第28話 愚かな気持ちと認める勇気


 突然自分の名を叫ばれ、美也子は全身を強張らせた。驚きと困惑で反応が遅れた。


 数秒ほど間をおいて、声のほうに振り向く。

 姿を認めた途端、美也子は思わず目を見開いた。


 本人曰くトレードマークの───美也子は似合ってないと思っている───金髪を風に靡かせながら、由貴が立っていたからだ。

 彼はスクールバッグを肩に背負い、慈愛に満ちた表情で美也子を見据えていた。


「ゆ、由貴⋯⋯先、輩」

「ちょっと話いいかな?」


 由貴は優しい口調で告げると、自分や美也子に視線を注ぐ帰宅途中の生徒たちの中をかき分け、ずんずんと前に進んできた。

 美也子の目の前に立つと、腕を摑んで人気のない校舎裏へと連れて行く。さきほど伊織が休んでいた場所から、さらに奥へと進んだ場所である。


 美也子は連行に戸惑いながらも、特に抵抗はしなかった。腕を掴まれたときに身を軽く引いただけで、あとは流されるまま身を委ねた。

 拒否しようがしまいが、意味がないと思った。


「ふぅ⋯⋯ここなら、誰かに聞かれる可能性はないかな」


 周囲をきょろきょろと見回して息をつくと、由貴は言った。


「というか、やっと美也子ちゃんと話せるよ。学年違うから下校時間合わないし、合っても部活だしでほんと苦労した⋯⋯」


 それから、次の言葉は出なかった。

 大胆な行動に出た割に緊張しているのか、持ち前の穏やかな雰囲気が多少薄れている。

 

 由貴はまるで慎重に言葉を探し選ぶかのように、しかつめらしい顔で口を閉ざす。


 しばしの沈黙が、校舎裏に流れた。


 やがてうっすらと、学校の白い外壁の奥から吹奏楽部の演奏が漏れ聴こえてきた。ささやかで微笑ましい、心を優しく撫でるような、澄み切ったメロディ。


 そんな演奏に身体が弛緩したのか、美也子が口火を切った。

 山ほどある質問をぐっと抑えて、笑みを作り、自分の罪滅ぼしの気持ちに従った上で、一番妥当な言葉を口に出す。

 

「由貴先輩、何かご用ですか? あの、元はといえば私のせいなのであまりこういうことは言いたくないんですけど、私たちがこうやって学校で二人きりになるとまた噂がねじれちゃうかもしれませんよ? なので、できれば早くこの場から離れたいと言いますか⋯⋯」


 美也子の遠回しな催促を受け、由貴はやっと意を決したのか、顔を引き締める。

 丁寧な口調で、由貴は問いかけた。


「美也子ちゃん、最近俺を避けてるよね?」


 緩んだ緊張が、また張り詰めた。

 逃げ出したい衝動をぐっと堪える。

 

「な、なんですかそれ。たしかに由貴先輩を避けてることは否定しませんけど、こうなった以上は仕方がないじゃないですか。むしろ当たり前の行動です。私たちが二人きりでいると、またあらぬ誤解を与えかねないです。もう私のことは気にしなくていいので、放っておいてください」


 平静を装い、もっともらしい返答をする。


 最後のほうは投げやりな内容になってしまったけれど、これが姉と由貴の⋯⋯なによりも自分のためになると信じて。


 しかし、由貴はまったく動じなかった。

 ゆるくかぶりを振って、


「噂が広がったあとの話をしてるんじゃないよ。美也子ちゃんはずっと前から・・・・・・俺を避けてた」

「───っ」


 今度は、何も言い返せなかった。


 いつもは湯水の如く湧いて出てくる軽薄な言葉たちが、すっかりと鳴りを潜めてしまった。

 怯えるように、縋るように、美也子の心の中に隠れていく。


「ど、どういう意味ですか⋯⋯?」


 長い秒数を使ってようやく絞り出した言葉は、たったそれだけだった。

 由貴は息を吸って、

 

「移動教室、迷子」


 と言った。

 そして、二つの単語に反応を示した美也子の双眸をまっすぐに捉えながら、


「中学で出会ってから、俺はずっと美也子ちゃんに避けられてる」


 二の句を継いだ。


 美也子は、大いに混乱した。

 さきほどまで思考に巡っていたものが全部吹き飛んでしまった。魚のように口をパクパクと開閉する。


 まさか、由貴が初めて自分と会ったときのことを覚えていたなんて。


 だったらなんで言ってくれなかったのか。


 何か理由があるのだろうか。


 それから由貴が言った「ずっと避けられている」とは? 


 自分が由貴を遠目から見ていたことに気付いていたのか? 


 それとも知らず知らずのうちに由貴を無視してしまっていたのか?


 綺麗さっぱりの平原となった脳内に、また色んな感情や想いが次々と流れ込んでくる。


 驚愕、羞恥、疑問、困惑⋯⋯。


 到底処理できる量ではなく、危うくショートしかける。

 そんな壊れかけ状態の美也子にはかまわず、由貴は続けた。


「俺が中学の頃から鈴零のことが好きだった話はしたよね? だから当然、妹である美也子ちゃんの存在も知ってたよ。あくまで存在だけで、まさかあの時迷子で困っていたのが美也子ちゃんだったって知ったのは、その少しあとなんだけど」

「⋯⋯そう、ですか」


 我に返った美也子は、決して由貴と目を合わせようとはせず、こくりと頷いた。


「美也子ちゃん、ずっと俺を影から見てたよね? なんかすっごい複雑そうな顔で⋯⋯」


 バレてた、と美也子は顔を赤くした。

 筆舌に尽くしがたい情けなさと、底抜けの恥ずかしさが一気に押し寄せてくる。

 由貴は依然としてかまわず、追い打ちをかける。


「でもこっちから近寄ってみたらすぐ逃げられて⋯⋯だから俺、美也子ちゃんにキスされるまで嫌われてるのかと思ってた。中学の頃から鈴零にそれとなくアプローチはしてたから、もしかして美也子ちゃんはお姉ちゃんが大好きでそれを疎ましく思って、敵意をむき出しにしてきたのかなって。俺、結構悩んでたんだよ? 鈴零の妹に嫌われたのかもしれないって。あ、あとそれから───」

「もういい! もういいです⋯⋯!」


 限界を迎えた美也子は、身振り手振りを使って由貴の話を打ち切った。

 自分の行動が何から何まで筒抜けであったことに加え、それを由貴本人に真面目な顔で語られるというのは、かなりこたえる。

 

「ご、ごめん⋯⋯」

「いえ⋯⋯」

「⋯⋯でも今考えたら、それは勘違いだったとわかるよ」


 由貴は声を一つ低くして、仕切り直すように言った。

 すると、空気は緊張感を持ち直した。

 美也子は再び顔を伏せる。


 彼がこれから何を言うのか、なんとなく理解したから。


 きっと、有耶無耶な状況を一つ一つ、正そうとしているのだ。


 大山由貴とは、そういう人なんだろうと美也子は思った。


「⋯⋯俺は、美也子ちゃんの気持ちには応えられない」


 わかりきった、なんとも今更感の漂う言葉だった。

 

 それでも、由貴は向き合った。

 わざわざ、相手にする必要もないのに。


「何を言うかと思えば⋯⋯まさかこれだけのために私を連れ出したんですか?」


 これは明らかに虚勢だった。

 けれど美也子にはこれしか、自分を守る術を知らない。


「ちゃんと言っておかないとって思ったから。でも、連れ出したのは別の理由」


 由貴は深く息を吸って、次の言葉を吐いた。


「───もう、無理しなくていい」

「⋯⋯どういう意味ですか?」

「今の美也子ちゃん、だいぶ無理してるよね?」 

「そ、それは⋯⋯」

「二年前、移動教室で話したときの美也子ちゃんがどう考えても素だってわかる。そっちの美也子ちゃんのほうが生き生きしてるし、好きだったから」


 直後、美也子の息が詰まった。

 呼吸も忘れて、ただ由貴の顔を見上げる。


「鈴零も、すごく気にしてた。中学二年から急に別人みたいになったって。最初はそういう年頃なのかと思ってたけど、美也子ちゃんの部屋からBLアニメの大熱唱が突然聴こえてきて、覗いてみたら昔の美也子ちゃんの姿がそのままあったから、外面だけ変わっていたことに気づいて、その日から鈴零は、もしかして妹が仮面を被り始めたのは自分のせいなんじゃないかって思い始めたらしくて───」


 由貴の話している内容は、美也子にはもうほとんど耳に入っていなかった。

 家に一人でいるとき(実は姉がいたらしい)に喉が張り裂けるまでBLアニメのOPを熱く歌ったことがバレていたとか、今の美也子にとってはさして問題ではなかった。


 それよりも直前に言われたことが、何度も頭の中で反芻して、脳内に留まり続ける。


 ───そっちの美也子ちゃんのほうが生き生きしてるし、好きだったから


 この、せり上がってくる感情は。

 ふつふつと沸き立つ想いは。

 溢れ出る嬉しさは。


 それらすべてを呑み込んでしまう、この罪悪感は。


(やっぱり私は、醜いな。それも、タチが悪いよ)


 美也子は、何度目かわからない自嘲を心の中で呟いた。けれど、今度は少しばかり意味が違った。


 最近、同じような言葉をかけてくれた人がいた。

 ありのままの自分を肯定してくれるような、包み込むような温かい言葉を。

 しかし美也子は、その言葉をもらったとき、嬉しさを覚える反面、こう思った。


 ───それは由貴先輩かお姉ちゃんに言ってほしかった


 なんて浅ましんだろう、なんてわがままなんだろう、なんて愚かなんだろう。

 この期に及んで、美也子は欲張りだった。


 実際に由貴が言ってくれて、皮肉にも美也子は気がついた。いや、とっくに気がついてはいた。

 顔が上気するほど場違いに喜んでいる自分を見て、ようやく認める・・・ことができた。

 自分の愚かな気持ちを。

 

 ふいに、美也子の中で肩の荷が下りた。


 この上なく自分勝手でどうしようもない理由から生まれた荷だったけれど、これを下ろさないかぎり美也子はいつまで経っても前に進めなかった。


 未だに無意識下で張っていた見栄を、枷を、捨てることができた。

 

 美也子の前で、由貴がまだ長々と話していた。


「とにかく、あの件に関しては美也子ちゃんは謝ってくれたし、俺たちは許してる。噂は美也子ちゃんのせいじゃないから、気にしなくていい。演じてるキャラだってそうだよ。そのキャラを演じているときの美也子ちゃんはずっと辛そうだった。だから───」

「由貴先輩」


 一つ、声を上げた。

 ジェットコースターのように感情が揺れ動き、落ち着いて、やがて残った感情を表現する。

 

 憑き物が落ちたような顔で、想い人の名を口にした。


「ありがとう、ございます。まだ私を気遣っていただいて」


 急に深々と頭を下げた美也子に面食らったのか、由貴は一瞬たじろぐが、すぐに真剣な表情に戻り、

 

「当然だよ。美也子ちゃんも俺にとって大事な存在だから」

 

 さも当然に言ってのける由貴に美也子は苦笑し、もう一度頭を下げた。


「私、お姉ちゃんと向き合います」


 いままで、避けていたこと。

 由貴を避けることで、姉を避けることで、自分の気持ちと愚かさから逃げていた。

 

 だがもう、逃げたりしない。


 そう決意し、由貴に宣言した。


「えっ。ほ、本当に?」


 最近美也子が姉を避けているということを聞いていたのだろう、由貴は問いかける。

 決して疑っているわけじゃない。


 ただ、美也子からその言葉を聞けたのが嬉しくて、つい訊き返したのだ。

 きっと、由貴の最終目標は姉妹仲の改善だったのだろう。


「はい。今日、話してみます」

「そっか! うん! よかった!」


 由貴は弾けるような笑顔で喜んだ。


(本当に由貴先輩はお人好しだなぁ。もし私が嘘ついてたらどうするんだろう)


 美也子は意地の悪い想像をし、つい苦笑してしまう。

 これまでの自分なら、そうしていたかもしれない。

 

 でも、今は───。


 自分を認めることが、できたから───。


 いつの間にか再開した吹奏楽部の演奏に耳を傾け、美也子は空を仰いだ。


 曇り一つない、晴天だった。










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