと頭の中で疑問符が舞った。

 記憶の中の姿と、胡散臭い笑顔が一致する。

 アシュタルテは眉間に皺を寄せた。


「ピエトロ殿下、なぜあなたがここに?」

「ピエトロ、殿下?」


 ライラがアシュタルテとピエールーーピエトロの間で視線を交互に動かす。

 それを視界の端に捉えながら、アシュタルテはピエトロの顔を真っ直ぐに見つめていた。

 だが彼が口を開く様子はなく、アシュタルテはため息交じりにライラにピエールの正体を告げる。


「ライラ、この人は第一王子のピエトロ殿下よ」

「ええっ?」


 アルフォンスの兄であり、王位継承権第一位の人間だ。

 アシュタルテの言葉にライラは小さく跳びあがった。

 素直な彼女らしく、目を丸くした後、固まる。

 どうやら処理が追い付かなくなったらしい。

 自分が寝ている間に、だいぶ好きに遊んでいたようだ。この殿下は。

 アシュタルテは手元にない扇子の代わりに指を揃えて自分の口元に当てた。


「ライラに顔を知られてないからって、悪ふざけが過ぎるんじゃありません?」

「おや、これでも心配して来たんだよ?」


 ピエトロはアシュタルテの言葉にもどこ吹く風と、気にしない様子だ。

 これだから性質が悪い。

 あの国王陛下の血を一番濃く受け継いでいるのは彼だろう。

 どうして、この兄がいて、アルフォンス殿下がああなったか不思議でならない。

 再起動したライラが、バネ仕掛けの人形のように頭を下げた。


「だ、第一王子殿下とは知らず、失礼な態度を……!」

「よいよい、陛下も私も詫びる立場だ」


 ピエトロが軽く笑って、ライラの肩を叩く。

 それだけのことにアシュタルテはムッとした視線を投げてしまう。

 いくら殿下とはいえ、気安く令嬢の体に触れるものではない。


「殿下」

「陛下は頭を下げられぬ。だから、私が代わりに来たわけだ」


 アシュタルテの棘のある呼びかけに、ピエトロが分かりやすく手を引き両手を上げた。

 まるで無罪を主張する犯罪者の様で癪にさわる。そのまま肩を竦めると、前髪をかき上げた。


「我が愚弟が多大なる迷惑をかけたようだからね」


 今さらのことだ。

 アルフォンス殿下に迷惑をかけられるのは、婚約が決まってからずっとなのだから。

 アシュタルテはすっと顔を横に逸らす。


「あなたがフラフラしてるから、アルフォンス殿下が増長したのでは?」

「耳が痛い」


 苦笑するピエトロには、どうやら自覚があるらしい。

 アルフォンスが派閥の人間に好きなように操られているお飾りだとしたら、

 彼はその派閥さえ使って自分のしたいことをする人間だ。

 元から勝負になる二人ではない。

 だからこそ、バランスをとるために、アシュタルテがアルフォンスにあてがわれたのだが。


「だが、スタージア家のご令嬢を切り捨てるようじゃ、王冠は渡せんだろう」

「勝手な」


 ピエトロがにっこり笑って言い切った。こういう部分が、本当に嫌になる。

 スタージア家は特許を扱っているからこそ、伯爵でありながら、様々な面に顔が利く。

 その家の令嬢であるアシュタルテを娶ることで、表面だけでもアルフォンスの面子を立てようとしたのだ。

 アシュタルテはピエトロとの間でキョロキョロしているライラの手を掴み、こちらに引き寄せた。


「アシュタルテさま」

「ライラ、その男は危ないのよ」


 アシュタルテの言葉にピエトロは薄っすらと笑うだけだった。

 ライラを引き寄せたままのアシュタルテに向かい、優雅に手を差し出す。


「さて、アシュタルテ嬢。弟の代わりに、私と婚約してくれはせぬかな?」


 その申し出に固まってしまったことは、アシュタルテにとって一生の不覚になった。

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