第2話
カリカリ羽ペンが紙を引っかく音が響く。
広い机。乗せられた書類は3つほど山を作っていた。
一枚名前を書いたら、隣に置く。そして、また新しい一枚。
あたしーーライラック・フォン・ノートルはその作業をひと山終えてから、息を吐く。
窓の外では夕日が落ち始め、山の裾野から群青の気配が立ち上がっていた。
(もう、こんな時間)
書類をしていると、あっという間に時間が過ぎる。
窓ガラスに指だけでそっと触れる。外の寒さがわかる、冷たい感触が伝わってきた。
ガラスには緑の髪に琥珀の瞳を持つ疲れた顔をした女が映っていた。
我ながらひどい顔だ。
小さく苦笑して、ガラスの向こうを見る。じっと外を見ていると徐々に町の光が付き始めた。
住民たちが生きている証。その光景に胸の奥が暖かくなった。
ーーコンコン
唐突に部屋のドアをノックする音に、あたしは現実に引き戻される。
「失礼するよ」
「ディルム騎士団長」
「今はただのディルムだよ」
返事も待たない入室に顔をしかめる。レディの部屋に入るにしても、上司の部屋に入るにしても失礼すぎる。だが、これを失礼とも思わない騎士団長がいるのだ。
第一騎士団の団長を勤めるディルム・ホランは、何一つ悪いと思っていない顔でそこに立っていた。
肩を竦めて「ただのディルム」と宣う。つまりは騎士団長じゃなくて、あたしの婚約者であるディルムだということだ。
さらに胸の奥に重しが増えた。
(面倒なことになるなぁ)
そういう時、彼はろくな事を言い出さない。
親が決めた婚約者な上、幼馴染。付き合いも長い。
大体、言うことはわかっていた。じっと部屋の中に入ったディルムの動きを眺めていた。
「僕たちの結婚はいつにする?」
机の前まで来たと思ったらこれだ。顔をしかめなかった自分を褒めたい。
予想通りの言葉だったが、まさか言うとも思わなかった。
漏れそうになったため息を言葉に詰まったように誤魔化し、咳払いをした。
「ディルムさま、父がなくなったばかりですよ?」
父であるノートル領、前領主レット・フォン・ノートルが死んだのは2週間前。
まだ触れられたくない。仕事をすれば紛れはするが、いないことが馴染むほどの時間ではない。
そこで結婚の話なんてされても良い返事ができるわけがないだろうに。
あたしの言葉にディルムは面白くなさそうに眉を上げた。
「これは君のためを思って言っているんだ」
出た。君のため。
今度はため息さえ出ない。
ディルムは昔から、こうやってことあるごとに自分のして欲しいことを伝えてくる。
「領主の席を空けているわけにもいかないだろう?」
だからといって、父の死からひと月も経たないうちに結婚式をあげる人間はいないだろう。
結婚式を主催するあたし自身したいと思えない。前から予定されていたものでもないのだ。
「喪に服す期間、領主が空白のことはあります。代行として、あたしも活動していますし」
慣例としては1年は喪に服してから結婚式になる。
その間、領主不在という名目にはなるが、後継が女とはいえ決まっているのだ。何度も父と確認したし、問題はない。
あたしの言葉に、ピクリとディルムの眉が跳ねた。
「わたし、だろ?」
「……すみません、気をつけます」
小さく頭を下げる。
他人の一人称にまで目くじらを立てるのが、良い婚約者らしい。
苛立ちを抑える。ここで言い争うほうが面倒だから。
ディルムは勧めてもいないソファに座った。ぎっとスプリングが悲鳴をあげる。
「第二王子の婚約破棄については知っているか?」
「ええ」
座らず、立ったまま話を進める。
第二王子が夜会で毒殺されかけ、その犯人である婚約者の伯爵令嬢が婚約破棄された。
スキャンダルもスキャンダルである。
こんな地方でさえ、その話は回ってきていた。
「伯爵令嬢でさえ男の一存で婚約破棄できる世の中だ。僕はそうなりたくないと思っている」
「……はい」
ディルムが足を組んだまま、そう言い放つ。
言ってることは優しいが、中身は反対。
婚約破棄されたくないなら、言うことを聞けーー簡単に言えば、そういうことだろう。
ぐるぐると渦巻く黒い何かを押し留め頷いた。満足そうに頷くディルムは、気付きもしない。
「喪に服すのは良いが、明けてすぐに領主になるためにも結婚を済ませておく必要があると思うが?」
「お考えはわかりました」
ぐっと手を握りしめて我慢する。
これがあたしが領主になるためだったら、まだ許せる。だけど彼は自分が領主になることを言っているのだ。
この国で領主は男が優先される。
家を継ぐのがあたしでも、領主は夫のものになる。
さっさと領主になりたいから、結婚式をあげたい?
そんなことで、父親の喪に服す時間を短縮できない。
「もう少しだけ時間をください」
「よろしく頼むよ」
それだけを言って、ディルムは去っていった。
部屋から彼がいなくなって、引き寄せられるように椅子に腰掛ける。
はぁーとやっと好きにため息を放てた。
「なんで……婚約者ってだけで、あんなに強気なのかな?」
首を何度か動かし、肩を回す。
ディルムが出ていった扉を見つめながら、頬に両手を当てて顔を支えた。
「困ったなぁ」
婚約者だから、このまま行けば結婚することになる。
結婚すればディルムが領主になり、あたしの存在は領主夫人になってしまう。法律としては、それが正しいことだ。
ただ、どうしてもーー小さい頃から育ったこの街を奪われるような気がしてしいた。
何よりディルムがあの態度だから、あたしの意見なんて聞いてもらえないだろう。くるくると思考が周っていたところに、またノックの音が聞こえた。
「ライラック様、失礼します」
執事長のジョセフの声だ。
丸めていた背中を伸ばして、軽く衣服を整える。
それから返事をした。ディルムのときとは違う。礼儀正しい作法と共にジョセフが入ってくる。
「どうしたの?」
「明日の視察の確認をお願いします」
「今、行きます」
視察。街に出られる。一気に気分が上向く。
あたしは机から立ち上がり、視察の準備に向かった。
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