第32話『青風院代表リレー練習』


「ちょっとすまない。冴木、今いいか?」


 強面の上級生が伊織に声をかけて来たのは、真姫と話した日の午後、昼休みの時だった。


「あぁ、はい」


 教室で影光と昼食を食べていた伊織は、頬張っていたメロンパンを一旦机に置き、先輩の男子生徒に応じた。彼とは面識がある。


「リレーのことですか?」


 訊くと、先輩の男子生徒は仰々しく頷いた。

 太い眉が印象的な彼は、伊織が出場する『青風院代表リレー』と同じチームメンバーだ。組は赤色。


 代表リレーは各学年各色の組から二人ずつ選抜されるため、学年の違う生徒とも一緒に走ることになる。


 伊織は先週の合同練習で初めてチームメンバーを知った。伊織含めた男子四人、女子二人だった。

 その六人で1200メートルを走り、青組や緑組と競い合う。


「リレーについて考えたんだけどな、やっぱり一回か二回は実際に走ったほうがいいと思ったんだ。ほら、合同練習のときは、整列位置の確認だけで終わっただろ?」

「そうですね」

「だから、赤組の俺たちで放課後集まって練習しようという話になったんだが、冴木も来てくれるか? 都合がつかないなのなら無理強いはしない」

「いつでも大丈夫です」

「そうか、助かるぞ! また日程が決まり次第、グループラインに送信させてもらう!」

「わかりました」

 

 相槌みたいな返事しかしない伊織を気にも留めず、先輩生徒は満足そうに教室を出ていった。

 傍からやり取りを眺めていた影光は、唇を歪めながら苦笑する。


「グループラインまで作ってんのかよ。えらい熱心な人だな」

「まぁ、バリバリの体育会系っぽいしあの人⋯⋯」

「たかだか体育祭の種目一つにマジになるとか、こっちはいい迷惑だっつーの」


 影光は面白くなそうな顔で吐き捨てた。

 伊織も影光も、こうした学校イベントには消極的である。


「熱井先輩は良い人だよ。何事も全力で頑張る人なんだろうけど押し付けてはこないし。今のだって断っても文句言われなかったと思う」

「ふーん。ってか、『ねつい』って名前まで暑苦しいのな」

「ちなみに『ねつい』の『ねつ』は熱血の『ねつ』ね。あと下の名前が暑史あつし

「近くにいるだけで溶けそうだな⋯⋯」


 伊織も同感だったが、熱井先輩のことは嫌いじゃなかった。むしろ好感すら抱いている。


 熱井先輩は合同練習の際に、立つ場所がわからなくて困っていた伊織を助けてくれた。

 そういうことが当然のようにできる彼に、嫌悪の感情は湧いてこない。湧いてきたとしたら、嫉妬か妬みでしかありえないだろう。


 影光も熱井先輩の“ガチでいい人オーラ”を薄々感じ取っていたのか、それ以上の軽口は叩かなかった。

 代わりに伊織の肩に手を伸ばし、


「まぁ、せいぜい頑張れよ。俺はぬくぬく日陰で見守っとくから」


 影光にしては、珍しく素直な激励だった。

 最後の一言は余計だけど。

 

「うん。不幸中の幸いなのか知り合いが多かったし、頑張れそう」

「知り合い? 蒼介も同じチームなことは知ってるけど、他にもいんの?」


 伊織は答えず、放置されていたメロンパンを掴んでかぶりついた。

 

 チームメンバーは熱井先輩、伊織、蒼介の他に三人いる。

 そのうち一人の女子が⋯⋯。



「ね、熱井せんぱっ──ぐひょぷっ!」


 二日経ち、放課後のグラウンド。

 外で活動する運動部が軒並み休みであるタイミングを狙って、熱井先輩がこの日に招集をかけた。

 考えることは皆同じらしく、伊織たち六人のチーム以外にも体育祭の練習でグラウンドを使用する生徒はそこそこいた。だが、このぐらいなら支障はない。


 最初に始めた練習は、バトンの受け渡しだった。

 今、戸田美也子が熱井先輩にバトンを渡そうとして盛大にずっこけたところである。

 ぐひょぷ、という謎の奇声については触れないでおく。


「美也子くん! 大丈夫か!」


 体操着姿の熱井先輩が血相を変えながら地面に倒れ伏す美也子に駆け寄った。熱井先輩の前で待機していた伊織も、それ以外のメンバーも同じように美也子のもとへ向かう。 


 しばらく微動だにしなかった美也子だったが、突然むくりと起き上がり、「だ、大丈夫です⋯⋯」と枯れた声を出した。


「怪我はない?」


 膝に手をついて中腰の姿勢になった三年女子が心配そうに尋ねる。彼女は黒縁眼鏡をかけていた。

 美也子は打った箇所を一通り確認したあと、「はい。問題なさそうです」と言い、控えめに笑った。


 それぞれ安堵するメンバーの顔を、伊織は改めて見回す。


 熱井先輩、蒼介、黒縁眼鏡の三年女子、坊主頭の一年男子。

 四人ともタイプは違えど身体が引き締まっていて、顔が日に焼けていた。

 ひと目見ただけでごりごりの運動部だとわかる。

 足も絶対速いに違いない。


 それに比べ、伊織と美也子は肌が白くて華奢で、見るからに貧弱だった。

 チームの中で完全に浮いている。場違いだ。


(まぁ一人仲間がいるぶん、気が楽だ⋯⋯)


 伊織の失礼な心の声を察したのか、美也子が詰め寄って来て、見透かしたようなジト目を向けてくる。


「なんですか冴木先輩。なんで私のほう見て安心したような顔してるんですか」

「怪我がなくてよかったと思って」

「嘘つきですね! 今のは間違いなく同類を見る眼差しでしたよ。冴木先輩に同類と思われるなんて癪です!」

「別にそんなこと思ってないよ」

「本当ですかぁ⋯⋯?」


 むむむと上目遣いで睨まれ、伊織はたじたじになった。助けを求めてすぐそばにいた蒼介に視線を送ると、「その女子と知り合い?」と質問された。

 伊織は逃げるのにはこれ幸いとばかりに答える。


「あ、あーうん。由貴の彼女の妹さん。ほら、前話してた子」

「⋯⋯なるほど」


 蒼介は美也子をまじまじと見つめ、やがて得心がいったように頷いた。


「リレー、よろしく」

「え、あ、はい。よ、よろしくお願いします⋯⋯」


 美也子は急によそよそしい態度になりながらも、蒼介と会釈を交わした。

 どうやら無事に話題を逸らすことに成功したようだ。伊織は小さくガッツポーズする。


「よし! 美也子くんも問題ないようだし、練習再開だ」


 熱井先輩が仕切り直すように手を叩いた。

 伊織たちは各々の返事をしてから持ち場に戻る。


 練習は一時間弱で終了した。

 熱井、蒼介、黒縁眼鏡の三年女子、坊主頭の一年男子はたったこれだけの練習時間で要領を掴んだようだが、伊織と美也子は終始動きがまごついていた。

 あと何度練習できるかわからないのに、これでは先が思いやられる。伊織は不安になった。


 練習後の帰り道。体操着から制服に着替えた伊織は、久々に一緒に帰宅する蒼介と、さも当然のようについてきた美也子の三人で、住宅街を歩いていた。

 日はもう沈みかけで、夕色の空が眩しい。


「なんですか冴木先輩。しれっとついてきちゃ悪いですか。帰る方向途中まで同じなんですから文句言わないでください」

「俺何も言ってないし⋯⋯」


 また美也子が勝手な想像で抗議してきたが、(あ、一緒に帰る気なんだ)と思ったのは事実なので、曖昧な返ししかできなかった。


(まったく、なんなんだこの子は⋯⋯)


 姉と由貴の一件から、美也子は大きく変わったらしい。

 いや、変わったというより、取り繕わなくなったというか、殻を破ったというか。

 とにかくこれが、彼女のデフォルメなのだろう。


 正直、なんて面倒くさい性格なんだと思わなくもない。

 伊織も人のことは言えないので、口には出さないけれど。


「いいえ。顔が言ってます」

「じゃあどんな顔すればいいんだ」

「知りません。自分で考えてください」

「えぇ⋯⋯」

「⋯⋯二人は、付き合ってるの?」


 唐突に、蒼介が口を開く。


「付き合ってません!」


 すぐさま美也子が否定した。

 伊織は美也子とハモることを危惧し、一泊置いたのちにゆっくりと首を振る。

 対する蒼介の反応は「あ、そう」というあまりに素っ気ないものだった。

 自分からきいておいて、そこまで興味がなかったのか。


「なんか、俺と影光のバイト先の後輩と友達になったみたいで。それつながりで何かとうざ絡みしてくるようになったんだ。影光もうざ絡みの被害に遭ってる」

「⋯⋯なるほど」


 一応捕捉しておいたけれど、蒼介の反応的に必要なかったかもしれない。


「なんですか人を害虫みたいに言って! わたしは蛆虫じゃないですよ!」

「誰もそこまで言ってないって」


 そこから二分ぐらい沈黙があり、それはそれで耐えきれなくなった伊織は疑問を投げることにした。


「そういえば、君は──」

「美也子」

「戸田妹は──」

「美也子」

「妹は──」

「美也子ぉ! 範囲を広げるなぁ!」

「⋯⋯み、美也子は、なんで『青風院代表リレー』に出てるんだ?」

「勝手に決まってました」

「⋯⋯⋯⋯」


 完全にしくじった。考えうる選択肢の中で、一番の悪手をとってしまった。

 伊織はいたたまれない気持ちと後悔に挟まれながら、夕色の空を仰ぎ見た。


 美也子が『青風院代表リレー』に出場することになった理由なんて、後ろ暗い理由に決まっているではないか。

 彼女のその後の学校生活についてはそれとなく聞き及んでいるけれど、当然あまり芳しくはない。

 証拠を残せるぐらいの明確ないじめがあるわけではない。

 だが、美也子という存在は明らかにクラスから乖離していた。君嶋葵を除いては、まともに話す人すらいないのだろう。

 そんな状況の彼女が、学校行事で『青風院代表リレー』なんて目立つ種目を自ら立候補するはずがない。


「⋯⋯ごめん」

 

 伊織は色々とかける言葉を探した挙げ句、ちっぽけな謝罪をこぼした。

 消え入りそうな声に美也子も察したようで、悲しげに俯き、かぶりを振った。

 以前の彼女ならここで仮面を被り、笑みを作っていただろう。しかしもうそんなことはしない。そんなことはできない。

 自嘲気味に、口を開く。


「ちゃんと嫌だと言わなかった私が悪いです。なんか、変な空気に気圧されちゃって。私の被害妄想かもしれませんけど、言ったところで無視されちゃうんじゃないか、みたいに考えちゃって⋯⋯」


 伊織は黙ったままだった。

 いよいよ言葉が浮かばずに枯れてしまう。


「ま、まぁっ! そのあと焦った私は、すぐさま玉入れに立候補し、一つは楽な競技を確保したんですけどねっ! 行動力の塊ですね! わはは!」


 明るいエピソードを付け加えてくれたが、伊織の口はそれでも開かなかった。

 ずっと何も言えないでいると、美也子は自分で話題を広げ始めた。


「さ、冴木先輩こそ、なんでリレーに決まったんですか? 柄じゃないでしょ」

「⋯⋯俺は、種目を決める日に熱で休んでたから。でも、ちゃんと公平に決めてくれたよ。だから、俺の運が悪かっただけ」

「へー。そうなんですね」

「うん」

「なかなか、世知辛い世の中ですねぇ」

「そうだな」


 ややどんよりとした会話はここで一旦途切れた。

 夕色に染められていた空が、いつの間にか薄暗い闇に上書きされている。


「⋯⋯私たち、リレーで足引っ張りそうですよね」

「うん」

「──大丈夫」


 このタイミングで、蒼介が口を挟んだ。

 蒼介にしては、語気が強かった。

 今日に限らず普段から無口寄りの親友は、二人に顔を向けて、じっと見据えてくる。

 その瞳に、断固とした意志が宿っているように見えて、伊織は戸惑った。


 けれど、次の一言ですべてが氷解した。


「二人がもし遅れたとしても、俺が巻き返す」


 伊織と美也子は目を見開き、その場で立ち止まった。蒼介もそれに倣って足を止める。


(──あぁ、蒼介はやっぱりすごい)


 伊織は感嘆たる気持ちで蒼介の瞳を見返した。

 一見眠たげで、伊織のことなんて眼中になさそうなに、その実誰よりも見てくれている。

 

 伊織だけじゃない。

 

 影光も、由貴も、幾度となく助けられてきた。

 その瞳に。その言葉に。蒼介という存在に。

 蒼介は昔から何一つ変わっていない。


「朝宮先輩⋯⋯かっこよすぎますね」


 先に口を開いた美也子に同意せざるを得ない。


「本当に、頼もしいな。蒼介は」

「頑張ろう。リレー」


 蒼介はそれだけ言うと、前に向き直って歩き出す。

 顔には優しい微笑が浮かんでいた。


 その後T字路で美也子と別れ、蒼介と二人きりになった。


(思えば二人で帰宅するなんて、いつ以来だろう)

 

 伊織は横目で蒼介を伺う。

 いつもの澄ましたような表情で、でもまったく鼻につかない。横顔もかっこよかった。


 もうすぐ蒼介とも別れることになるから、何か話したいことがあるなら今のうちに話しておこう。こんな機会なかなか訪れない。

 そう思ったのに、結局口から出てきたのはくだらない雑談だった。

 

「蒼介⋯⋯さ。最近、サッカーどう?」

「ぼちぼち」

「そっか。ぼちぼち⋯⋯ぼちぼちね⋯⋯」


 ふわふわとした質問だったから、ふわふわとした答えが返ってくる。

 しばしその場に沈黙が降り、蒼介がそれを破る。


「⋯⋯一緒に下校するの、久しぶりだな」

「え、あーうん」


 まさか自分が考えていたことを直接口に出されるとは思わず、伊織は一瞬たじろぐ。

 

「蒼介、部活忙しいし」


 なんとか言葉を絞り出してそれだけ言うと、蒼介は首肯した。


「登校も下校も時間合わない」

「朝練もあるもんな」

「週六である。中学の時は月、水、金の週三ペースだったから火、木は伊織たちと登校できたけど。高校は無理」


 身体や心が成長するにつれて、物理的な距離が開いていく。


 もっぱら最近は部活に入っている由貴や蒼介と登下校する機会はゼロになり、影光とばかり帰るようになった。

 中学まではクラスが離れようとも、部活があろうとも、一日一回は顔を合わせたり、どうしても無理な場合でも連絡を交わしたりしていたのに。


 寂しいし、なんだか悲しいけれど、どこか納得している自分がいることを、伊織は自覚していた。


「俺も部活始めたら、一緒に登校できるかも」


 冗談のつもりで言ってから、しまったと思う。

 「入るには、微妙なタイミングだな」と返した蒼介の顔に、影が差していたからだ。

 伊織はあわてて言葉を繋げた。


「あ、いやでもっ⋯⋯部活入るのはあれだとしても、俺体育祭でマラソンも走ないとだからさ。朝早く起きて、運動するのはいいかも。ぶっつけ本番で走ったら怪我したり倒れたりするかもしれないし、最低限身体を慣らしておかないと。⋯⋯えぇと、それに蒼介が付き合ってくれたら、なんて⋯⋯」


 伊織は何を口走っているんだろうか俺は、とどこか冷静に思いながら、最後まで言い切った。


 困惑させてしまっただろうなと、申し訳ない気持ちで蒼介の顔を見る。


 予想に反して、蒼介は目を大きく見開いていた。

 まるで天啓でも授かったように、あるいは世紀の大発明でも思いついたかのような表情だった。

 

 逆にこっちが困惑することになり、伊織は呆然とした。蒼介は顎に手を添えて、少し思案げな顔をしたあと、「わかった」と言って頷いた。


「じゃあ俺、こっちだから。また明日・・・・

「う、うん。また明日」


 何が「わかった」のか、詳しく問い質す暇もなく蒼介は自分の家の方向に帰っていってしまった。

 

「『わかった』ってつまり⋯⋯そういうこと?」


 一人残された伊織はぽつりと呟き、冴木家に向かって足を踏み出した。


 とりあえず、明日はタイマーを早い時間に設定しておこう。


 そう思った。





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