第27話 戸田美也子⑥
噂は美也子の予想に反してどんどん悪い方向へと流れていった。
こんな信憑性の欠片もない、誰かが軽率に流した戯言が学校に浸透するはずがない。
そう高を括っていた美也子は、ひどく狼狽した。
一日、二日、三日と経ち、しまいには噂の内容があたかも真実のような雰囲気を纏いだすと、由貴の好感度はみるみるうちに急降下した。
さすがのひねくれた美也子でもこんな状況は望んでいなかったし、自分の軽はずみにしてしまった行動の重大さをようやく理解した。
ほんのすこし、ほんのすこしだけ火遊びして、軽く火傷して、怒られるだけだったのに。
キスして、そのことで二人がちょっと気まずくなっちゃえばいいって考えただけなのに。
初恋と嫉妬の狭間に長年囚われ続けた結果が、この有様。
美也子は後悔の念に押される形で、やっと正気に戻った。
美也子は噂をなんとかしようと奮闘した。
でも、それがいけなかった。
躍起になりすぎた。
動揺を拭いきれないまま行動に移してしまった美也子は、各教室を回って馬鹿正直に噂の真実を告げるという、あまりに直球な方法をとってしまった。
それは明らかに、悪手だった。
当然噂が静まることはなく、余計火に油を注いだ形となった。
由貴が批判される状況に、美也子も加わっただけ。
(あはは。私って、本当にバカだなぁ)
それからはしばらく、ただ起きて眠る日を数日過ごした。
美也子にできることは、蔓延した噂にこれ以上刺激を与えないということだけだったから。
そんな折、クラスメイトから押し付けられたゴミ袋を運んでいると、彼と三度目の邂逅を果たした。
一つ上の先輩、冴木伊織。
由貴や蒼介と仲が良いという、平凡な男子生徒。
「た、高杉彼方は『攻め』か『受け』、どっち派っ??」
「んぁ!?」
彼はペットボトルの分別作業が終わってから、唐突にBL関連の話題を持ちかけてきた。
美也子は訝しみつつも、続けて繰り出された『高杉彼方は攻め以外あり得ない』という一言につい反応してしまい、ノリノリで喋ってしまった。
思えば校内で趣味について話したのは、今日が初めてかもしれない。
美也子は興が乗ってきた口を動かしながら、ぼんやりとそう思った。
流れで一緒に帰宅することになり、その別れ際、伊織は言った。
「君はそっちのほうが、生き生きしてると思う」
美也子の心臓に、深く何かが突き刺さった。
伊織の言葉が的を得ていたとか、とんだ見当違いだとか、どちらでもない。
ただ、その言葉をかけてくれたことが嬉しかった。
たまらなく、嬉しかった。
───なのに。
(あぁ、もう。私って本当に───)
欲深い自分に失望するのはこれで何度目だろうか。
湧き上がった望みを頭の中でかき消して、逃げるようにその場から走り去った。
伊織はとっくにいなくなっていたから逃げる必要はなかったのに、無我夢中で走った。
家に帰り、自室のベッドに潜り込む。
目をつむり、やがて意識を沈めると、無駄に長かったくだらない回想からようやく覚醒した。
瞼の裏の次に見えた光景は、紛れもない現在であり、現実だった。
居眠りしていた美也子に呆れるような視線を送る教師、くすくすと意地の悪い笑みでこちらをちらちらと見やってくる生徒たち。
ここ最近の、慣れた光景。
事態は、なんら好転していない。
美也子は教師にいつものおどけた笑顔で謝罪し、教科書とノートを開いた。
***
その日の放課後。
伊織は食堂近くの自動販売機でりんごジュースを買っていた。
いつも持参している水筒を家に忘れてしまい、朝食時からずっと水分を摂れていなかった。
もう喉がからからだ。
急くように自販機の取り出し口へ手を突っ込む。
掴んだペットボトルのキャップを開けて一口飲むと、少しだけ酸味のきいた甘さがじんわりと舌に広がった。
伊織は近くのベンチに腰かけた。
心地のよい春風に身を任せ、空を仰ぐ。
───しばらくして。
「あっ」
声を漏らした伊織の視線の先には、戸田美也子の姿があった。帰宅する他の生徒らに紛れて、裏門へ続く道をのろのろと歩いている。
足取りは重く、顔を伏せ、陰鬱な雰囲気を纏った美也子。先週と比べてその暗さに拍車がかかっていた。
「───っ!」
伊織は反射的に美也子のもとへ駆け寄ろうとした。
けれど、動きはじめで静かに停止する。
動いた拍子で地面にジュースが少量溢れた。
溢れた跡を見つめ、伊織は深くため息をつく。
(何をしようとしてるんだ俺は)
まず、どう呼べばいいかわからない。
「ちょっと待って!」だと誰を指しているのか伝わらないだろうし、「美也子!」と名前で呼べる度胸もないし、「君!」はやっぱり偉そうだし⋯⋯。
名前すらまとめに呼べない彼女を、引き止め慰めるなんて、自己満足の塊じゃないか。
やっぱり、声をかけるのはやめておこう。
伊織がジュースのキャップを閉めて、ここから反対側の正門へ足を向けたそのとき、
「美也子ちゃん!」
声がした。
優しくて透き通った、聞き取りやすい声が。
伊織が言えなかった名前を、軽々と口にして。
誰なのかは、首を曲げて確かめるまでもない。
伊織は口元をほころばせ、そのまま正門へと歩いていった。
声の主に、すべてを任せて。
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