第35話『体育祭②《借り物競走》』


 ここから、伊織の身に起こった体育祭中の出来事を大まかに列挙していく。


 まずプログラム6番『借り物競走』での一幕。


 午後まで特にすることがなく、100m走から戻ってきた影光と雑談を交わしていた伊織のもとへ、一人の小柄な女子生徒が人混みを掻き分けてやってきた。


 彼女の体操服の胸あたりには、丸っこい可愛い字で“戸田”と書かれた赤ゼッケンが貼ってある。


「冴木先輩、ちょっと来てください」


 開口一番そう言われ、戸惑いを隠せない。

 

「来てって、どういうこと?」


 伊織はとりあえず真っ当な疑問を口にし、目だけで周囲を窺った。体育祭が盛り上がっているからか、それほど注目は浴びていなかったけれど、影光を含めたいくつかの生徒から奇異の視線を注がれている。


「いやだから、そのままの意味です。いま何の競技が行われているか、わかってますよね」


 美也子は、かりかりとした口調で言った。


「『借り物競走』でしょ?」

「そうです。つまりその、冴木先輩を借りに来たんですっ!」

「はぁ?」


 思わず、頓狂な声を上げてしまう。


 そのあとに続くはずだった「なんで俺?」の言葉を「早く行かないと最下位になっちゃうので」と言って遮り、美也子は伊織の腕を掴んだ。そのままぐいぐいと引っ張ってくる。方向は入場門。門近くに数人の生徒がクリップボードらしき物を小脇に抱えて立っているので、おそらく『借り物競走』のチェック係か何かだろう。


 伊織はやむなく、美也子に従うことにした。

 無駄に抵抗して余計な注目を集めるのも、得策ではないと考えたのだ。

 

 背後から、「なんかよくわかんねぇけど、頑張れよ〜」と影光のからかうような声援が聞こえてきた。

 他の生徒も何人かが「いけいけ〜」「ファイト〜」「うぇ〜い」などと囃し立ててくる。


 どいつもこいつも、他人事だと思って、いい気なものだ。そう毒づきつつも、伊織の頭は羞恥でいっぱいだった。

 

 顔を真っ赤にした伊織はされるがままに歩き、仕切りのフェンスを越え、競技用グラウンドに足を踏み入れる。

 

「戸田⋯⋯み、美也子っ⋯⋯もういいって、腕引っ張んなくても。別にもう逃げないから」

「嘘です。どうせ逃げますっ」


 美也子は振り向かずに答えた。

 ずんずんと目的地に向かって歩いているが、顔は伏せている。


「いや、ここまで来ちゃったし、今さら戻るのも恥ずかしいから、逃げないよ」

「それでも、いやです」

「なんでだよ」

「万が一にもこの空気の中で一人になるのは、いやだからです」

「⋯⋯⋯⋯っ」


 伊織は言葉に詰まり、辺りを見渡した。有名なバンドの曲が流れる中、参加生徒達があちこちで動き、借りる人、もしくは物を探し回っている。

 参加者はざっと十名ほどで、入場門に到着しているのはまだ一人もいなかった。


 『借り物競走』は、お題次第で予期せぬ交流を生んだりする。それが理由かはわからないが、今のところ一番盛り上がっている気がした。


 べたに『好きな人』がお題なのか、女子を誘ったりして青春を謳歌している者。

 よほど意味不明なお題らしく、獅子奮迅のごとく右往左往して叫んでいる者。

 途方に暮れたように、空を仰いでいる者。


 生徒それぞれが三者三様の行動を見せ、体育祭を満喫している。

 ただ一人、美也子だけが静かに入場門へと向かっていた。

 伊織は後ろから彼女を肩越しに覗き込む。腕を掴んでいない方の手に、小さな紙片が握られていた。


「『借り物』になるのはいいんだけどさ、俺ってちゃんとお題の条件に合ってるの? 嘘ついてなんとかなるならいくらでもつくけど、お題が『女子』とかだったら認められないでしょ」

 

 美也子はそこでようやく立ち止まり、腕を離した。

 振り返り、伊織の顔を上目遣いで凝視する。

 やがて、けろりとした態度で断言した。


「それについては、絶対大丈夫です。自信があります」

「なら、いいんだけど⋯⋯どんなお題なの?」

「ルールで禁止されているので言えません」

「え? あぁ、たしかそんなルールあったな⋯⋯」


 青風院高校体育祭の『借り物競走』には独自ルールが設けられており、基本的には一般のルールを則っているが、ある一点のみ、“お題の詳細は『借り物』である人には伏せるべし”というルールが付け加えられている。(『借り物』が物の場合はそもそも意思疎通ができないので適応外)


 お題の内容は競技の最後に発表し、『借り物』に選ばれた人を「いったい自分は何のお題で選ばれたのだろう」とドキドキさせることが目的らしいけれど、伊織はいまいちピンときていない。

 そんなルールを律儀に守っている美也子に、感心した。


「知りたいなら、ゴールまでついできてください」


 美也子が改まった調子で、まっすぐ見据えてくる。

 もう、腕を掴んだりする気はないようだった。


「わかった」


 一つの頷きだけで返すと、美也子は再び足を踏み出した。今度は、駆け足だった。


 十秒ぐらいで入場門へ到着し、美也子は係の男子生徒に紙片を渡す。受け取った生徒はお題の内容を確認すると、隣に立つ伊織をまじまじと見つめ始めた。


 男子とはいえ、正面切ってガン見されるのはなんだかこそばゆい。伊織は緊張で顔を強張らせる。


 やがて、係の生徒は見ることをやめ、折りたたまれていた紙片を広げて伊織に見せると、快活な声で言った。


「よし、合格っ! お題は『人畜無害』! おめでとう、君たちが一番乗りだよ!」

「⋯⋯⋯⋯」


 伊織は、なんともまぁ、微妙な気持ちになった。

 怒りでも、悲しみでも、嬉しさでもない。

 なんかこう、リアクションを取りづらい半端な感情だった。


「い、良い意味で、ですよ?」


 美也子が気まずそうな顔でフォローを入れてくれるが、『人畜無害』はどちらかといえば、悪い意味だと思う。

 文字通り、害がないことを、良しととるか、悪しととるか。


「ははは⋯⋯」


 伊織はまさしく『人畜無害』な笑みを浮かべた。



 一年生の『借り物競走』が終了し、とぼとぼと退場門から帰っていると、隣の美也子が消え入りそうな声で口火を切った。


「あの⋯⋯すみませんでした」


 突然の謝罪が、『人畜無害』で伊織を借りたことを指しているのは明らかだった。


「『人畜無害』のことなら、怒ってないよ」


 実際そうだし、と言いかけて、それは我慢する。

 ここで自虐をすれば、皮肉と取られかねないし、何より美也子に伝染すると思った。

 彼女は生粋のネガティブであり、マイナスな感情が移りやすいのだ。


「ほ、本当ですか⋯⋯?」

「本当だよ。それより、根本的なところで怒ってる」

「根本的なところ?」

「俺を強引に借りたこと」

「ゔっ⋯⋯すみませんでした⋯⋯本当に⋯⋯」


 美也子は平身低頭して謝る。

 うざ絡みしたり、面倒だったり、大胆だったり、すぐ反省したり、色々と情緒の忙しい子だ、と伊織は思った。


「もういいよ、許した。それより、なんでわざわざ俺を借りたんだ? 君嶋とか、いなかったの? あいつの方が、変に目立つ心配なかったと思うんだけど」


 美也子はたしかに学校で浮いているが、同じクラスの君嶋葵と友達になったはずだ。


 なんでも、“BLをこよなく愛する同盟”を結んでいるそうで、短期間でぐっと距離が縮まっていた。

 葵が『人畜無害』かどうかはともかく、ひとまずは気心の知れた同性の友人を連れて行こうとするのが、行動としては自然だろう。


「私も最初は葵ちゃんを借りようと応援エリアに探しに行ったんですけど、いなくて。勇気を出してクラスの子に尋ねたら、ついさっき苦しそうにお腹を抑えながらトイレに行っちゃったって⋯⋯。あわてて、次はお姉ちゃんが頭に浮かんだんですけど、青組の応援団長やってるから、多分忙しいだろうなと思って⋯⋯」


 伊織の引っ掛かりを、美也子が説明した。

 

「それで、暇な俺のところに⋯⋯」

「はい⋯⋯影光先輩と迷ったんですど、ワンチャンついてきてくれそうな冴木先輩を選びました。すみません⋯⋯」

「もう謝らなくていいってば。でも、そうか。それでか⋯⋯」


 これで、合点はいった。


 頼れる唯一の友達と唯一の姉妹がいないとなっては、妥協して特に害のない伊織を選ぶのは最終手段としてはまぁアリだろう。


 『人畜無害』にも、利点はあるようだ。

 

 伊織は納得したように何度も頷いてみせたが、葵の腹痛の理由については触れないでおいた。

 もし女子のアレだったとしたら、話題に触れたが最後、いかんともしがたい空気が流れる恐れがある。


 それは絶対に阻止しなければならない⋯⋯と決意した直後なだけに、美也子の口からぽろりと出た言葉で拍子抜けする。


「そういえば葵ちゃん、昨日推しの誕生日を祝ってケーキ食べ過ぎちゃったとか言ってました⋯⋯朝から顔色悪かったし、それが原因かな」

「えぇ⋯⋯」


 あまりに馬鹿げた真相に、伊織はため息をついた。

 少しでも気を遣った自分こそが馬鹿みたいだった。


「体育祭の前日に何やってるんだ」

「私もやんわり注意したんですけど、愛する推しのためならいくらでも人柱になるとかなんとか⋯⋯」

「推しに命捧げちゃってるよ⋯⋯」


 などと落差の激しい会話をするうち、美也子が所属する一年赤組の応援エリアに近づいてきた。


 応援エリアは放送席から時計回りに一年生の赤組、青組、緑組、二年生の赤組、青組、緑組、三年生の赤組、青組、緑組⋯⋯の順で設置されている。


 一年赤組の美也子たちは、退場門から最も最短な距離に応援エリアがある。逆に入場門から一番近いのは、三年緑組の応援エリアである。


「じゃあ先輩、私はここで」


 美也子はぴたりと立ち止まり、会釈をして、自分の応援エリアへ向かおうとする。

 その彼女を、伊織はわずかな逡巡を振り払って呼び止めた。


「あ、まって」

「⋯⋯? なんですか?」


 美也子は首だけ振り返り、不思議そうに伊織を見る。

 数秒、あれこれと思考を働かせ、伊織は結局、一番最初に思いついた言葉をかけた。


「リレー、頑張ろう」

「⋯⋯はいっ!」


 美也子はやや困惑の滲む面持ちではあったものの、軽い微笑を湛え、応じてくれた。


 伊織は自分の応援エリアへ戻ると、影光との雑談を再開したが、数分で打ち切られた。

 何のデジャブか、またしても伊織のもとへ、女子生徒が躍り出てきたのだ。

 そしてこれまた何の因果か、女子生徒の胸元にある青色ゼッケンには、たかがネームペンで書いたと思えないぐらいの達筆で、“戸田”と記されていた。


 美也子の姉、戸田鈴零だった。


 どうやら、伊織はこの姉妹に感謝されたり呼び出されたり連れ出されたりする運命らしい。

 

「やぁ伊織くん!」

「はぁ⋯⋯どうも」

「今日は天気がいいね。私は──」

「か、『借り物競走』ですよね。ワカリマシタ」 


 伊織は御託はいいとばかりに、自分から本題を切り出す。現在、三年生の『借り物競走』が行われている。十中八九、要件はそれだろう。

 ふと横を見ると、影光が笑いをこらえていたから、脇腹をつついてやった。


「そうなんだ! 話が早くて助かるな! では、来てくれ!」

「は、はい⋯⋯」


 事はトントン拍子に進み、入場門に舞い戻る。

 鈴零の『借り物』チェックを担当したのは、先ほどと同じ男子生徒だった。

 彼は「また借り出されたんだね!」と悪意のない笑顔を向けてきて、伊織は顔から火が出る思いになった。


 肝心のお題の内容は、『大切な人が大切にしてる人!』だった。伊織はお題の中身を考えた担当者を恨んだ。その人たちが変に内容をひねるせいで、自分が条件に合うようになってしまったではないか。


「由貴くんが大切にしてる人⋯⋯そんなことが書かれてあっては、伊織くんを選ぶしかないだろう!」

「お、俺以外にも⋯⋯影光とか、蒼介とかいますよ」

「あぁ、由貴くんから聞き及んでいる。その中で一番来てくれそうな君を選んだ!」

「⋯⋯姉妹揃って同じ理由かい」


 やっぱり美也子、お前姉に似てるよ。

 伊織は心の中でそう呟く。


「それ、多分これと被ったから付け足したんだろうね」


 急に背後から甘い声がしたので、伊織はおっかなびっくり、顔を向けると、いつの間にか同じクラスの瀬戸山隼と蒼介がいた。この甘さから察するに、声をかけたのは瀬戸山の方だろう。


「蒼介⋯⋯と瀬戸山くん」


 伊織が名前を呼ぶと、二人はかるい会釈を返した。


「隼でいいよ、同級生なんだし。俺も伊織って呼ぶから」


 瀬戸山が距離を縮めるようなことを言った。


「え、あ、うん⋯⋯わかった」


 伊織はたどたどしい態度で了承する。

 名前呼びは緊張するが、拒否する理由はない。


「よし。それで、伊織って『借り物競走』出てたっけ?」


 瀬戸山──改め隼が首を傾げて、問いかける。

 伊織は頭を振った。


「いや、俺は借りられた側だよ。⋯⋯それより、蒼介たちもなんで? いまは三年生の『借り物競走』中じゃ⋯⋯」


 逆に訊き返すと、隼は「あー」とやけに綺麗な美声を漏らし、詳しく説明する。


「いやさ、元々出るはずだった三年の先輩が熱で休んじゃったらしくてね。その人と『借り物競走』に参加する予定だった僕と同じ部活の先輩が、あいつの代わりに俺と出場しろとか言ってきたんだよ。普通に同学年のやつに頼めよと思ったんだけど、一応先輩の頼みだし、まぁしかたないかーって感じ。ちなみにこれで、二年連続『借り物競走』出場になっちゃった」

「なるほど⋯⋯」

 

 伊織は話を聞き終え、隼に同情の念を送った。

 学年すら違う競技に強制参加とは、とんだ災難に見舞われたものである。


「その、話に割り込むようですまないが、さっき君が口にした“被った”とは、どういう意味だ?」


 鈴零が最初の発言について訊くと、隼は敬語で答えた。


「僕が選んだお題の紙に、『大切な人』って書かれてるんですよ」


 隼がひらひらと揺らしながら、紙片を掲げた。

 顔を寄せて見てみると、たしかに『大切な人』と記されていた。

 

「お題が被っていることに直前で気づいて、急いで書き加えたんだろうなーと」

「うむ、本当だな。それに私のお題、よく見れば後半から文字が窮屈になっている」


 伊織は鈴零の持つ紙片を覗き込む。


 『大切な人』の部分は紙全体に大文字で記されているのに、残りの『が大切にしてる人!』の部分は下端に小文字で詰められていた。担当者のやけくそ仕事が伺える。


「はは。これは面白いな、伊織くん」


 鈴零から近い距離で微笑みかけられ、狼狽える。

 彼女の笑顔は万病に効くのでは、と本気で信じてしまいかねない威力だった。

 

「⋯⋯っすね」


 鈴零の魅力に圧倒されるあまり、ほぼ聞き取れない声量での返事になってしまった。


 実は体育祭の熱気に煽られ、気分が上がっていた伊織は(影光に人のこと言えない)、鈴零とも比較的普通に会話できていたのだ。

 しかしここにきて、ぶり返してしまった。

 幸いにも、鈴零が人によっては素っ気なく見える伊織の態度を、気にした様子はない。


「あー僕も会長みたいな尖ったお題がいいなー。僕なんかさ、去年は『大事な友達』で、今年は『大切な人』だよ? めちゃくちゃ青臭いのなんのって。おかげで、二年連続蒼介借りることになっちゃったよ」


 おちゃらけたように、隼が言った。


「お前は女子ウケ狙ってるだけだろ」


 蒼介はそれにつっこむと、少し離れた場所にいる女子生徒を見た。クリップボードを持っているので、係の人だ。隼の『借り物』チェックを担当したのだろう。

 彼女は恍惚とした表情を浮かべ、隼と蒼介の二人をうっとりした眼で見つめていた。


「なんか蒼介と一緒にいると、一部の女子が湧くんだよね」

「びーえる、というやつだな。最近妹から教えてもらったぞ」

「そう、それです。会長お詳しいですね」

「美也子が懇切丁寧に説明してくれて、その文化を学ぶことができたよ。まず驚いたのは──」


 それから、鈴零と隼による雑談が始まった。


 隼は鈴零とはほぼ面識がないはずなのに、凄まじいコミュ力ぶりである。噂ではサッカー部1のモテ男と称されているようだけれど、鈴零は大丈夫なのだろうか。由貴と鈴零はそのへん、天然同士、緩いのかもしれない。

 異性とおしゃべりするぐらいは、寛容に受け入れる方針のカップルなんだろう。知らんけど。


 兎にも角にも、伊織と蒼介そっちのけで会話に興じている様子だったので、二人は静かにフェードアウトした。

 

 これにて、『借り物競走』の一幕が閉じる。

 

 次の幕は、『障害物競走』である。


 






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