第29話 由貴と二人の姉妹
「美也子は、無理しないでいいからね」
鈴零にとってこの言葉は、今では後悔の念として胸に深く刻み込まれている。
自分と妹に大きな差があったことは、幼い頃から自覚していた。
勉学もスポーツも社交性も、圧倒的に自分のほうが上だった。単純に年上だから───これだけでは説明できないほどに、明確な差だった。
鈴零はマウントを取りたかったわけでも、妹と比べられて優越感に浸っていたわけでもない。
むしろ、何も悪くない妹が勝手に比較され色々と言われていたことに対して申し訳なささえ覚えるほどだった。
だから、比較されては落ち込んでいた美也子を慰めるために、そんな言葉をかけた。かけ続けた。
うっかり口癖になるぐらいまで、しつこく。
けれど、この気遣いは美也子を余計に苦しめていたのではないか、と今振り返って思う。
もっと他に適切な言い方があったのではないか。
妹はこの言葉を、どういう風に捉えていたのだろうか。素直に受け止めてくれたのか、もしくは、考えたくもないけれど、皮肉や嘲笑の類として解釈してしまったのではないか。
キスや噂の件からそういった思いは次第に強くなっていき、鈴零は猛省するようになった。
きっと、もっと良い方法があったのだ。
だが、自責の念に駆られるには遅すぎた。
美也子は鈴零を露骨に避け始め、同じ屋根の下で暮らしているのに、まともに顔を合わせる回数すら減ってしまった。
何もかも、気づくのが遅すぎたのだ。
鈴零は部活から帰宅し、部屋のベッドでスマホ片手にお気に入りのお笑い番組を見ていた。
呆然と、ただ景色を眺めるように。
普段は腹を抱えて大笑いできるのに、ちっとも笑えない。番組がつまらなくなったわけではなく、十中八九、鈴零自身の問題だった。
───そういえば、と思う。
小学生の頃は、美也子と一緒にテレビを見ていた。
肩を密着させ、両親から叱られるほどの近い距離から、二人仲良くテレビを無我夢中に楽しんでいた。
それはお笑い番組であったり、ドラマであったり、アニメであったり、映画のテレビ放送だったりして───。
スマホの普及が、姉妹のこうした日常を切り裂いた原因でないことは鈴零が一番よくわかっている。
もう、あの頃には戻れないのだろうか。
二人で喜んだり、悲しんだり、笑ったり、怖がったり、感情を共有することはもう、叶わないのだろうか。
自然と、涙が目尻に浮かんでいた。
拭う気力すら残っておらず、そのまま頬から滴り落ちる雫を感じながら、テレビをじっと見る。
もう視界がぼやけて内容すらちぐはぐだったけれど、それでもいつか、隣に妹が座ってくれることを想像し───
「お姉ちゃん」
発された声に、反応ができなかった。
聞き馴染んだ声だったのに、にわかに信じられなかった。
やがてゆるやかに首を曲げて、声の主を確かめると、鈴零は素っ頓狂な声をあげた。
「んぇ!? 美也子!?」
そこには、ベッドに足をつけて座っていた鈴零の隣には、妹の美也子が座っていた。
キスの一件以来、一切自分から話しかけてくることがなくなった、あの、美也子が。
妹はなんだか、吹っ切れたような様子だった。
穏やかな表情で、佇んでいる。
「なに、その反応?」
美也子はくしゃりと顔を緩ませ、困ったように言った。
「い、いや⋯⋯びっくりして」
「ごめんね急に。ちょっと、話したいと思って」
「話?」
「そう。いままで言えなかったこと全部、洗いざらい話そうって」
「あ、あぁ⋯⋯」
鈴零は突然の状況に戸惑いながらも、なんとか相槌をうった。
先を促すと、美也子は沈痛な面持ちで、訥々と語り始めた。
「私ね、ずっとお姉ちゃんが羨ましかった。成績がとっても良くて、不器用な私と違って何でも器用にこなす、お姉ちゃんが」
私は器用なんかじゃないよ、と喉まで出かかった言葉を呑み込み、鈴零は黙って耳を傾ける。
「尊敬してるし、自慢に思ってるけど⋯⋯それと、それと同じぐらい⋯⋯嫌いだった。それから、こんな感情を持つ私も嫌いだった」
美也子は震えた声で言った。
薄々察していたことを告白され、鈴零は悲しさを覚える一方、どこかほっとする気持ちにもなった。
「お姉ちゃんは何も悪くないのに、ただ頑張って結果を出してるだけなのに、私はずっと嫉妬してた。そんな嫌な私を、認めるのも嫌だった」
美也子の声には徐々に嗚咽が混じり始めていた。
必死に堪えてはいるが、想いの核心に近づくにつれ、洟を啜る音が大きくなっていく。
「あの時⋯⋯由貴先輩にキスした理由は好きなったからって言ったけど、それは半分の理由で、もう半分はお姉ちゃんのものを⋯⋯お姉ちゃんのものを何か一つ奪ってやろうって、思った。何でも持ってるんだから何か一つぐらい無くなっても別にいいじゃんって考えて、お姉ちゃんのことなんてなんにも考えずに、私は───」
「もういい」
鈴零は途中で美也子を抱きしめた。
背中に両腕を回し、優しく包み込むように。
それ以上は言わせたくなかった。
それ以上、言う必要はないと思った。
美也子の中で、どういう心境の変化があったのかはわからない。
けれど、彼女は包み隠さず正直に話してくれた。
それだけで、鈴零には十分だった。
「ごめん、ね⋯⋯お姉ちゃん、こんな⋯⋯こんな嫌な妹で、ごめんね⋯⋯」
鈴零の胸の中で、美也子はむせび泣く。
これまでの行いを懺悔するように、必死でごめんねと繰り返す。
妹の頭を撫でながら、鈴零は頭を振った。
「私も⋯⋯ごめんなさい。美也子が苦しんでる時に何もできなくて⋯⋯」
鈴零もこれまでの後悔を涙声で口にした。
美也子は姉の身体に擦り付けるようにして、首を横に振った。
「うぅん。お姉ちゃんは⋯⋯何も、何も悪くないよ⋯⋯いつも、心配してくれてありがとう。大好きだよ。これも、私の本心」
「美也子⋯⋯正直に話してくれて、ありがとう」
その後、涙が枯れるまで、二人は抱き合った。
枯れたあとは、姉妹でたくさん話した。
いままでの微妙にすれ違っていた空白の期間を埋めるべく、たくさん、本当にたくさん。
その日は、二人で眠ることにした。
眠る前も、たくさん話した。
姉は最近はまっている洋服、音楽、恋愛ドラマなど。
妹はBLコミック、アニメ、ゲームなどを。
お互いにあまり詳しくない分野だったけれど、それでも会話は弾んだ。
姉は妹を、妹は姉をよく知りたかったから。
話題は、由貴にも移った。
「本当に、由貴先輩とはうまくやれてる? あ、ごめん⋯⋯全部が私が原因なのにこんなこときいて⋯⋯でも、私のせいで関係が壊れちゃったらって思うと本当に申し訳なくて⋯⋯」
「いいのよ美也子。由貴くんとは順調だから、心配しないで。ぎくしゃくしてるように見えたのは私が美也子と話せなくなって、落ち込んでたからなんだ。こうして美也子と仲直りできた今、何も問題ない」
「よかった⋯⋯」
美也子は本気でそう思うように呟いた。
その様子から彼女の複雑な感情の交錯を読み取り、鈴零は慈しむように笑みを作った。
やがて話題が尽き、そろそろ就寝のタイミングとなった。
「一緒に寝るなんて久しぶりだね」
美也子はすっかり泣き腫らした目で言った。
「そうね」
部屋の明かりを消すと、鈴零が頷いた。
優しく灯ったナイトライトが、ベッドに入った姉妹の顔を淡く照らす。
「お父さんやお母さんがいつも帰り遅いから、美也子が寂しくなって、私の部屋にしょっちゅう忍び込んできてた」
鈴零が悪戯っぽく笑うと、美也子は恥ずかしそうに微笑んだ。
「おやすみ、お姉ちゃん」
「うん、おやすみ。美也子」
一つの布団を共有し、向かい合った形で横たわり、手を繋ぎ、相手の体温を感じる。
(本当に、久しぶり⋯⋯)
薄れゆく意識の中、鈴零は懐かしい感情に浸っていた。
(美也子とまた話せるようになって、よかった)
昔のように戻るのではない。
これからも変わり続ける。
美也子も、鈴零自身も。
また喧嘩したり、すれ違ったりすることがあるかもしれない。
それでも、そんなときでも、隣にいてほしい。
鈴零の紛れもない本心だった。
だって美也子はたった一人の妹で、本当はとっても優しい子なのだから。
先に寝息をたて始めた美也子の頭を起こさないようにふわりと一回撫で、鈴零も眠った。
今日はきっとぐっすり眠れる、そう思った。
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