第34話


 どくん、どくん。

 あたしの耳には、自分の物なのか、アシュタルテさまのものなのか分からない動悸が聞こえていた。

 アシュタルテさまに引っ張られて、いまだに手は繋がれたまま。

 そこだけが熱くて、感触が残っていた。

 ソファに座ったアシュタルテさまは、初めて見る戸惑った表情でピエール――ピエトロ殿下を見つめていた。


「な、にを」

「スタージア家の持つ特許管理技術は、王家のために必要なもの」


 手を差し出した姿勢のまま、ピエトロ殿下はアシュタルテさまに話しかける。

 アシュタルテさまの部屋にある大きな窓から、冬の柔らかな日差しが差し込んでいる。

 あたしは呆けたようにその物語のような場面を見ているしかできなかった。


(でも、そうだよね)


 アシュタルテさまの能力は、おそらく群を抜いている。

 最初出会った時から、陛下に肉薄できるくらいの魔法スキル。

 礼儀作法からモンスターに至るまでの広範な知識。

 その上、名前の通り女神のような容姿を持つ令嬢。

 そんなの、王家が手放したくなくて当たり前なのだ。

 アシュタルテさまが、わずかに首を傾けピエトロ殿下を見返す。


「私は毒殺容疑で、ここに飛ばされている身ですが」

「そんなもの、誰も死んでいない時点で、うやむやにできる」


 すっとピエトロ殿下から表情が抜け落ちた。

 一瞬だけ見えた鋭い瞳は、まさしく為政者。

 毒殺容疑が何のために起こったのか、おそらく調べはついているのだろう。

 ピエトロ殿下が取られることのなかった手を戻し、対面のソファに腰を沈めた。

 そのまま膝の上に肘をつき、指を組むと、アシュタルテさまににっこりと笑って見せる。


「アルフォンスは下手を打ちすぎた」


 アシュタルテさまは、ピエトロ殿下の言葉に顎を引く。

 真剣に考え込んでいる様子は、あたしにはわからない貴族の権勢について考えているのか。

 あたしにはわからない。だけど、ピエトロ殿下にはきっとわかる。

 ここには大きな溝がある。


「君が冷血令嬢なんて噂とは正反対の人間ならば、王家に迎え入れるのが自然だろう?」


 アシュタルテさまは視線をピエトロ殿下に向けるだけで、言葉を発することはなかった。

 いつの間にか離された手が冷えていく。

 ピエトロ殿下は黙り込んだアシュタルテさまからあたしに視線を移す。

 そして、国王陛下そっくりの顔で笑った。


「ライラ嬢、アシュタルテ嬢はどんな人かな?」


 どんな言葉を求められているのか。何を言えばいいのか。

 わからない。アシュタルテさまに助けを求めることもできたのだろうが、それは違う気がした。

 ピエトロ殿下はニコニコとした笑顔を浮かべたまま、あたしの言葉を待っている。


「アシュタルテさまは」


 どうにか絞り出した声は、かすれている。まるで自分のものじゃないようだ。

 アシュタルテさまの赤い瞳があたしに刺さっているのを感じる。


「ライラ、答えなくても良いのよ」


 優しい声。あたしは胸の前に手をあてピエトロ殿下を真っ直ぐに見た。

 アシュタルテさまのことを悪く言った方が、もしかしたら王家に嫁がずに済むのかもしれない。そんなずるい考えも浮かぶ。

 だけど、それでも、あたしの中でアシュタルテさまを悪く言うという選択肢はなかった。


「アシュタルテさまは、とても有能で、人のために働くことができます」


 ピエトロ殿下はあたしの言葉に頷いた。目線だけでアシュタルテさまを見て、微笑む。


「そうだね。ノートルの町で、君の評判を聞いたよ」


 アシュタルテさまが顔をしかめた。

 ため息を噛み殺し、小さな吐息に変える。

 ピエトロ殿下は気にせず、あたしにウインクをしてきた。


「余計なことを」

「ライラ嬢に案内してもらった町は楽しかったよ。また行きたいほどにね」


 横から見てもわかるくらい、殿下に向けるアシュタルテさまの視線が鋭くなる。

 ピエトロ殿下と出歩いたのがそんなに気に食わなかっただろうか。

 あたしは首を竦めた。


「ライラ嬢から見て、アシュタルテ嬢は王家に相応しい人間かい?」


 すっと目を細めたピエトロ殿下に陛下の影を見る。こういう質問の仕方がそっくりだ。

 王城でアシュタルテさまの話をされた時のことを思いだした。

 来た。一番、嫌な質問。この質問が来ることは必然とも言えた。

 逃げ道のない質問に息が詰まる。

 あたしは気力を振り絞り、拳を握りしめ、気を張って答えた。


「もちろん。アシュタルテさまほど、優秀な人間はいません」

「ライラ」


 アシュタルテさまがあたしを見る。

 少しだけ眉が下がった表情。

 綺麗だけじゃない。アシュタルテさまはこんなにも可愛らしい部分もある。

 冷血令嬢なんて言われる王都に戻らず、ここにいればいい。

 目を見たらそんな本音が出ていきそうで。見れなかった。


「だから……こんな田舎ではなく、王家に迎え入れてもらうことが」


 頑張れ、もう少し。

 じんわりと熱を持ってきた目頭に気づかぬ振りで進む。

 さっさと言い切ってしまえ。アシュタルテさまを預かっただけの領主として正しい選択をするのだ。

 あたしの中の正しいあたしがそう囁く。


「一番良いのだと思います」


 言えたと思ったら、気が緩んだ。

 自分の頬を冷たい雫が流れていく。

 すぐに目元を拭った。


「ライラ、あなた」


 もちろん、隣に座っていたアシュタルテさまには見られていたようで。

 あたしは体を寄せてきたアシュタルテさまから逃げるようにソファを立つ。

 ピエトロ殿下は何も言ってこなかった。アシュタルテさまから伸ばされた手が、空中をさまよっている。

 それを握り返す資格があたしにはないのだ。

 失礼だとわかっていながら、顔も見ないまま挨拶を述べる。


「……すみません、疲れているようです。お先に失礼します」


 ぺこりと頭を下げる。

 このままここにいたら、自分を保てない。

 あたしは足早にアシュタルテさまの部屋を出た。


「どういうつもりですか、ピエトロ殿下」

「さてな」


 ドアが閉まる寸前に聞こえたアシュタルテさまの声は、聞いたことがないくらい冷えていた。

 返すピエトロ殿下はいつもと同じ雰囲気。

 あたしは自分の執務室へと一直線に向かう。

 この部屋に来た時とは真逆の気持ちに苛まれる。


「そりゃ、そうだよね」


 執務室に来るまでの間に、熱を発していた目頭はどうにか鎮火していた。

 自分に言い聞かせるように、アシュタルテさまのことを整理する。


(アシュタルテさまは元々、宮廷貴族。王都にいるのが自然な人)


 ここにいるのがおかしい人物なのだ。

 第二王子に婚約破棄されたとしても、第一王子に求められたのなら名誉回復には問題ない。

 ピエトロ殿下の言い方からすれば、毒殺容疑も晴れているのだろう。

 あたしは執務室の机の上に目を向ける。


「さっさと、映像記録装置を完成させなきゃ」


 これさえできれば、アシュタルテさまはピエトロ殿下と一緒に王都に戻ることができる。

 彼女に必要とされて、いろいろ考えて執務をするのは本当に楽しかった。

 ディルムに悩まされながら、頭を捻っていたときとは大違いだ。

 まるで夢のような時間。そして、夢はやはり醒めるものなのだ。


「あたしにできることは、それだけだから」


 毎晩、看病のために通っていたアシュタルテさまへの部屋へ行くことをせず、あたしは魔女の瞳の改良版の最終調整をすることにした。

 見送るとき、あたしは素直に祝福できるだろうか。

 今から練習しなければならない。

 そんなことばかりが、頭を過った。

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