第25話 戸田美也子④


(どうしよう⋯⋯どうしよう⋯⋯)


 美也子は焦っていた。


 校内をくまなく歩き回り、不安と焦燥がますます募ってくる。すでにどのクラスも授業が開始しており、廊下は静寂に包まれていた。

 通り過ぎる教室から教師や生徒たちの声が漏れ聞こえる。

 

 ことの発端は数分前。


 美也子は三限目の数学の授業を居眠りしていた。

 元々勉強は得意でも好きでもなかったので、毎回とは言わないまでも時折机に顔を伏せて過ごしていた。

 もっとも、この頃は投げやりな感情も混じっていたと、美也子は思う。


 そして目が覚めた時、美也子は教室で一人取り残されていた。今日は理科の授業があったはずなのだが、どうやら進級から初の移動教室だったらしい。

 

 美也子はその移動場所を知らなかった。

 どこかで教師の話を聞きそびれていたのか、途中で予定が変わったのか。


 いずれにせよ、美也子には移動場所を知る方法がなかった。

 黒板には何も書かれていなかったし、教えてくれるような友達もいなかった。


 職員室に訪ねれば場所がわかるかもしれないと考えたが、大勢の職員たちの好奇な視線を浴びながら情けないことを訊こうとはとても思えなかった。

 そんな羞恥に耐えられるメンタルは、これっぽっちもなかったのだ。不安よりも、惨めな心持ちになるのが嫌だった。


 美也子は、ただ一人だった。

 自然と目尻に涙が浮かびあがる。


(もう⋯⋯いいや)


 自棄になった美也子は、トイレに籠もってやり過ごそうと二階の女子トイレの入口までやってきた、ちょうどそのとき。

 女子トイレの隣───美也子から見て手前の男子トイレから、背の高い男子生徒が現れた。


「ふぃ〜すっきりすっきり───ってわっ!」


 ハンカチで両手を拭いていた男子生徒が肩を跳ねて大袈裟に驚くと、美也子もつられて肩をびくっと震わせ、身を屈んだ。


 しばらくの沈黙の後、美也子はおそるおそる目の前の男子生徒を見上げた。

 人の良さそうな穏やかな顔をしたおそらく上級生の男子生徒は、形のよい両眉を吊り上げていた。

 きょとんした様子で、美也子をしげしげと眺めている。


 邪魔をしてしまったと思った美也子は、あわてて頭を下げて、謝罪した。


「す、すみません⋯⋯」

「えっ。あ、いや⋯⋯別に謝る必要はないよ? 俺が無駄に驚いちゃっただけだから⋯⋯こちらこそ、なんかごめんね。怖がらせちゃって」


 優しく微笑む男子生徒を見て、美也子の中で何かがぷつりと切れた。本当に唐突に、心の内に蓄積された感情が溢れ出る。

 堰を切ったように、ぽたぽたと涙を溢れ出してしまった。

 安心したのか、嬉しかったのか、自分でもよくわからなかった。


「ど、どうしたの? 俺なんか気に障るようなこと言っちゃった⋯⋯!?」


 男子生徒はおろおろと身振り手振りで慌てふためき、心配の滲んだ口調で美也子の顔を覗き込むように声をかけた。


「いえ⋯⋯ちょっと、さっきまで不安でいっぱいだったので⋯⋯」


 美也子は嗚咽の交えた声で、拙いながらもなんとか言葉を返した。

 きっと、相手にとっては意味不明な応えだったと思う。


「な、なんか⋯⋯あったの?」

「⋯⋯⋯⋯」

「いや、授業中にこんなところをほっつき歩いてたからさ、変だなーと思って」

「⋯⋯⋯⋯」

「ま、まぁ俺も人のこと言えないんだけどね。俺はトイレ我慢できなくて授業中抜け出してきたんだけど⋯⋯いやー最近トイレが近くてさ。もう年なのかな〜。あはは⋯⋯」


 何も言わない美也子を気遣ってか、自分のことをべらべらとまくしたてる男子生徒。

 その間も美也子は涙を引っ込めようと努めていた。


「あ、あの⋯⋯実は───」


 ようやくまともに話せるようになった美也子は、男子生徒に事情を包み隠さず説明した。

 なぜ初対面の男子に話して頼る気になったのか、美也子は説明しながら思考の隅でぼんやりと考えた。

 

(なんだろう⋯⋯この人からは温かい包容力を感じる⋯⋯)


 話し終えると、男子生徒は首を傾げて考え込んだ。


「う〜ん。二年の理科でしょ? 俺も受けてたから移動教室は経験あるんだけど⋯⋯どこだったかなぁ」

「あの、いえ⋯⋯。そこまでは流石に⋯⋯先輩も授業あると思いますし、私は聞いてもらえただけで⋯⋯」

「いやいやいや! ここまできたら協力するよ。乗りかかった船だから!」

「でも⋯⋯」


 なおも申し訳なさそうな美也子の態度を見た男子生徒は、少しおどけたように言った。


「俺のことは気にしないで大丈夫! それに、君に協力した分授業サボれるから、むしろこっちから協力させてほしい! なんちゃって」

「⋯⋯先、輩」


 この時、美也子の心にぱっと光が差した。

 薄暗い心の霧をかき分けて、照らしてほしいところを的確に灯して明るくしてくれるような、そんな心地。


 この感覚を、美也子は知っている。


 太陽のように朗らかな性格に、まっすぐ包み込むような優しさ。


 姉に似ている・・・・。そう直感した。


「じゃ、じゃあ⋯⋯お言葉に甘えて⋯⋯よろしくお願いします」


 気づけば、美也子はそう言っていた。


 移動教室の場所を突き止めるための、小さな小さな冒険が始まった。

 

 探し歩く途中、男子生徒が美也子のペンケースにつけられたキーホルダーに目を留め、指をさした。


「あれ、これ『青駆け』のやつ?」

「あ、そ、そうですっ」


 美也子はキーホルダーを一瞥し、深く頷いた。

 男子生徒が言った物は、『青球に駆ける』という大人気サッカー漫画で登場する家紋がキーホルダー化したものだった。

 高杉彼方の家柄を表す紋章で、かなりマニアックなファンでないとまずわからない。


 外では自分の素を隠そうと努めている美也子ではあるが、家紋のキーホルダーでオタクバレすることはないだろうと判断してペンケースに付けていた。

 

 まさか男子生徒に触れられるとは思わず、美也子はテンションが上がった。

 聞かれてもないのに饒舌に説明し始める。


「これは高杉彼方くんのお家の家紋なんですけどっ、デザインがとってもおどろおどろしいんですよね! 高杉くんがいかに家柄に縛られているのか、いかに高杉家のプレッシャーが膨大なのかが凄く伝わってくるんです! まさに“呪い”という感じで、それで───」


 美也子はそこで「あっ」と声を漏らし、口を噤んだ。恥ずかしさで顔を伏せる。


「す、すみません⋯⋯急に喋りだして⋯⋯それもこんな時に⋯⋯」

「いいよいいよ。続けて」


 ニッコリと微笑み、男子生徒は言った。

 本当に話の続きを聞きたがっているような声色だった。


「は、はい⋯⋯」


 美也子はこの時、何もかも救われるような気持ちになった。

 凝り固まった歪みがまっすぐ矯正されて、今だけは素直になれる気がした。


(こんな気持ち⋯⋯初めて⋯⋯)


 結局十分ほど探し歩いても見つからなかったので、男子生徒の提案で職員室へ行った。


 男子生徒のサポートを受けながらたどたどしく事情を説明すると、教員たちが親身になって協力してくれた。

 判明した移動場所は一階の一番奥にある辺鄙な教室で、それも非常にわかりづらい位置だったから、どうりで見つからないはずだ、と美也子は思った。


 結局教員一人に加えて男子生徒まで目的の教室までついてきてくれて、恥ずかしさは増した。


 けれど、惨めな気持ちには一切ならなかった。

 むしろたまらなく、嬉しかった。


 男子生徒が去ろうとした際、美也子は意を決して名前を尋ねた。緊張を含んだ、必死の声音で。


 男子生徒は黒髪のショートヘアを揺らしながら、


「大山由貴、だよ」


 と快活に答えた。


 このときから美也子の脳裏には、大山由貴の笑顔が焼き付いて離れなかった。

 大きな尊敬の念を抱くと共に、やはり彼女は嫌悪の情も抱いた。

 

 姉のように裏表のない善人が、大好きで、大嫌いだった。


 美也子はあれから校内で由貴を見かけるたび、無意識に目で追うようになった。

 

 ある時は恋する乙女のような輝いた瞳で、ある時は嫉妬心を含んだ鋭い瞳で、またある時は───心底羨ましそうな、憂いを帯びた瞳で。由貴を見続けた。


 一度たりとも話しかけることはせず、ただ黙って、こっそりと影から。 


 だから数年後に姉の彼氏と紹介されたとき、ひどく驚いた。


 回らなくていい運命の歯車が、誤作動した瞬間だった。




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