第20話 噂の由貴
伊織はあれから深夜まで眠りこけた。
夜中に目を覚ました伊織は軽食と風呂を済ませると、再び布団に入った。
熱は思いのほか長引いた。体温が平熱に戻るまで二日を要し、登校できるようになったのは木曜日のことだった。
「本当に、学校行くのか?」
「行くよ。熱下がったんだし」
制服に着替え、玄関で靴を履いていた伊織を父親の章造は不安げに見つめていた。
章造はスーツ姿だった。
「うーん⋯⋯父さんは大事を取ってもう一日休んだほうが良いと思うけどなぁ。病み上がりはぶり返しやすいぞ?」
「別に平気だよ。心配してくれるのはありがたいけど、あまり俺の身体をなめないほうがいい」
伊織はドヤ顔で言って、親指を立てる。
「⋯⋯まぁそうやってしょうもない軽口叩けてるし、大丈夫か」
章造は仕方ないなといった感じで肩をすくめると、自分も靴を履き始めた。
伊織の通学と章造の出勤時間はほぼ同じである。
「しょうもないとか言わないでよ」
「今のはしょうもないだろう。ほら、早く玄関出ろ。鍵閉めるから」
章造は文句を言った伊織を適当にいなし、さっさとアパートを出る。
伊織もすぐに外に出ると、章造がドアノブを掴んだ。ぎー、と軋む音が聞こえ、ばたんと閉まる。
「じゃあいってらっしゃい」
「うん、父さんも」
章造は手を振ると、鉄骨階段を足早に降りていった。
そしてアパート住居者専用の駐車場にとめてあった自転車に跨がり、駅へと走り出した。
サイズがやや小さい激安のママチャリに乗った、肩幅が広くてがっしりとした体躯の父親。
思わず笑ってしまいそうなぐらいアンバランスだったけれど、伊織はその背中を最後まで見送ってから、学校への一歩を踏み出した。
教室に入ると、奥の『主人公席』に影光がいた。
片手で持ったスマホの画面を食いつくように見ているので、おそらくいつものようにソシャゲをプレイしているのだろう。
ついでに、彼を時折チラ見する桜井真雪と甘見里佐奈の姿も見て取れた。
真雪は読書をしながらチラり。
佐奈は瀧山茜との雑談中にチラり。
何てことはない、最近の見慣れた光景である。
伊織は人と机の間を縫うように歩き、自分の席に座った。普段なら教卓の前を通って行くのだが、なぜか今日は六、七人で集まった女子グループがその近くに集まってお喋りをしていて、道を塞いでいた。
「相変わらずゲームやってる」
「お、風邪治ったのか」
影光は伊織を一瞥すると、またすぐゲーム画面に目を戻した。
「うん。影光がお見舞いと死刑宣告に来てくれたおかげかな」
「だからお前のくじ引いたの俺じゃねえって。なんだよ、やっぱり怒ってんじゃねぇか」
「怒ってないよ、冗談だよ」
「お前の冗談はわかりにくい」
「ははは」
目線をゲーム画面に固定したままの影光と軽口を交わすうちに、伊織はふと思い出す。
昨日影光がもったいぶって、結局言わなかった話題について───。
「で、一昨日影光が言いかけてたことって何だったの?」
「あぁ、それな⋯⋯」
影光は伊織の質問に反応した。再び顔を上げると、きょろきょろと周りを伺う。
そして、伊織に顔を近づけると、声のトーンをできる限り落として、囁くように言った。
「由貴のやつ、大変なことになってる」
「大変なこと?」
ついオウム返しをした伊織の心の中で、“大変”という言葉が反芻した。
“大変”にも様々な意味があるので、まだ具体的な断定はできないけれど、影光の真面目な表情を見て、少なくともネガティブな話題であることは確信する。
「大変なことって⋯⋯?」
伊織はおそるおそる訊いてみる。
じんわりと、不安が汗と溶け出して肌に染みていくのがわかった。
影光は一度咳払いを挟んだあと、
「結論から言うと、噂が学校中に広まってる」
「噂⋯⋯? なんの?」
「由貴の不貞行為」
「ふていこうい?」
聞き馴染みのないその単語を、またしても伊織はオウム返しする。
“大変”の次は“不貞行為”という単語の意味を自分の脳内辞書ですばやく調べた。
不貞行為とは───とどのつまり、浮気である。
「え、由貴浮気してたの!?」
思ったことが、そのまま口に出た。
「まぁ、そういうことになってる⋯⋯けど」
「けど?」
「その噂の内容が、由貴が
「あっ⋯⋯」
「わかったか?」
影光の問いに、伊織は深く頷いた。
「
「そういうこと」
由貴と戸田姉妹の間で起こった事件は、当事者を除けば、伊織が一番知っていた。
由貴が妹の美也子に手を出したのではなく、美也子から由貴にちょっかいをかけた。これが真実だ。
ちょっかいというのは当然、キスのことである。
もちろんこれはあくまで由貴や鈴零から聞いただけで、伊織が実際に現場を目撃したわけではない。
しかし、他でもない美也子本人が認めている以上、これが事実であることは疑いようもない。
影光も大体ではあるが事情を把握しているので、伊織と同じ気持ちだった。
由貴が謂れのない噂に苦しめられるのは、親友としては腹が立つ。
「それと、困ったことにすべての学年に噂が行き渡ってるみたいなんだよ」
影光は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「なんでそんなに広がってるんだよ」
「戸田姉が三年生、戸田妹が一年生、由貴が二年生⋯⋯噂の登場人物が綺麗に一学年ずつ分かれてるからな。見事に分散してるってわけだ」
「なるほど⋯⋯」
「ほら、あそこにいる女子達も噂に夢中みたいだぞ」
「え?」
影光が指で示した方向は、教室に入った時に伊織の視界が捉えていた場所───教卓付近だった。
賑やかだった女子グループの面々は、数分前と変わらず元気にわちゃわちゃ駄弁っており、よく耳をそばだててみると、たしかに由貴を話題に出していた。
そして会話の節々には、由貴を非難するようなニュアンスの声がたくさん聞き取れた。
「見損なったわー」「由貴くんクズだったんだ」「まじ最低だよね」「でも泥沼展開最高にワクワクする」「ちょっ、性格悪いって(笑)」「だって傍から見てる分にはさぁ」「まぁその気持ちはわかるけどー」「男は地獄に堕ちろ」「会長さんも男見る目ないね」
ありとあらゆる罵倒、中傷、嘲笑が繰り返される会話を聞き、伊織は強い不快感を持った。同時に怒りも湧いてくる。
「なんであんな楽しそうに話してんの」
「そりゃあ無関係の立場からしたら、美味しい話のネタになるだろうよ。三角関係、それも姉妹のいざこざとなれば尚更」
「なんだよそれ⋯⋯ちょっと俺が言ってこようかな。全部嘘だって」
「やめとけやめとけ」
腰を浮かしかけた伊織を、影光は制止する。
「なんでとめるんだよ」
突き放したような言い方に伊織はむっとするが、影光は至って真剣だった。
「俺も昨日は誤解を解こうとしたけど、友達の俺が由貴を擁護したら、余計怪しくなって噂が濃くなるかもしれないと思ったからやめた。燃料を投下するだけだし、こういうのは鎮静化するのを待ったほうがいい」
「でも───」
「由貴の噂を否定できる証拠はないんだぞ。闇雲に否定しても意味ねぇよ」
「───っ」
なおも食い下がろうとする伊織に、気持ちはわかるといった顔で影光は続けた。
「どうせあそこの女子たちも、他の学年の噂してる奴らも、一週間か二週間、長くても一ヶ月ぐらい経てば綺麗さっぱり忘れて誰も話題にしなくなるから。噂なんてそんなもんだ。まぁ、由貴には不名誉な傷が残るかもしれないけど」
それが問題なんじゃないかと、伊織は反論しようとして、呑み込んだ。影光もそんなことは百も承知で、だからこそ自分たちが今取るべき最適解の行動を提示してくれているのだとわかったからだ。
学校中に蔓延している噂がまったくの事実無根であることに気がついているのは、当事者を除けば伊織と影光ただ二人。
たった二人じゃ、学校規模で浸透した噂の根を全部引き抜くのは難しい。ならば下手に刺激せず、噂は噂らしく、風化してくれるのを待つ───影光の方法は現実的かつ、有効的だった。
だが、伊織は知っている。
噂が完全に消滅することなんて、ないことを。
勢いは衰えても、活動が停止することはない。
この先事あるたびに掘り返され、由貴は札付きの浮気者だと吹聴されるに違いない。
伊織は親友がそんな目に遭うことが耐えられない。
でも、影光の提案以上のものを思いつかない。
何かを否定するには、何か別の考えを持ってこなくてはならないのだ。
それが出来ない以上、押し黙るしかなかった。
伊織は自分に対して募った怒りを、噂そのものにぶつけた。
「そもそも、なんでそんな噂が広まったんだよ。発生源はどこ?」
「さぁな。でもまぁ推測するに、最近由貴と戸田姉の仲がぎくしゃくしてたらしいから、それでどこの馬の骨かもわからないような誰かが勝手に憶測して、その憶測を誰かが尾ひれをつけて誰かに話して、それが何度も何度も続いた結果、誇張しまくりの噂がたったんじゃねぇかな」
「そんな簡単に⋯⋯噂が始まった時、由貴と会長さんは否定しなかったの?」
「表立って否定できない理由があるだろ」
「理由って⋯⋯あっ」
「そう。二人の仲に亀裂が入ったのは戸田妹が由貴にキスをしたことが発端───偶然にも最終的に辿り着いた噂の内容は当たらずも遠からずだった⋯⋯つまり」
「二人は戸田妹を
「多分そうだろうな。相変わらず、由貴はお人好しバカだ」
影光が呆れたように答えると、伊織は腑に落ちた思いでため息をついた。
意見を否定するのに別の意見が必要なように、噂を否定するのにもまた別の噂が必要になる。
「『浮気じゃない』って言ったら、『じゃあなんでぎくしゃくしてるの?』って追求される。でも戸田妹のために本当のことは言えない。まったく、由貴も戸田姉も律儀すぎるよな。別に本当のことなんて黙っておいて、適当な喧嘩理由でっちあげて否定すりゃいいのに、どうせ由貴のことだから嘘もつきたくないんだろうな」
「由貴⋯⋯」
伊織は複雑な気持ちに駆られ、神妙な面持ちで由貴の名前を呟いた。
「あー喋った喋った。声落としながらだったからよけい疲れた。喉潤そ」
彼はスクールバッグからお茶のペットボトルを取り出し、乾いた口を湿らすようにゆっくりと飲んだ。
こういう時の影光は水を得た魚のようによく喋る。
元々野次馬精神に富んだ性格ではあるので、人のくだらない噂を聞きつけては第三者目線でよく流暢に語っていた。
だが今回ばかりは、単純に友人が悪評の的にされている怒りから出た饒舌だった。
「なんとか⋯⋯できないのかな」
やるせない気持ちを絞り出すように、伊織は言った。
「なんとかって? さっきも言ったけど俺たちが変に絡むのは───」
「それはわかってるけど!」
伊織は少しだけ声を張り上げてしまった。
ホームールーム前の教室は騒がしく、周りの生徒の話し声や物音で伊織の声はかき消えたが、影光にははっきりと聞こえた。
怒りや悲しみが混在し、自分の情けなさ、無力さをを酷く責めるような、そんな声を。
「伊織⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
頭を伏せて、机の上に乗せた拳を握りしめる伊織。
影光は伊織を見据え、それ以上何も言わなかった。
しばらく二人の間で沈黙が続くと、意外な人物がそれを勢いよく破ってきた。
ばたん!!
両手で力任せに開いたのだろう───黒板側の教室の引き戸が凄まじい音をたてる。
「あ、あのっ⋯⋯!!」
そのまま間髪を入れずに緊張で上ずった大声が教室中に響き渡り、一気にクラス中の視線を集めた。
例に漏れず、伊織と影光も目を向けた。
「えっ⋯⋯」
伊織は驚きと困惑のあまり、次の言葉を継げなかった。影光に至っては鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、硬まっている。
二人の───クラス全員の視線の先には、今まさに話題にあがっていた張本人────戸田美也子が立っていた。
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