第36話『体育祭③《障害物競走&お見舞い》』


 プログラム8番『男女混合障害物競走』は、200メートルのコース中に設けられた様々な障害物を男女二人三脚で乗り越えるという、冷静に考えれば伊織が参加できるわけないリア充御用達競技だった。

 代表リレーとマラソンに決まって、ある意味よかったのかもしれない。


 伊織は影光、そして途中から加わった真雪の三人で談笑しながら、競技用グラウンドをきゃっきゃうふふと走る男女二人の姿を眺めていた。


「けっ。ただのバカップルがイチャコラするためのクソ競技だな」


 例にならい、影光がわかりやすい嫉妬の言葉を吐いたが、伊織と真雪は無反応だった。もう、影光の愚痴は慣れっこなのである。

 ⋯⋯と、思っていたのだけれど。


 やや遅れて、真雪が影光の横顔をじっと見つめる。

 わずかな間を置き、口を開いた。


「⋯⋯影光って、ああいうのにムカついたりするんだ」

「は、はぁ!? ちげぇよ!」


 影光が大声で否定しても、真雪は表情を崩さず、まだ横顔を見続けていた。

 これは近いうち、何らかの進展があるかもしれないと伊織は予想した。

 葵に知らせるべきか、否か、思案していると、影光が急にびっくりしたような声を出し、前方を指さした。その行動が、動揺を誤魔化すためではないことは、指の先の光景を見てわかった。


 足首同士を青色の紐で結び、肩を抱き合わせた由貴と鈴零が、ちょうど目の前にやってきていたのだ。


 伊織たちが休んでいる応援エリアの前に設置されていた障害物は、網くぐりだった。地面に敷かれた網の下をくぐるだけの極めてシンプルな障害物だったが、意外と隅が強く固定されているようで、由貴と鈴零はかなり苦戦していた。


 特に鈴零は、長い髪と肉付きのいい身体がことごとく網に引っ掛かり、一歩進むのも一苦労のようだった。二人は網の下で屈み、懸命に脱出を試みている。


「あぁっ! また髪が絡んで⋯⋯」

「鈴零大丈夫!? 俺がそっと解くから!」

「すまない由貴くん⋯⋯あらかじめ髪を結んでおくべきだった⋯⋯」

「気にしないでっ!」


 由貴は鈴零の頭に手を伸ばし、絡まる髪の毛を網目から慎重にほどいていく。


「うふふ⋯⋯♡ なんだか、撫でられているみたいで照れるな⋯⋯♡」

「喜んでくれるのは嬉しいけど、それどころじゃないよっ!」

「はっ! そ、そうだった⋯⋯面目ない⋯⋯」

「でも可愛いよっ!」

「はうっ♡ 私も好きだ! 由貴くん!」

「鈴零!」


 微笑ましくはあるが、とても見てられない。

 伊織はたまらず目を逸らす。逸らした先に、同じく微妙な顔をした影光と真雪がいた。


「す、すげーな⋯⋯なんか」

「う、うん⋯⋯私もそう思う」

 

 二人は一周回って感心しているようだった。


 たしかに、ここまで堂々といちゃつけるのはもはや才能かもしれない。他の男女二人も、雰囲気はいちゃいちゃのそれだったけれど、直接的な言葉や行動で愛をやり取りすることはなかった。

 あくまでもルール上致し方のない接触があるという体で、競技を隠れ蓑にして、合法的にいちゃこらしている。


 要するに、「なんかいちゃいちゃしてるっぽく見えるけど、うちら競技頑張ってるだけなんで! たまたまこんな感じになっちゃってるだけなんで!」

 こういった言い訳ができるわけである。


 だが、由貴と鈴零はどうだろう。

 頭を撫でたり、好きと言ったり、普通に普通のいちゃいちゃをしてしまっている。競技に乗じてこっそり⋯⋯の嗜みではない。

 はたして、二人に羞恥心はあるのだろうか。

 

「あの二人、結構噂で色々言われてたのに⋯⋯」

 

 真雪の言葉はそこで途切れたが、言わんとしていることは、それだけで理解できた。

 

 例の噂は、いまなお学校中でまことしやかに囁かれている。ピークだった数週間前と比べるとだいぶ勢いは収まったが、まだまだ鎮火にはほど遠い。


 噂の内容自体は美也子がすべての元凶であり、由貴と鈴零が気に揉む必要はないのだけれど、これだけ好き勝手言われて、ありもしない事実を吹聴され、まったく気にしないというのは土台無理な話⋯⋯だと伊織は思っていたのだが。


 どうやら二人は本当に気にした様子もなく、美也子関連でのわだかまりが解消したあとは、思う存分いちゃつきあっているらしい。網くぐりのやり取りを見れば、それは一目瞭然だった。

 美也子のことは気がかりでも、噂そのものに大した関心はなかったようだ。


「無敵のカップルだな⋯⋯すげぇよ」


 あの影光が素直に称賛するのだから、由貴と鈴零のメンタリティは尋常ではないことが伺える。


「うん⋯⋯」


 伊織は感嘆の息を漏らし、頷く。

 

(美也子は、この二人に一生頭上がんないだろうな)


 そんなことを心中で思いつつ、いまだに網から抜け出せないでいる由貴と鈴零を眺めた。競技としては戦犯もいいところだが、まぁ他の競技で盛り返すだろう、この最強のバカップルなら。

 


 午前のプログラムが終了し、アナウンスが入った。


 漆真姫の声で、お昼休憩での注意事項と再開時刻が告げられる。午後のプログラム一発目は『応援合戦』であり、伊織もパフォーマンスに参加することになっていた。


 といっても、伊織の役目は、端のほうから掛け声を二回出すだけで、影光や真雪など、応援団に所属していない生徒の仕事は基本これだけである。


 別に伊織一人いてもいなくても支障はないが、赤組の一員として、一応はちゃんと参加するべきだろう。

 よって『応援合戦』開始時刻の午後一時半までには、競技用グラウンドまで戻ってこなくてはならない。


 そのことを頭の念頭におき、伊織は影光、真雪と一緒に教室へ戻った。真雪は生徒会に顔を出さなければいけないらしく、教室に置いていた弁当袋を持つと、足早に出ていった。


 自分の席についた伊織と影光は早速弁当箱を開け、むしゃむしゃと食べ始める。


「伊織、なんで弁当にパンケーキ入ってんだよ」

「あぁ、これ? 今日の朝作った弁当箱に隙間ができちゃったから、昨日焼いたパンケーキの残りを詰め込んだ」

「脳筋すぎんだろ。横着しないでもう一品作れよ」

「面倒だったし」

「朝から弁当作ってる時点で面倒なことしてんだろ。お前の“面倒くさい”の基準がわかんねーよ」

「うーん⋯⋯なんか、『よし、これで完成。終わった!』って気分だったのに、まだ残りがあったってなったら、萎えない?」

「まぁ、それはわからなくもないけどさぁ⋯⋯にしてもパンケーキはねぇよ。パンケーキは」

「デザートにピッタリでしょ。だいぶ強引に押し込んだから潰れちゃってるけど、メープルシロップもかかってるし、甘くて美味しいはず」

「うげぇ」


 影光と無駄話を繰り広げながら、伊織は周りを見やった。教室は普段より閑散としていて、生徒も伊織と影光の他に数人しかいない。ほとんどが思い思いの場所に散り、昼食の時間を過ごしているようだった。


 たとえば真雪は生徒会室で、応援団所属の生徒はグラウンドの日陰で、見晴らしのいい中庭で、体育祭の日でも営業している食堂で──。


 通常授業の日でも教室以外の場所で食べる生徒はいるが、こうしたイベントの日は普段より増加傾向にある。


 ふと、影光としている会話の声が大きくなっていることに、伊織は気がついた。

 なんだか、心がわずかに浮き足立っているのを感じる。


 伊織はもとより、こういう非日常感が嫌いではなかった。

 体育祭は億劫だったけれど、何から何まで楽しめないわけではない。


(⋯⋯悪く、ないな)


 伊織はかつてパンケーキだった粉の塊を口に含んだ。ぱさぱさの生地にどろりとしたシロップの甘さが絶妙に絡み⋯⋯合わなかった。いまいちだった。

 ちょっとテンションが上がりかけていただけに、出鼻をくじかれた気分だった。



 弁当を平らげた伊織と影光は、一階の保健室に向かった。

 戸を開くと、桃色の眼鏡をかけた保健教師の越前先生が出迎えてくれた。妙に色気があったので、どきりとする。


「あの、君嶋葵という生徒がここで休んでいると聞いて、お見舞いに来たのですが」

「あら、そうなのね。君嶋さんなら、そこのベッドにいるわよ」


 越前先生が顔を向けた先に、カーテンに閉じられたベッドが一つあった。

 

「カーテン開けていいですか?」

「熱ではないみたいだから、問題ないわ」

 

 謎にセクシーな流し目で許可され、やや狼狽える。

 伊織の動揺を知ってか知らずか、越前先生は嫣然な笑みを浮かべた。


「えっろ⋯⋯」


 影光が伊織にだけ聞こえる声で呟く。 

 気持ちはわかるけれど、やめなさい。


 それはさておき、本来の目的を思い出す。

 伊織はベッドまで移動し、カーテンを開けた。

 中には、ベッドで仰向けに休んでいる葵と、その近くでパイプ椅子に腰掛けた美也子がいた。


「げっ」

 

 伊織の次に入ってきた影光が、腫れ物でも触れるかのような口調で言った。


「なんですか、“げっ”て。それ私のことですか?」


 目ざとい美也子が聞き逃すわけもなく、振り返り、すかさず食ってかかる。


「お前以外に誰がいるんだよ」

「ひどい! 私は友達のお見舞いに来ただけなのに!」


 美也子は不満げに唇を尖らせる。

 影光は意にも介さず、気分を悪そうにしている葵に近寄った。


「葵、大丈夫か?」

「せ、先輩⋯⋯」


 葵はわずかに目を見開き、恥ずかしそうにもにょもにょと口を動かす。言葉が見つからないのか。

 やがて、掛け布団を口元まで持ち上げ、


「だ、大丈夫です⋯⋯」


 とだけ言った。

 好きな人がお見舞いに来てくれて嬉しいが、どう反応していいかわからないのだろう。その後は目を伏せ、影光と視線が合わないようにする。

 弱っているからか、いつもよりしおらしくて、可愛く見えた。


 しかし、伊織と影光は知っている。

 こうなった馬鹿みたいな経緯を。


「推しを祝うためにケーキ食べ過ぎて、お腹壊したんだろ? アホかお前」


 影光が意地の悪そうな顔で笑う。

 本気で馬鹿にしているのではなく、からかうような口調だった。


「うぅ⋯⋯返す言葉もありません」


 葵はますます顔を真っ赤に染め上げ、掛け布団の上端を掴んで引っ張ると、とうとう顔まで隠してしまった。


「葵ちゃん、次からは体育祭前日じゃなくて、余裕のある休日に食べたほうがいいと思う」

「それはできかねます。誕生日当日に祝うことが肝要なのです」


 美也子のアドバイスを、葵は布団の中から反論する。


「なるほど、じゃあ仕方ないか」

「折れるの早いな⋯⋯」


 あっさり引き下がったのは、オタクとして共感したのだろうか。伊織もオタクではあるけれど、推しの誕生日を実際に祝うという発想には至ったことがない。


「そもそも、なんでお腹壊すほどケーキを大量に作ったんだ」


 伊織が当然の疑問をぶつけると、


「今回お祝いした推しのキャラが、甘党の食いしん坊さんだったからです」


 さも当然のような口調で、葵は答えた。


「うんうん⋯⋯原作再現は基本だよね」

 

 美也子は理解できるらしいが、伊織にはさっぱりだった。無難にケーキ一個でいいだろう。そう思ってしまう。


「つーか、そんなにケーキ作るなら俺呼べよ。一緒に食ったのに」

「⋯⋯へ?」


 ふいに影光が放った言葉に、葵は気の抜けた声で返した。駆け布団から瞳だけを覗かせる。


「だから、一緒に祝ってやるって言ってんだよ。お前の好きなキャラだし、それぐらい付き合うぞ」

「え、いや、でも⋯⋯影光先輩、多分存じないキャラですので⋯⋯」

「んなもん、俺が見て知ればいいだけだろ。1クールか? 2クールか? まぁ何クールでも、俺にかかれば数日あれば余裕だし、気にすることねぇよ。だから、次は俺を呼べ」

「あ、ありがとう⋯⋯ございます」


 葵がまた顔を隠し、ぼそぼそとお礼を言う。

 影光が平然とした顔で、「おう」と頼もしく返事をした。


「なるほど⋯⋯」


 やり取りの一部始終を見ていた美也子は、合点がいくように何度も頷いていた。

 影光のモテる要素を垣間見たからだろう。

 彼は性格や言動に反して、面倒見が非常にいいのである。

 その点は伊織も、影光の大きな長所の一つとして捉えていた。

 

「あ、俺三年生の教室寄らなきゃいけないの忘れてた」


 伊織は、気を利かせることにした。


「三年生の教室? 何しに行くんだよ?」

「代表リレーの件で、熱井先輩から直前の打ち合わせに呼ばれてたんだった。な、美也子?」


 美也子に顔を向け、同意を求める。

 もちろんそんな用事はないが、伝わってくれの一心で、眼球に力を込めた。


「え、そんなのありましたっけ──ありました! 超ありましたぁ! 忘れてましたわぁ! こりゃあうっかりさんやでぇ!」


 ギリギリで察した美也子が話を合わせてくれる。

 変な関西弁になってはいたが、伊織は心の中でぐっと親指を立てた。


「へーそりゃどんまいだな。なら、俺はもう少し葵と話しとくわ。またグラウンドで」


 影光は怪しむことなく、そう言って伊織と美也子を見送った。

 去り際、葵からアイコンタクトで“ありがとう”を受け取り、越前先生からはなぜか投げキッスを受け取った。刺激が強すぎる。


 保健室を出た伊織と美也子はあてもなく、教室内をぶらぶら歩くことにした。

 午後のプログラムまではあと二十分もある。


「あの、冴木先輩」


 ちょうど図書室の横を通り過ぎたとき、美也子が切り出した。


「なに?」

「やっぱり、男の人ってむちむちな女の子のほうが好きなんですか?」

「ど、どうした急に」

 

 藪から棒の質問に、伊織はおろおろする。

 美也子の意図がわからない。

 

「だって冴木先輩、越前先生に見惚れてたじゃないですか」

「いや、見惚れてないけど」

「見惚れてましたよ。投げキッスにもニヤついてましたし、新田先輩だって、葵ちゃんのベッドに入ってくる前に『えっろ』とか言ってるの聞こえました」

「⋯⋯地獄耳め」

「で、どうなんですか? えっちなんですか? やはりえっちなんですか? 越前先生やお姉ちゃんのようなぼっきゅっぼんが正義なんですか?」

「人によるよ」

「冴木先輩の主観でかまいません」

「⋯⋯そういうの、セクハラだから」

「言い換えます。男は色気に弱いんですか?」

「黙秘権を行使する」

「なら、私は強制権を行使します」

「そんなものないだろ⋯⋯」


 その後も延々と美也子から詰問され、伊織は早々に保健室を抜け出したことを後悔した。

 美也子のうざ絡みは、かなり疲れるのだ。




  

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