第19話 熱に浮かされた戯言


 翌日の火曜日。


 伊織は風邪を悪化させた。


「三十八度七分か⋯⋯今日は休め、伊織」


 寝室で横になっている伊織の脇から体温計を抜き出した父親の冴木章造さえきしょうぞうが、苦い顔をして言った。


「うん⋯⋯」


 伊織は気怠そうに、首を縦に振る。

 いまにも湯気が湧いてきそうなほど、彼の顔は紅潮していた。


 章造は自慢の無精髭を擦りながら、しばらく思案した後、口を開く。


「今日一日様子を見て、体温が下がらないようなら病院に行こう」

「別に⋯⋯寝てれば大丈夫だよ。病院は大袈裟だって」


 伊織は父とは反対方向に寝返りを打って、投げやりに言った。


「大袈裟なもんか。この高さの熱は初めてだろう」


 章造の口調は落ち着いていたが、若干呆れの色が含まれていた。

 伊織の熱への───それも自分の──無頓着さに、ため息が混じったのだ。


「とにかく父さんは仕事に行かなきゃならんから、辛かったらすぐに電話しろ。春と冬たちには、帰宅しても寝室に入らないように言っておく」

「⋯⋯わかった」


 その言葉を最後に、章造は寝室をあとにした。


 やがて、袋の擦れる音がした。

 その音は玄関のドアに向かっていた。


 今日はゴミ出しの日だったので、出勤のついでに済ませるつもりなのだろう。


 ドアが閉まると、家の中が静まり返った。

 物音一つ、耳に入らない。


 数分前までは、あんなにも騒がしかったというのに。


 今朝は珍しく体調を崩した兄に向かって春が、「兄ちゃん大丈夫!?」と寝起きとは思えない元気なテンションで心配の声をかけ、それを冬が大人な態度で制止するところから始まり、その後もドタバタドタバタ。

 

 賑やかな嵐が去って、伊織はただ一人、残される。

 

(身体が熱い⋯⋯こんなことになるなら、念のためにバイト休んでおけばよかった⋯⋯)


 身体がとにかく、だるくて重い。


 布団を無意味に何度も掛け直し、なんとか眠ろうと試みるが、なかなか意識が飛んでくれない。

 熱が身体の外から中へ、中から外へじわじわと侵食するような───微妙な不快感。


(あー、きっついな⋯⋯)

 

 結局、昼頃に春と冬が帰ってくるまで、一睡もできなかった。

 春と冬は学校から帰宅しても、父親の言いつけどおり寝室には入らなかった。

 そそくさとリビングに入って、普段より物音を立てず、お喋りな春も気を遣っていつもより声のトーンを落としていた。


 残念ながらそういう心遣い関係なく、どちらにしても眠れなかった伊織ではあるが、彼にとってはそれが心底嬉しく感じられた。


 我が弟ながら、感服である。


 そこから数時間経ち、インターフォンが鳴った。


 あまり間髪入れずにもう一度鳴ったので、伊織は誰だかすぐにわかった。

 この鳴らし方の特徴から察するに、影光だ。


 熱に長い間うなされているうちに、時計はもう午後四時をまわっていた。


 伊織は緩慢な動きで上体を起こし、のろのろと四つん這いで床を這うように進むと、寝室のドアを開けた。

 

 ドアの向こうには冬がいた。

 身体を大の字に広げ、道を塞ぐように立っている。


「春にぃが玄関まで出てるから、伊織にぃは安静にしてて」

「安静って⋯⋯俺は病人か」

「その姿はどこからどう見ても病人だよ」

「まぁ、否定できない」


 冬は心配そうな顔で、伊織を覗き込む。

 そして、とても小学生とは思えないほどの大人びた口調で言った。


「そうでしょ? だから伊織にぃは寝てて。あと、タオルも代えておくから」

「うん。ありがとう」


 冬は寝室に入ると、枕の側に置かれたプラスチック型の丸い桶を持ち上げた。

 中には氷水と、濡れたフェイスタオルが縁に掛けられている。

 冬は「よっこいしょ」と発し、危なげな足取りで寝室を出ていった。手伝ってやりたかったけれど、今は甘えることにした。


 冬とちょうど入れ違いに、影光がやって来た。

 後ろには身長の差で見えにくいが、春もいる。


 影光は制服姿で、学生鞄を重そうに背負っていた。

 

 彼の手元に目をやると、数枚の紙が挟まったクリアファイルを右手に持っていた。もう片方の手はレジ袋を掴んでいて、詳細はわからないが、何本かのペットボトルであることが確認できた。


「よぉ伊織。死にそうな顔してんな」


 影光は開口一番そう言うと、左手に持ったレジ袋を伊織の枕元に置いた。


「これ、経口補水液とかスポーツドリンク買ってきた。あ、薬とは一緒に飲むなよ。それと、今日の課題プリントとか色々」


 影光はクリアファイルを伊織に差し出した。


「ありがとう⋯⋯まじで助かる」


 クリアファイルを受け取った伊織は礼を言いつつ、来た道(と言ってもわずか一メートル程度)をのそのそと身体を引きずるように戻っていく。


「あ、そうだ。いくらかかった?」

「いいよ別に。今度なんか奢れ」

「わかった」


 枕下に置かれた財布に伸びていた手を引っ込め、

伊織は扉付近に振り返った。


「春も、玄関まで代わりに出てくれてありがとう」


 春にも礼を言うと、本人は顔を綻ばせ、嬉しそうに親指を上げた。


「へへっ。いいってことよ兄ちゃん! また困ったことがあったら手伝うからな!」

「うん。お願いする」


 春は満足そうにリビングへ戻っていった。

 寝室は伊織とその場で腰掛けた影光の二人だけとなる。


 近くからは蛇口から水が出る音がしているので、冬が洗面所でタオルを絞ったり、桶の水を替えたりしているのだろう。


 その妙に心地の良い音を耳に傾けながら、伊織は再び布団に潜り込むと、首を曲げて、影光を見上げた。


 影光は眠そうな目を擦りつつ、機嫌が悪そうな顔を貼り付けていた。


 不健康そうではあるが、彼は至って健康で、普段と何も変わらない。


(俺と同じくどしゃ降りで帰ったとは思えないほどピンピンしてる⋯⋯すげぇなこいつ)


 伊織は影光のあまりの頑丈さに思わず苦笑する。

 影光はそんな伊織の心中には気づかず、


「なぁ伊織」

「なに?」

「用は済んだからもう帰るんだけどさ、その前に一つお前に伝えることがある。まぁ、どうせ風邪治って学校来ればすぐにわかることなんだけどな」

「伝えること?」

「まぁ、多分⋯⋯というか絶対、伊織からすれば悪いニュースだな」

「⋯⋯良いニュースはないの?」

「ねぇな」


 伊織はなんだかこのやり取りに既視感を覚えつつも、影光の次の言葉を待った。


「今日、クラスで体育祭の種目決めがあったんだけど⋯⋯」

(あーもうその時点で大体察した⋯⋯)


 伊織は何かを予感し、覚悟を決めたように瞼を閉じる。


 影光は、同情心を含んだ声と顔で二の句を継いだ。


「お前の出場種目、『青風院代表リレー』と『二千メートルマラソン』になった」

「あ゛あ゛あぁぁ⋯⋯」


 それは、伊織にとって死の宣告と同等の破壊力を持っていた。

 ごろんと俯向けになり、枕に顔を埋める。


 調子の悪い喉を振り絞って、悲痛なうめき声を上げた。


 彼の学校の体育祭は一人二つ以上の種目へ参加することが義務づけられており、怪我など本当にどうしようもない場合を除き、例外はない。


「うちのクラス、陸上部いないからマラソンは余ると思ってたけど、まさか代表リレーも残るなんて⋯⋯」


 長時間走り続けるマラソンも億劫だが、特に伊織が最悪だと思った競技は『青風院代表リレー』である。

 

 各学年各色の組から二人ずつ選出し、6×200メートルをリレー形式で走る競技。

 青風院代表とだけあって配点の高さは競技内随一であり、各色の組の勝敗を分ける重要な種目だ。

 

「意外とみんな消極的だったな。クラスに固まってるテニス部の連中も綱引きとか玉入れみたいな楽な競技に手挙げてたし」

「それでも運動部かよぉ⋯⋯そういうのは運動音痴専用の競技だろうがよぉ⋯⋯」


 伊織は消え入りそうな声で嘆きだす。

 

「はぁ〜⋯⋯休んだ俺が悪いと言われたらそれまでだけどさ、にしたって少しぐらいは慈悲をくれても───」

「いや、慈悲はあったぞ」


 ここで、影光が口を挟んで否定した。


「⋯⋯え、どういうこと?」


 伊織は影光が言ったことを理解できず、俯向けのまま顔を上げると、首を傾げた。


「そのままの意味だよ。一周目の立候補が終わった最後に、お前だけくじで・・・種目を引いたんだ。結果、『代表リレー』と『マラソン』になった」

「⋯⋯つまり、どういうこと?」

「だから、ええと⋯⋯うちのクラス平等に決めるために、まず全員を一番やりたい種目に立候補させたんだよ。それで定員超えてる種目があったら、そこはじゃんけんして争って⋯⋯で、この一周目が終わったら、二週目も同じように一斉に立候補させて───これをクラス全員種目が二つ決まるまで繰り返した」 


 長めの説明をしてちょっと疲れたのか、影光はここで言葉を区切った。


 伊織は依然としてきょとんとしているが、影光はかまわず再開する。


「一周目と二週目の立候補が終わったあと、お前の代理がくじを引いて、種目を立候補した。余り物じゃなくて、せめてランダムにしてあげようってことでな。要は伊織にも玉入れや綱引きに参加できるチャンスがあったってことだ。ちなみに、伊織が立候補した先が定員オーバーだったら、そのグループはじゃんけんじゃなくてくじで争ってたと思う。伊織がその場にいないからな。まぁその必要はなかったけど」

「なるほど⋯⋯」


 ようやく理解した伊織は、ため息をついた。

 

 とどのつまり、こういうことだ。


「俺の運が・・死ぬほど悪かった・・・・ってことか⋯⋯」

「そういうことだな、ドンマイ」


 影光は伊織の肩をポンポンと叩き、優しく慰めた。

 同じ陰の者同士、気持ちがよくわかるからだろう。

 

 最低限の公平性が確保されての種目決めだったとはいえ、運動能力もセンスもない人間がマラソンと代表リレーに出場するのはかなりの苦行である。


「あ、ちなみにお前の代わりにくじ引いたのは俺じゃねぇからな。文句は受け付けないぞ」

「あ、そうなの? いや別に怒んないけどさ⋯⋯」


 影光が付け加えた一言に、伊織は少しだけびっくりした。てっきり、影光が代理を引き受けたのばかり思っていた。


「誰が引いてくれたの? 先生? それとも真雪?」

「違う」

「じゃあ誰?」

「わからん」

「んぁ?」


 わからないってどういうことだよ───伊織は怪訝な目を影光に向ける。


「いや、正確に言うと、誰かはわかる⋯⋯クラスメイトだった。けど、名前が出てこない」

「いい加減にクラスメイトの名前覚えなさいよ。下の名前は仕方ないけど、苗字はいけるでしょ」

「そうは言うけどな、逆にお前はクラスの女子全員の苗字言えるか? まだ新学期入ってから二ヶ月だぞ?」

「それはたしかに俺も自信ないけど⋯⋯でも、種目決めのときに結構名前飛び交ったりしただろ?」

「自分の種目決まってからはほぼ寝てたから覚えてねぇな」 

「おいおい⋯⋯」

「というか、そもそも伊織の種目をくじで決めてあげようって提案したのも、その子だぞ。自分が言い出しっぺだからって、伊織の代理も引き受けてた」

「まじかよ」


 影光の言葉に、伊織は重ねて驚いた。

 

「『その子』って言い方的に⋯⋯女子?」

「そう、女子。それは間違いない、俺の目が腐ってなければ、あれは女子だった」


 伊織は体制を仰向けに戻すと、天井を見上げる。


 驚きと感動の色が混じった目を潤ませ、しみじみと言った。


「何、その優しい人⋯⋯俺クラスで話せるやつ影光と真雪と、あと男数人だけなんだけど⋯⋯そんなろくに話したこともない俺を気遣ってくれるとか⋯⋯女神かなにかかよ」

「女神という意見には俺も同意する」


 結局、影光はその女子の名前を思い出すことができなかった。

 「黒髪だった」という、ほぼ誰にでも当てはまりそうな小粒な情報しか、得られなかった。


「そんじゃあ、帰るわ」 

「うん。今日はありがとう」

「おう───あっ」


 立ち上がって帰ろうとした影光が、突然何かを思い出したような声を上げた。


「どうした? 女子の名前思い出した?」

「いや、そうじゃなくて⋯⋯⋯⋯」


 影光は口元を手で抑え、何やら考え込んだあと、


「まぁこれは長くなりそうだし、お前が学校来たら話すわ。これ以上長居するのも悪いしな」と言った。


 そんな濁した態度をとられると、余計気になってくる。


「そこまで言いかけたなら───」


 伊織はここでタイミング悪く、咳が出てしまった。

 げほげほと数回咳き込む。


「今度のほうがよさそうだな。じゃあな、伊織。お大事に」

「おい、ちょ───」


 影光は咳を口実にアパートをあとにした。


「まったくあいつは⋯⋯気になること言って帰りやがって⋯⋯優しい女子の名前も分からなかったし⋯⋯」


 伊織は一通り文句を垂れたが、それもこれも自分の体調を気遣っての行動なので言葉ほど怒りはなかった。

 むしろ感謝の気持ちのほうが、明らかに強い。


 影光が出ていった数分後、冬が寝室に入ってきた。

 両手で氷水と濡れたフェイスタオルが入った桶を持っている。


「すごく話してたね。伊織にぃ」

「あぁ、ずっと待ってくれてたのか。ありがとう冬」

「リビングでゆっくりしてたから大丈夫」


 桶を置いた冬は、すぐに隣のリビングへ戻っていった。

 

 また一人になった伊織は、冬が持ってきてくれた濡れタオルで身体を拭き、布団に潜った。


(まだ、身体が熱い⋯⋯)


 熱がじんわりと、蘇ってくる。


(影光と話してる間は、あんまりしんどくなかったな⋯⋯)


 伊織は心の中で呟くと、目を瞑る。


 瞼の裏で、影光との会話で度々訪れる沈黙を思い出していた。


 ───なんかむず痒いなぁ、この間


(やっぱり、気にしすぎだよな⋯⋯)


 そうは言いつつ、それでも不安は消えない。

 

 影光を信じれないのではなく、伊織は自分を信じられないのだ。


 自分に自信がないから───。


 伊織は複雑な感情から逃れるように、強引に眠った。


 なんとか眠ることが、できた。 


 



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