幕間1 憂鬱な体育祭
第31話『ボーイッシュ美少女に挨拶される男』
正面から吹いてくる冷たい風を切りながら、ひたすら腕を振る。
手が悴んで感覚がなくなり、今はグーの形をしているのか、パーの形をしてるのかすらよくわからない。
おそらく、その中間のような形をしているのだろうな、とぼんやり考えながらグラウンドの土に引かれた白線の外側を走る。否、走るといってもジョギング以下のスピードで、足取りはふらふらとしていた。
中学生の伊織は、この時期のマラソンが心底苦手で嫌いだった。
元々運動全般はてんでダメだったけれど、とりわけ持久力が試されるシャトルランやマラソンの類になると酷さの次元が一つ変わってくる。
伊織の嫌いな冬の季節に行われることも、嫌悪に拍車をかけていた。
ちなみにこの日の体育の授業は400メートルトラックを10周走るというシンプルな内容で、つまり四キロ走ればいい。
(ぐ、ぐるじぃ⋯⋯)
伊織は心中で苦しみを漏らしたあと、深く息を吸い込んだ。さっきから呼吸が荒すぎてちゃんと空気を肺に送り込めているのか不安になったからだ。
口に入ってきた空気は氷のように冷たく、とても酸素とは思えない。結局これも上手く吸えたのかわからなかった。
でも現状倒れてはいないのだから、きっと呼吸は出来ているのだろう。確証はないけど。
(これで、5周ぅ⋯⋯やっと半分、か⋯⋯)
スタート地点まで差し掛かった伊織は、先の長さに絶望した。トラックの内側に設置されたタイム計測器を見やると、13分13秒を示していた。なんだか不吉だし、遅い。しかも前半に全力を出してこの程度なのだから、失速確定の後半を考えると最終的に30分以上はかかるかもしれない。
というか、走り切れるのかすらわからなくなってきた。マラソンの授業は久しぶりとはいえ、流石にそれは笑えない。クラスメイトから馬鹿にされてしまう。
(そういえば蒼介は⋯⋯もうラスト一周とかかな?)
ふと蒼介のことが頭に浮かび、視線を彷徨わせる。
伊織は現在ドベで、ドベ2は前方で白線ギリギリを攻めて走っている太っちょな男子生徒。
伊織の視界は太っちょな彼の背中以外固定されておらず、目まぐるしく変わっている。
一人、また一人とどんどん追い抜かれ、同じやつに二回も三回も追い抜かれることだってある。
蒼介もそのうちの一人なのだが、今どこにいるかわからなかった。大きな笛の音が鳴るまでは。
ピピーッ。
甲高い音の方に顔を向けると、蒼介がスタート地点から少し離れた場所にいるのが見えた。
息を整えるようにゆっくりと歩いている。
もうゴールしたのだろう。一番乗りだ。
蒼介は体育教師からクリップボードらしき物を受け取り、鉛筆で何やら書き込み始めた。多分タイムだ。
ここからだとタイム測定機の数字は見えないけれど、13分13秒という不吉なタイムから伊織の体感で三分も経過していない気がするから、15分台か。
だとしたら、伊織のほぼ半分と言ってもいい。
(一緒に走ろうって言ってくれた蒼介が遥か昔のようだ⋯⋯)
伊織は乾いた笑いを零して前に向き直った。
実を言うと、伊織はスタート前に蒼介から「一緒に走るか」と誘われていた。
伊織からすればそんな心強い提案はないので、友達の提案を喜んで受けた。
結果、スタートと同時に約束は塵となった。
蒼介はびゅんびゅんと風を切るように颯爽とかけていき、あっという間に伊織を置き去りにしてしまった。最初の一周は一緒に走る、みたいなこともなく、あっさりと序盤から裏切った。
伊織としては中盤に入るまでは並走してくれると考えていたので、ちょっとショックだった。
まぁでも仕方がない。自分がのろすぎるせいだからと暗い気持ちを切り替える。
そうだ。仕方がない。
伊織は怠け者のカメで、蒼介は真面目なウサギなのだから⋯⋯。
「よっ」
そんなウサギが伊織の横についたのは、間もなくだった。平然と片手を上げて、伊織に挨拶をしてくる。
「えっ」
伊織は驚きで足が止まってしまいそうになるのをなんとか堪えた。一度でも止めてしまったら、きっと体が動かなくなる。
「えってなに。一緒に走るって言ったろ」
「そ、そうだけどっ⋯⋯蒼介、もう終わったんじゃっ……?」
「だから、終わったあとに走ってる。先生には許可取った」
蒼介は親指を立てた。
四キロ走った直後とは思えないクールな口調で、とんでもないことを言っている。口ぶりからして10周走るまで付き合うつもりだ。
「な、なんだそれっ⋯⋯」
(──あぁもう本当に最高だな、蒼介は)
伊織はそう叫びたい気持ちを抑え、代わりに瞳を少し濡らした。
疲労も痛みも寒さも、どこかへ吹き飛んでしまった。
もちろんスピードが上がるわけではない。
でも、最後まで走り切ろうと思えるだけの気力は回復した。
「マラソンは、あとのほうが辛いし」
「⋯⋯うん」
「一緒に走るなら、後半かなって」
「⋯⋯ありがとう、蒼介」
正面から吹いてくる冷たい風を切りながら、ひたすら腕を振る。
手が悴んで感覚がなくなっても、ジョギング以下のスピードでも、足取りがふらふらでも、最下位でも、隣に頼れる親友がいる。
親友は軽い呼吸だけで伊織と並走している。
きっと全力の半分も出していない。
本当に、本当に、心強い。
そう思うと、次第に身体も心も温まってきた。
これなら走り切れる。
伊織は横にいる蒼介に微笑みかけ、前を向いた。
***
六月十一日。
学校に到着し、下駄箱で上履きに履き替えていると、伊織は意外な人物から声をかけられた。
「──はよ、冴木」
中性的、かつ凛とした声で伊織に挨拶したのは、黒髪ボブカットの女子生徒。
手短な挨拶だったので“おはよう”の『お』と『う』が伊織には聞き取れなかった。
それぐらい、男前な言い方だった。
「あ、う、うん⋯⋯おはよう」
ワンテンポ遅れてどもりながら返事すると、女子生徒は端正に整った顔を少し緩ませた。
リボンのある胸に手を置いて一息吐くと、
「は〜よかったー⋯⋯」
「な、何が⋯⋯?」
「いやほら、私ら話したことないからさ、急に挨拶しても無視されるかもなって」
「さ、流石に無視はしないよ⋯⋯同じクラスだし」
「おっ。覚えてくれてんだ。私のこと」
美人にも美少年にも見える女子生徒は、嬉色を含んだ笑みを浮かべた。
伊織は相変わらずのコミュ症(女子限定)と格闘しながらも、なんとか彼女の名前を口にする。
「う、うん⋯⋯えぇと、
漆さんこと
「名前、知ってくれてたんだ」
「そ、そりゃあ漆さんが──」
伊織はそこまで言いかけて、口を噤む。
この先に続く言葉は「俺の名前を覚えてくれていたから」だったのだが、なんだか気恥ずかしくなってやめてしまった。
そう──彼女は以前、美也子が伊織に会うためにクラスへやってきた際、誰も伊織の下の名前を認知していなかった状況で、唯一覚えてくれていた女子生徒だった。
昔からの友人である影光や真雪を除いては、おそらく彼女がクラスメイトで初めて伊織の名前を呼んだに違いない。
伊織はそれから、真姫のフルネームを覚えた。
むこうが覚えてくれているのに、こちらが覚えないのは失礼だと思ったからだ。
この前影光からクラスの女子の名前を言えるかと聞かれたが、漆真姫なら一瞬で答えられる。
「私が?」
「い、いや⋯⋯なんでもないよ。それで、漆さんは自分に何か用が⋯⋯?」
伊織は慌てて話を逸らし、一番気になっていたことを訊いた。
まだ唐突な挨拶に対する意図をはかりかねている。
「あー、そうだったそうだった」
真姫は思い出したように目を瞬かせ、右手で大女優さながらの大袈裟な動作で髪をかきあげた。
彼女のひとつひとつの動きが、目が離せないほど美しく、清らかだ。
真姫は咳払いをすると(これもなぜか様になっている)、申し訳なさそうに眉尻を下げ、片手をかっこよく上げた。「ごめんな」のジェスチャーだ。
「冴木に謝らなくちゃいけないこと、あるんだよね」
「謝ること⋯⋯?」
はて、一体なんのことだろう。
彼女から何か酷いことをされた心当たりがまったくないので、伊織は首を傾げた。
そんな様子には目もくれず、真姫は意を決すと、一息に言った。
「冴木、この前休んだじゃん? だから体育祭の種目決めの時、提案したんだよね。冴木もくじで参加させてあげたらって。このまま自動的に余り物の競技押し付けられるよりはマシだと思って」
「──!」
伊織は大きく目を見開いた。
なんと、
(なんて、いい人なんだ⋯⋯!)
伊織は感動のあまり、瞳をうるうる輝かせた。
目の前に佇むのは神か、仏か、──いや、漆真姫様だ。漆真姫様万歳。わっしょーい。
「でも結局私、きつい競技引いちゃってさ⋯⋯冴木って運動部とか入ってないよね? だから、まじでごめん。余計なことしたかも⋯⋯」
「いや、もう全然気にしなくていいから⋯⋯どちらにしても、マラソンとリレーは最後まで余ってたと思うし⋯⋯むしろ、僕にもチャンスをくれてありがとう。漆さん」
伊織は労るように、丁寧に感謝を述べた。
腰を四十五度ほど曲げ、頭を下げる。
「えっいやいや私何もしてないから、頭上げてよ。まぁでも、よかったー。冴木が許してくれて。じゃんけんからずっと気に病んでたんだよね」
「いや、許すも何も──」
「じゃ、冴木。また教室で。私職員室寄らなきゃいけないから」
「え、あの──」
呼び止める暇もなく、真姫は行ってしまった。
一人取り残された伊織は、真姫に「ありがとう」と言えなかったことを気にしつつも、思考は体育祭へと移っていた。
(そうか⋯⋯もうすぐ体育祭か⋯⋯)
伊織は途端に憂鬱な気分に襲われる。
残り十日までに迫った体育祭。
自分の出場種目はリレーとマラソン。
どちらも配点が高く、重要度が高い競技だ。
リレーは責任重大だし、マラソンには苦手意識がある。
伊織は中学生の頃にマラソンで蒼介に並走してもらった過去を思い出し、ふっと頬を緩めた。
(体育祭でも、蒼介に走るの付き合ってもらおうかな)
冗談を心の中で呟いてから、本気でそうならないかなと思い始めた自分に気づき、伊織は自嘲気味に笑った。
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