第33話『親友と特訓』
翌朝、六時に起床した伊織は学校の準備を済ませ、リビングのローテーブルの前で腰を下ろす。
伊織はテーブルに肘をつき、昨日の蒼介の反応を思い出していた。
──わかった
──じゃあ俺、こっちだから。また明日
何が“わかった”のか、“また明日”なのか、単純に考えれば、容易に答えを導くことができる。
ただ、蒼介は口数が少なく、説明不足なところがあるので、はっきりとは明言しなかった。
伊織は本当に自分の解釈が正しいのか、いささか不安になってしまった。
(やっぱり、普通に聞けばよかったな⋯⋯)
蒼介の連絡先は知っているのだから、スマホでメッセージを送って確認すればすぐに解決する話⋯⋯なのだが。
面倒な性格の伊織は、それが相手に失礼にあたるのではないかと思考が飛んでしまった。昨日約束し、その気満々だったのに、相手から「あれって約束したってことでいいんですよね?」とか言われると、ちょっとショックなんじゃないだろうか。
冷静に考えれば、そこまで真剣に考える必要もなかった。昨日の最後のやり取りは客観的に見てもだいぶ不明瞭だったし、ちゃんと確認するのは大事なことだ。大体伊織じゃあるまいし、蒼介がそんな些細なことを気にするとは思えない。
伊織は今更になって聞かなかったことを後悔したが、もう朝になってしまったのでどうしようもない。
蒼介が来る前提で、行動するしかないのだ。
そわそわとした気持ちで待っていると、やがてピーン⋯⋯ポーンと間延びした音が部屋に響いた。
インターホンのボタンを押してから離すまでに間があるこの鳴らし方は、蒼介と似ている。
伊織は小走りで玄関のドアに向かい、おもむろに開いた。
訪ねて来たのはやはり蒼介だった。いつもの仏頂面で立っている。肩にはスクールバッグを背負い、体操服を着ていた。
「おはよ」
「あ、うん⋯⋯おはよう」
「ごめん」
「え?」
「そういえば、何時に来るとか言うの、忘れてた。準備できてるか?」
「あぁ⋯⋯それは大丈夫」
「そっか。じゃ、行くか」
挨拶もそこそこに、蒼介は言った。
いまだに半信半疑だった伊織は「お、おうっ」と返し、ようやく確信へと至る。
(まじで走るのか。走ってくれるのか)
予想通り、昨日伊織が半ば冗談で提案した“体力づくりのための早朝ランニング”を、蒼介は承諾してくれたのだ。
早速今日から始めるつもりらしい。蒼介にとってはサッカーの朝練のついで、という程度の認識なのかもしれないが、そのフットワークの軽さときたらもう⋯⋯尊敬しかない。
伊織は一旦リビングへ引き返し、体操服に着替えた。
制服はスクールバッグに詰め込むことにして、再び玄関へと舞い戻る。途中、父の章造が寝室から顔を出して「誰だ?」と尋ねてきた。伊織は「蒼介だよ」と答え、体育祭に向けて朝から一緒に運動する旨を伝えた。
「あぁ、蒼介くんか。いってらっしゃい」
得心したように頷くと、章造は寝室に戻った。
伊織は「いってきます」と控えな声を発し、蒼介と共にアパートをあとにした。
ランニングコースは、住宅街を抜けた先にある河川敷の平坦な道だった。一周あたり約四キロの距離があり、信号もなくて走りやすい。
道の両岸は基本雑草に覆われているが、途中で小さな公園があって休憩もできる。蒼介が普段よく使っているコースらしく、案内は任せることにした。
河川敷の近くに蒼介の家があるので、そこに一旦荷物を置いた。歩道から伸びる手すりつきの石段を下り、コースに入る。準備体操を済ませ、伊織と蒼介は足を踏み出した。
走り出してからわずか一分弱、早くも伊織の息が上がり始めた。少し前の位置でそよ風のように走っていた蒼介がそれに気づき、速度を落として並走してくれる。
「悪い。スピード上げすぎた」
蒼介は気を遣ってくれているが、きっと彼にとっては緩めの速度だったに違いない。伊織はそれでも追いつけないほど、貧弱だった。
「いやっ、はっ⋯⋯、はっ⋯⋯、お、俺がっ⋯⋯遅すぎっ、だからっ⋯⋯」
息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。
「それは違う。伊織の体力をつけるためなんだから、伊織のペースで走らないとだめだ。だから、俺が悪い」
自分の自虐をあっさりと一蹴され、伊織はなんだか恥ずかしくなった。蒼介といると、自己嫌悪すら馬鹿馬鹿しくなってくる。
ふいに向かい風が吹きつけてきた。初夏の朝の空気は涼しくて心地いい。息は苦しいけれど、休みたいとまでは思わなかった。
(なんか⋯⋯なんだろうな)
伊織は懸命に手と足を動かしながら、言いようのない感情で満たされていた。川の匂いが混じった空気を吸って、吐く。横に流れている川はあまり綺麗な印象はないけれど、とても気持ちよく感じられた。
「伊織?」
黙ったままでいる伊織を不思議に思ったのか、蒼介が名前を呼ぶ。
「あぁ、うん。大丈夫」
伊織が笑みを浮かべて言うと、蒼介は「そっか」と呟く。心配を残したような声音だった。
それからしばらく走り、折り返し地点が目視できる距離まで迫ったところで、伊織は口を開いた。
「──今日はありがとう、蒼介」
そんな言葉が、自然と唇から溢れた。
「走るの、付き合ってくれて」
ありのままの本心を、言葉にして繋いでいく。
高校入学から距離ができてしまったと感じていたのは実は伊織だけで、蒼介は何も変わっていなかった。
飄々としているようで、実は周りをよく見ていて、助けを求めるとすぐに手を差し伸べてくれる。
小学生の頃から何ら変わりない、誇らしいクールな親友。
変わってしまったのは、誰でもない自分自身であると、伊織はここ最近痛感する場面が多くなった。
どんどんマイナスな方へ思考が、卑屈な方へ考え方が、悪い波に呑み込まれてしまう。
小学生のときは、こんなんじゃなかったのに。
────でも、今は。
今だけは。今ぐらいは。
素直になれる気がした。
「今日“は”じゃない。体育祭まで、毎日走る」
まっすぐな台詞を、蒼介は厳しい内容で返した。
声も淡々としていたけれど、伊織の目には彼が一瞬笑ったように映った。
「うへぇーまじか、きっつ」
弱音を吐いては見せるものの、伊織の口角は上がっていた。
正直、体育祭まで一週間もない期間で体力をつけるなんて、冷静に考えれば無謀だし、今やっていることはほぼほぼ無意味に近いと思う。
それでも、伊織には関係がなかった。
こうして蒼介とまた会って、話して、走ることが何よりも重要で、マラソンを走りきるなんて理由は建前でしかないのだから。
伊織は思い出す。
もう幾度となく浮かんだ中学時代の光景。
右にはひたすら推しの話をする影光がいて、前には無駄に元気があり余った由貴がいて、左にはそれを見守る蒼介がいる。
何があっても、この形は崩れない。
この時の伊織は、そう信じられた。
どうせ家に帰ったらその自信は揺らぐのだけれど、走って思考を空っぽにしているこの時だけは、前向きに考えられる。
気がつくと、スタート地点まですぐそこの距離にいた。つまり、一周を終えようとしている。
あれほど過去に散々苦しめられた四キロを、いとも簡単に討伐してしまった。
無論、伊織に合わせたゆったりペースなので、時間は結構かかっているはずだ。でも、苦しまなかった。
ゴールすると、疲れがどっと押し寄せてきた。
走っている最中はなんともなかったのに、心臓がバクバクと音を鳴らし、空気を求めて呼吸が乱れた。
その場でしゃがみこもうとする伊織を蒼介が制し、
「急に止まるのよくないから、歩きながら息を整えて」
言われた通り、ゆっくりとウォーキングを開始する。あてもなく適当に歩き続け、息が落ち着き止まった場所は、川岸だった。
伊織は地面に目線を落とし、なんとなく視界に入った平たい石を拾い上げる。
この形、この大きさ、今立っている場所⋯⋯。
なんか、うずうずしてきた。
「水切り?」
いつの間にか背後に蒼介が立っていた。
呆れた顔で伊織の石を見ている。
「久しぶりにやろうかなって」
伊織は川の向こう岸に目をやった。
自分のいる岸から思いの外距離があるし、邪魔になりそうな岩場もない。決して綺麗とは言い難いが、水だけが流れているような川だった。
これなら、記録も伸びそうな気がする。
「おりゃっ」
伊織は軽く助走をつけ、石を横から川に投げつけた。
⋯⋯ぽちゃん。
石は一度も跳ねることなく、落水した。
「ぷっ」
酷い結果を見届けた後、蒼介は吹き出すように小さく笑った。
失敗した張本人である伊織は唇を尖らせ、首を傾げる。
「おっかしいなぁ⋯⋯小学生の頃は七回ぐらいいけたのに」
「俺もやる」
蒼介も石を拾い、投げる直前の動作を繰り返す。
投げる強さ、角度などを調整しているらしい。
(蒼介も跳ねないだろうなぁ。昔からそうだったし)
伊織は過去を思い返し、苦笑した。
蒼介はこの手の遊びが大の苦手だった。
たしか水切りは影光→伊織→由貴→蒼介の順で上手かった。蒼介はその中でもダントツ最下位で、一度でも跳ねると他三人から珍しいと言われ、蒼介がちょっと拗ねるみたいな流れが、当時のお決まりだった。
「よし、投げる」
シミュレーションを終えた蒼介は、短い助走をつけ、石を投げる。
投げた石は川面に当たり⋯⋯落ちずに跳ねた。
その後も勢いを殺すことなく二度三度とぴょんぴょん跳ねていく。結果、六回跳ねたところで石は川の中に沈んでいった。
「⋯⋯っし」
蒼介は片手でかっこよくガッツポーズする。
「まじかよ⋯⋯」
伊織は呆然と石の落水地点を眺め、ぼそりと呟く。
「よし。そろそろ時間だし、荷物とって学校行こう」
満足する結果を出せたからか、そもそもあんまり興味がなかったのか、蒼介は踵を返した。
伊織は「あ、うん」と答え、蒼介のあとを追う。
(とうとう石切りでも負けちゃったな⋯⋯)
学校への道すがら、伊織はそんなことを思った。
さすがに石切りごときで落ち込んだり、自虐したりはしないけれど、なんだか切なくなったのだ。
いったい、何であれば蒼介に勝てるのだろう。
否、別に勝つ必要なんてない。
ただ、どういうところで自分は蒼介と対等になれるのか。
対等になれるところを、伊織は喉から手が出るほど欲している。
最終的に行き当たる先は、いつも自分自身だ。
伊織は他人に嫉妬したり、妬んだりすることは滅多にない。
その代わり、自分のことは時々嫌いになる。
(きっと俺は、みんなに────)
そこまで考えたところで、伊織は学校に到着した。
空を見上げると、雲一つない綺麗で澄み切った青が視界を埋めた。まるで蒼介みたいだな、とぼんやり思いながら、伊織は下足で上履きに履き替えた。
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