第9話 友人キャラの苦悩
ため息をつこうとしたタイミングで、制服の袖が引っ張られる感覚があった。弟の春だ。
春は鼻をつまんで、ジト目で睨んでくる。
「どうした、春?」
伊織が携帯を耳から一旦離してそう返すと、春は人差し指でつんつんと、フライパンの方向を指した。
「兄ちゃん、焦げてる」
「あっ」
慌てて火を消してフライパンに視線を送り、パンケーキの裏面を恐る恐るフライ返しで覗く──見事丸焦げだった。
まるでブラックホールのように、黒一色に塗りつぶされている。
いつの間にか焦げ付いた匂いが部屋に充満していて、冬が窓を開けて換気を始めていた。
「やっちゃった⋯⋯」
葵との通話に夢中で気が付かなかった。
匂いにすら感知できなかったのは流石にポンコツが過ぎる。
何年パンケーキ焼いてきたんだと、伊織は猛省する。こんな初歩的なミスをするなんて情けない。
「ごめん春⋯⋯もう一度焼き直すから」
「いいっ! 今日はそれ食べるっ」
勢いよく首を横に振って拒否する春。
伊織からフライ返しを強引に奪って、片面ブラックホールケーキをお皿に移した。
無理して食べなくて良いと言っても、聞く耳を持たず、両手でお皿を持ってさっさとリビングに走って行ってしまった。
数秒後、リビングから震えた声で「うまいうまい!」とわざとらしい台詞が聞こえてくる。
嘘なのは目に見えているのだが、春なりの不器用な優しさを受けて、伊織は穏やかな気持ちになる。
良い弟を持ったもんだと、誇らしげにもなる。
「ありがとな⋯⋯春」
春の耳には入らない声量で、小さく呟く。
フライパンを洗おうとしたところで、左手に持つ携帯に気づく。伊織は通話中だった。
「あっ! 電話っ」
急いで携帯を耳に当てて声を掛けるが、既に切られたあとだった。
葵からメッセージが届いていたので、確認する。
『何やら忙しいみたいなので、また後日相談することにします』
(ごめん、君嶋⋯⋯!)
その日の夜、伊織はなかなか寝付けなかった。
床に敷いた布団が固くて寝心地が悪いからではない。
それはいつものことで、慣れれば気にならない。
伊織は迷っていたのだ。
影光に無自覚な好意を寄せる真雪に、それは“恋だ”と教えるか否か。
当然、伊織が現時点で協力しているのは君嶋葵。
その行動が、敵に塩を送ることだと百も承知である。
それでも、伊織にとって真雪は大事な友達の一人だ。 このまま影光と葵が付き合えば、真雪は好意を自覚し、きっと悲しみに暮れるだろう。
そんな真雪の姿は、あまり見たくないと思うのが友達としての正直な気持ちだ。
今伊織は、真雪と葵の気持ちに板挟みにあっている。
どういう立場でいればいいんだろう?
既に相談を受けている葵を優先?
それとも友情優先で真雪?
もしくは傍観者になって中立の立場に徹する?
きっと正解はないのだろうけど、義理を通すなら、相談を受けている葵をフォローして、まだ好意すら自覚していない真雪は一旦スルー。
真雪もあれで超鈍感なわけではない。
そのうち自分の気持ちにも気づくはずだ。
真雪が好意を自覚した時、どんな行動をするかまだ定かではないが、まずはそこからだろう。
その時が来るまでは、とりあえずは葵だけを応援しよう──伊織はそう決意した。
よくドラマや漫画で、恋は早いもの勝ちだという台詞がある。
必ずしも先に好きになったヒロインが勝利するとは限らないが、有利なのは確かだ。
付き合いが長いのは圧倒的に真雪、けれど先に好意を抱いたのは葵。うん、いい塩梅じゃないか。
ヒロインレースとしてバランスが取れている。
互いに負けヒロインのフラグが出ているしな。
結局は影光の気持ち次第なのだから、余計なことはするもんじゃないだろう。
伊織は長考の末、現状維持を選択した。
(それにしても美少女二人も落とすなんて、影光も罪な男だ⋯⋯)
布団に入り、薄れゆく意識の中で、伊織はそんなことを考える。
いつの間にか美少女と仲良くなって、モテモテになっている影光。末恐ろしいやつだ。
伊織は影光がいなければ、真雪と葵に関わることすらなかっただろう。
人間関係とはいつまでも延長線上で続いていく。
だから伊織は、人間関係が大の苦手だ。
ただしそれが美少女であれば、男子高校生の心情としては得でしかない。
(影光に感謝するか⋯⋯あいつのおかげで俺みたいな人間が美少女二人と知り合いになれたんだからな⋯⋯)
友人キャラも悪くないな、と思う伊織。
(影光と君嶋と真雪の行く末を、見届けよう⋯⋯)
それを最後に、伊織は深い眠りについた。
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