第26話 戸田美也子⑤


「こちらは私の彼氏、大山由貴くん」


 上機嫌な姉に紹介された男子生徒は、美也子がよく知っていた人物、大山由貴だった。


 以前と比べて髪色が黒から金色に変わっていたり、耳にピアスを装着していたり、多少の変化は見受けられたものの、間違いなく大山由貴その人だった。


 中学三年生から高校一年生に進学するまでの一年間、美也子が由貴の姿を見る機会は極端に減った。

 一足先に由貴が高校生になったのだから当然である。そうなれば、学校で見かけようがない。


 美也子はずっと、由貴のことを忘れようと努めていた。


 彼女自身たった一度助けてもらっただけで、あそこまでの執着を見せるのは気持ちの悪い行為だと自覚していた。


 由貴が中学を卒業して物理的な距離が空くと、ちょうどいいきっかけだと思った。

 これを機に自分の中にある由貴への想いを綺麗さっぱり消し去ろうと決めた。


 しかし、悪戯好きの神はそれを許さなかった。


 美也子は一年ぶりに由貴と再会した。

 再開した由貴は、姉のものになっていた。


 神は今頃さぞかし下卑た笑みで、美也子を見下ろしていることだろう。


「お姉ちゃんに彼氏がいたなんてびっくりだよ〜。でも、すっごくお似合いだと思う。美男美女カップルのお手本って感じっ!」


 本気と冗談が半々に混じったお世辞を並べてやると、姉はたいそう喜んだ。「ありがとう」なんて、馬鹿みたいに何度も言っていた。

 姉の隣に立っていた由貴も、恥ずかしそうに微笑んでいた。彼は美也子を見ても「はじめまして」と挨拶するだけで、特に何も反応は示さなかった。

 

(まぁ、覚えてるわけないか)


 心にぽっかりと空いてしまった穴を、美也子は自己嫌悪と嫉妬で埋めていた。



 その後姉から詳しく聞いた話によると、なんでも由貴は中学生の頃から姉に想いを寄せていて、彼女を追いかける形で同じ高校に進学したらしい。


 そして進学から一年間に及ぶ猛アプローチの末、姉を射止めたという。


 恋愛に疎い姉を恋人にするのは相当骨が折れただろうな、と美也子はどこか達観した気持ちだった。


(別にもう終わったことだし、切り替えていこう)


 そう決意を新たにした美也子だったが、結論から言えば無理だった。


 一度捨てた気持ちが再燃するまでに、そう時間はかからなかった。


 その一番の理由として挙げられるのは、由貴は美也子にも優しく接してくれたことだった。たまに登下校中ばったり会うたびに、由貴は自分から美也子に駆け寄った。「美也子ちゃーん!」と、まるで子犬のように尻尾を振ってくる。


 由貴にとっては、ただ普通に彼女の妹と会話している感覚だったのかもしれない。

 けれど、美也子にはクリティカルヒットしてしまった。閉ざそうとガードしていた心が、いとも簡単に突き破られてしまったのだ。


(由貴先輩のばかっ! 由貴先輩のばかっ! なんで私に話しかけてくれるの? 嬉しくなっちゃって忘れられないよ! あー、もうっ!)


 美也子は動揺し、自室のベッドで枕に真っ赤な顔を埋め、後ろ足をバタバタさせる。

 この程度で済めば可愛いものだったが、不本意ながら日に日に気持ちが強まっていってしまった。


 美也子にとって感情を整理するということは、どんなことよりも困難を極めた。


 ⋯⋯やがて。

 姉・戸田鈴零に彼氏ができた約一ヶ月後。


 あの事件が起こった。




***




 その日、姉は彼氏を家に招いていた。

 美也子の記憶が正しければ、多分初めてのことだったと思う。

 

 由貴は姉の家に腰掛け、彼女が淹れてくれた紅茶を飲みつつささやかな雑談を楽しんでいた。

 美也子がドアの向こうから盗み聞きした限りでは、そういった・・・・・雰囲気に発展する気配はなかった。


 由貴と鈴零は高校生にしては珍しく、だいぶスローペースで、清い交際が続いていた。

 ふたりともお互いが初の恋人だったようだ。


 美也子はそんな初心な二人を見て、魔が差した。


 彼女にとっては、軽い火遊び感覚だった。


 もちろん心の奥底では、強い恋心と嫉妬が大きく起因していた。これまでの恨み嫉みが募った八つ当たりが一切なかったといえば、否定することはできない。


 小さな悪戯心が、結果として美也子の膨大な思いの丈を洗いざらい全部吐き出す形となったのだ。


 姉がお手洗いへ行った隙に、美也子は由貴がいる姉の部屋に忍び込んだ。


「ん、美也子ちゃん? どうしたのー?」


 呑気な顔で美也子に問いかける由貴にむかって、全力で突進した。

 胸ぐらを掴み、そのまま唇を重ね合わせる。


 ファーストキスは、何の味もしなかった。


「⋯⋯?」


 キスされた由貴は混乱して、一瞬反応が遅れた。


「───ん!?」


 三秒ほどでようやく思考が正常に戻った由貴は、反射的に美也子を突き飛ばした。尻を床につけたまま、後ろ手を這うようにして大きく後ずさる。


「み、美也子ちゃん!?」


 由貴は袖を口元にあてがい、驚嘆の声を美也子に投げかける。


 顔を桃色に染めた由貴は、なんとも愛らしかった。

 なぜか姉に勝った気にさえなった。

 ねじれた美也子の愛情はどこまでも、歪で空虚なままだった。


 最低な優越感に浸りながら、美也子は黙って部屋をあとにした。


 後々この行為が取り返しのつかない事態になるなんて、このときの馬鹿で楽観的な美也子は露ほども思わなかった。


 まず美也子にとって第一の誤算は、由貴が正直にキスの件を姉に報告したことだった。

 優しい由貴は優柔不断を発動し、黙っていると思っていた。


「あのね、美也子⋯⋯ちょっと訊きたいことがあるんだ」


 だから、姉から言いづらしそうにキスの件を尋ねられたときは、心臓が飛び跳ねた。

 言い訳しようか迷ったけれど、すぐに自白することに決めた。


 実は由貴のことが好きになってしまい、気持ちを抑えられなくなってしまった、と。

 本気半分、嘘半分の理由だった。


 正直に話し土下座まですると、姉は許してくれた。

 けれど、許すときに見せた笑みが微妙に引きつっていたのを美也子は見逃さなかった。


(お姉ちゃんのこんな顔、初めて見た)


 ぼんやりとした思考で呑気な感想を呟きながら、美也子は姉の貴重な表情を目に焼き付けていた。


 それから、この過程で冴木伊織という由貴の友人を知った。

 きっかけは学校でたまたま由貴が伊織に相談している姿を目撃したことだった。


 由貴や姉に謝罪したあと、今思えばあれは伊織にキスの件を相談していたのではないかと勘ぐった美也子は、興味本位で接触した。

 あの由貴が絶対的な信頼を寄せる友人がどういう人物なのか、気になったのだ。


 しかし、冴木伊織の第一印象ははっきり言ってこれといった特徴のない地味な少年だった。


 手入れのされていないぼさぼさの黒髪、少し長めの前髪から覗く眠そうな瞳、覇気のない顔。

 外見やスペックは並、もしくはそれ以下。

 

 とても、学内で人気のある由貴の友人とは思えなかった。

 

 でも少し、親近感を覚えた。


 誰も使っていない自習室に呼び出し、軽く会話を交わした。伊織は終始おろおろとした様子で頼りなさげだった。


 ますます自分に似ているな、と乾いた笑いを心の中で溢しながら、用が済んだ美也子は「もう、大体わかりましたから」という言葉を残して帰ろうとした───その去り際。


 美也子の背中へかけられた言葉が、彼女の心を揺らした。


───由貴は俺に相談しなくても、ちゃんとどうするか決めてたよ。それに由貴は⋯⋯あなたのことも考えてたから、彼女に報告することを躊躇ってたんだと⋯⋯思う


 伊織の言葉は、美也子には衝撃だった。

 由貴が自分のことまで考えていたなんて、そんなわけがないと思ったけれど、なんとなく腑に落ちてしまった。


 咄嗟に、「知ってますよ」なんて嘘をついた。

 自分はこれっぽっちも、由貴の気持ちなんてわかっていなかったのに。


 やっぱり、由貴の友人なんだなと思った。


 後日、伊織がサッカー部エースの朝宮蒼介とも親友であることを知った美也子は、とある質問が心の底から湧き上がった。


(身近に凄い人たちがたくさんいるのに、辛くないの?)


 伊織と書店で鉢合わせしたとき、思いきって尋ねてみた。


「疲れませんか? 周りに凄い人たちがいるのって」


 彼の反応はただ唐突な質問に驚いただけのように見えたし、図星を指されたようにも見えた。


「⋯⋯お姉さんと、仲直りできてないの?」


 結局はぐらかされ、伊織から具体的な返答は得られなかった。


 その翌週、学校でとある噂が流れた。


 内容は由貴と鈴零の仲が最近ぎくしゃくしていて、原因は由貴が鈴零の妹に手を出したからだ、というもの。


 これが美也子にとっての、第二の誤算だった。





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