第24話 戸田美也子③
甲高い目覚まし時計の音で、戸田美也子は目を覚ました。うつ伏せで寝ていた彼女は腕を伸ばして枕元から鳴り響くうるさい音を止めた。怠い体をゆるりと起こし、ベッドから足を下ろす。一つ欠伸をして、おもむろに立ち上がった。
窓際に寄り、カーテンを少し開けると、美也子の双眸に眩い陽光が差した。
思わず目を瞑り、顔を伏せる。
彼女は、太陽が苦手だ。地球を大きく照らす、熱に満ちた恒星───光の主張が強くて、否が応でも意識させられる。どれだけ無視しようとしても敵わない、一生をもって付き合っていかなくてはならない存在。日陰で細々と暮らしたい美也子にとって、それは邪魔なものでしかなかった。
だから、苦手。けれど、嫌いにはなれない。太陽は自分が生きていくのに必要不可欠だから。
それに、美也子は太陽の光が好きだった。
目を開き、顔を上げる。もう一度窓の外に視線を向けると同時に、太陽は雲に隠れて見えなくなった。
一瞬にして電気をつけていない美也子の部屋が仄暗くなる。
(あぁ、落ち着く⋯⋯)
安堵にも似た感情を抱きつつ、美也子は二階の自室を出た。階下の洗面所に向かい、鏡の前に立つ。
鏡には姉譲りの綺麗に整った顔が映っていた。表情には覇気がなく、なんだかやつれていたが、間違いなく素晴らしい容姿をしていた。
彼女は、自分の顔も苦手だった。容姿が優れていればいるほど、自分に対しての期待が膨れ上がっているような気がして、嫌気がさした。
私は姉とは違うのに、と劣等感を抑えきれず、たまらず鏡から目を逸らす。逸らした先に、今しがた起きてきたのだろう───姉の鈴零が白いパジャマ姿で立っていた。眠気でしょぼしょぼした目を擦りながらやって来たためなのか、鈴零は目が合ってようやく、妹の存在に気がついた。
「あ、あぁ⋯⋯美也子、おはよう」
鈴零は挨拶すると、笑みを作った。が、ややぎこちない。姉と妹の間では由貴を中心として明確な確執ができている。姉の鈴零にしても、そう安々と気持ちを整理して水に流すことはできない。ゆえに、顔が引きつる。美也子はそれをよく理解していた。
「おはよう、お姉ちゃん」
すっかりと身についた偽の笑顔で返し、罪悪感から逃げるように俯いた。一秒でも早くここから離れたくて、まだ顔も洗っていないのにそそくさと姉の横を通り過ぎようとする。
「ちょっと待って!」
姉の鈴零はそんな俊敏な動きに一瞬たじろぎつつも、すれ違いかけた妹の手首を掴み、呼び止める。
「⋯⋯なに?」
穏やかな顔をキープしたまま、美也子は振り向く。
口調も努めて平静を装った。
鈴零は一度美也子から目を逸らすと、再び焦点を美也子の瞳に合わせ、あくまで何気ない風を装って言った。
「あ、あのね⋯⋯この前新しく駅前にパンケーキ屋さんができたらしいんだ。すっごく評判で美味しいって噂だから、次の週末にでも一緒に行かないか?」
「⋯⋯⋯⋯」
「ほ、ほら私たち最近お出かけしてないだろう? 久しぶりにどうかな〜って⋯⋯美也子、パンケーキ好きだし⋯⋯」
急に誘ったことを自分でも変だと考えたのかもしれない。黙ったままの美也子に対して、鈴零があわてて補足するようにつけ足す。
(⋯⋯お姉ちゃんは優しいな)
美也子は心中でそう呟くと、ほんの少し眉尻を下げ、ようやく口を開いた。
「ごめんお姉ちゃん⋯⋯週末はどうしても外せない用事があるの。また今度でいい?」
「⋯⋯そう。わかった」
妹の断りをどう捉えたのか、鈴零はぎこちない笑みで首を縦に振った。美也子の手首を掴んでいた力を緩める。
「また、そのうち二人で行こう」
「うん。今回は他に仲良い人と行ってきて」
彼氏とか、と意地の悪い言葉が頭に浮かんだ自分をまた自嘲しながら、美也子は二階の自室へ戻った。
制服に着替えて、登校の準備をする。
正直学校に行くのは億劫だったけれど、家族を心配させたくない気持ちが美也子に欠席の選択肢を与えなかった。
(こうなったのも全部、私の心が醜いせいなんだから)
だから、逃げるのは許されない。
自分がしてしまったことへの罰を受けなければ。
美也子は固く決心すると、階段を降りて玄関のドアに手をかけた。
外では太陽が朝を告げていた。
今は雲に隠れていない。
美也子にはそれがとても気持ちよくて、同時に鬱陶しくも感じられた。
***
「でたっ。性悪女っ」
教室に入った直後、一旦静まり返った空間の中で心ない言葉がかけられた。聞こえるか聞こえないかぐらいの声量で、誰が発したかは美也子にはわからない。
ただ、自分に対して呟かれたのだということは、他でもない彼女が一番よくわかった。
男子の声だった気がする。しかし、美也子にはもうどうでもいいことだった。犯人探しをする気など毛頭ない。
これも罰の一部だと思って我慢する。
脇目も振らずに自分の机に着席した。
何も反応を示さない美也子を見た生徒たちは、何事もなかったように各々会話を再開した。
美也子は、その会話一つ一つを神経質に意識してしまった。
何もかも自分に対して向けられた言葉のように感じたからだ。
無駄に高い自意識と、罪への意識が歪んで混同した結果、美也子には必要以上のストレスがかかっていた。
道ですれ違う人の視線すら、今では怖くて仕方がない。
───みんなきっと、私を嫌っている
そう思った。
いや、そう思ったほうが楽だと思った。
嫌っているのは今くすくす笑っている人たちだけじゃない。
美也子の隣の席に座って眠っている男の子も内心ほくそ笑んでいるだろうし、左前方で漫画を読んでいるショートカットの女の子も、興味なさそうなふりして実は心の中でせせら笑っているに違いない。
暴走する被害妄想が、美也子の頭の中でぐるぐると旋回した。
途端に、息が詰まった。
とめどなく溢れてくる負の波を自分が作り出して自分を苦しめたからだ。
美也子は荒れ始めた呼吸を整えるために、早速寝たふりをかました。
友達がいない人間の常套手段だが、こういう状況でも使える便利な技だった。
目も耳も何もかも塞ぎ、耐え忍ぶ。
何から耐えているのかもわからなかったけれど、とにかく耐える。
ふと、自分の過去が唐突に蘇ってきた。
無意識に封じ込めていた記憶の断片が、思い起こされていく。
理由はわからなかった。
こうなった原因を追想して探し出そうとしているのか、もしくは
どちらにせよ現在から逃避するにはうってつけだったから、美也子はその夢なのか走馬灯なのかもわからない過去に黙って身を預け、眠りと共に回想に耽った───。
***
美也子はお姉ちゃんをとてもよく慕っていた。
小さな頃から文武両道をその身に掲げ、周りの期待以上の結果を残し続けてきたお姉ちゃん。
ずっと近くで活躍を見てきた美也子にとっては、頼りがいのある、かっこよくて憧れで自慢のお姉ちゃんだった。
少なくとも小学四年生あたりまでは、そう思っていた。
何かが変わってしまったのであれば、それはきっと、あの質問をされた日だ。
「美也子ちゃんには、何ができるの?」
小学五年生の時、どこかで誰かに言われたセリフだった。教師だったか、親戚だったか、とにかく美也子の耳にはそのセリフがずっとこびりついている。
当時の美也子は質問の意図をはかりかねたが、やがて理解するようになった。
優秀な姉と
あれには、そんな意味が含まれていたのだろう。
中学生になると、姉と比較される経験が増えた。
勉強やスポーツはもちろん、性格や社交性、外から中までうんざりするほど隅々まで比べられた。
美也子には、何もなかった。
勉強は集中力をどうしても維持できず、スポーツはセンスが圧倒的に欠けていて、中身は自己が薄くて面白みがなく、とても卑屈。
何もかも姉に惨敗だった。
唯一容姿だけは姉にも引けを取らないほどの美少女に育ったが、美也子にはそれがかえって息苦しく感じられた。
こんな顔剥がれて醜く歪んでしまえばいいと思った。
自分には不釣り合いな顔のせいで、謂れもない中傷も受けた。
当時美也子は複数の男子からアプローチを受けていて、彼女は告白される度にやんわりと断っていた。
そんな煮え切らない態度が気に障ったのだろう。
事あるごとにわざと聞こえるような声量で、陰口を叩かれた。
「美也子ちゃんって、調子乗ってるよね」
「うんうん。顔が良いからって、ほんとうざい」
(⋯⋯違う)
「お姉さんのほうは努力してるし、凄すぎるから許せるけどさ、妹は恵まれた武器に甘えてるだけだからちょーむかつく」
(⋯⋯違う)
「でも、ちょっと羨ましいなぁ。あんな顔で生まれて人生イージーモードじゃん」
(違う!)
理解すればするほど、思い知らされる。
自分は称賛もされないし、同情もしてくれないのだと。
今も昔も、この光景は変わっていない。
散々周りから姉と比べるためだけの道具のように酷使され、美也子は歪んでいった。
姉への尊敬や羨望といった前向きな感情のほかに、醜い感情も生まれるようになった。
“嫉妬”という、あまりにありきたりでつまらない感情を。
そして美也子は、醜い感情の消化方法が極めて下手くそだった。
美也子は嫉妬を覚えて以降、自分を卑下するようにもなった。
姉に対し理不尽な怒りが湧きたつ一方で、そんな浅ましい感情を持ってしまう自分を大いに恥じた。
───私がこんな気持ちになるのは姉のせいだ。
───私がこんな気持ちになるのは私のせいだ。
年が一つ刻まれるごとに、情緒が糸のように複雑な絡まりを形成していった。
そんな彼女がたどり着いた逃避方法は、あらゆることを
苦しみも悲しみもコンプレックスも、全部笑い飛ばせばいい。風のように躱して、真面目に受け止めなければいい。半端な態度で誤魔化して、殻を作って閉じ籠もって、弱さを蔑ろにすればいい。
「ははは〜私って全然だめなんですよ〜」
「お姉ちゃんなんかもう、なんだか別次元の人って感じで」
「すごすぎて嫉妬する気も起きないっていうか」
口に出せば出すほど惨めになるけれど、心の平穏は一時的に保たれる。
美也子は周りの人間に自嘲を吐きまくった。
自己を決して表には出さず、取り繕った笑顔で輪に入ろうとした。
すると、気持ちが楽になった。
たとえ紛い物だったとしても、楽になったことは美也子にとって、とても重要なことだった。
ずっとこのまま、こうしていよう。
無為でも無意味でもなんでもいいしどうだっていい。とにかく、楽になりたい。
そう、心に決めた。
それから色々と過程を経て、現在の美也子のあの余裕綽々といった態度が完成した。
小悪魔的でどこか人を小馬鹿にしたような、常に笑みを絶やさない第二の戸田美也子。
結果的に反感を買って周りから孤立する状況は何一つ変わらなかったけれど、それでも壊れずに済んだ。
それだけで、十分だった。
本当の自分の姿になるのは、一人でいるときだけ。
大好きなBL漫画やゲームに囲まれながら、羽を伸ばしてゆっくりと休み、外では軽薄な上っ面を掲げてやり過ごす。
美也子の生き方は、本人としては完璧だった。
しかし、そんな美也子の完璧だったはずの殻が中学時代───たった一度、たった一度だけ、壊れかけたことがある。
それは、とある出会いだった。
中学二年生に進級した直後に、美也子は彼に遭遇した。
大山由貴という、優しい少年に。
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