第7話 ホットケーキの日
影光、真雪と別れたあと、伊織はやや急ぎ足で我が家へ帰った。
伊織の通う宮地高校から徒歩で三十分程度の距離。
住宅街に異質に建つ、ボロいアパートの二階───その一室、205号室が彼の住居である。
周辺が新築ばかりなので、伊織のアパートは悪い意味でよく目立つ。明らかに浮き気味だ。
ここらは別に高級住宅街ではないが、時代の移り変わりもあって、伊織のアパートだけ完全に取り残されているのがひしひしと伺える。
数十年前の古めかしい一軒家の並びに建って、完璧にそれらと同化していた時代とは大違い。
どこもかしこも建て替えやリフォームが相次ぎ、何も手を付けていないのはこのアパートだけだ。
皆がスマホに移行するなかで、唯一頑固にガラケーを使い続けている。そんな感覚。
だけど、今更そんな落差は気にしていない。
冴木家にとって、このボロアパートの低家賃は、少ない家計を浮かせるにはうってつけの場所だからだ。
伊織、父、双子の弟の四人暮らしで、三年前の父のリストラをきっかけにここに引っ越してから、この破格なお値段のボロアパートにお世話になっている。
伊織は鉄骨階段を上り、二階へあがった。
あがったすぐ目の前に205号室が位置しているので、伊織は数歩だけ進み、家の鍵を開ける。
「ただいまー」
ドアを開いた途端、小さな体に勢いよく抱きつかれた。
「おかえりぃーー! 兄ちゃん兄ちゃん!」
元気よく玄関で伊織を出迎えたのは
今年小学生になったばかりのピカピカの一年生。
子供らしく活発な性格で、何かと手がかかるけどその分可愛く見えるのは世の常である。
春はまだまだ新品状態に近い制服を着て、古い床をミシミシと軋ませてはしゃいでいた。
何かを強く、待ち望んでいる様子だ。
春は帰宅してまもない伊織の手を半ば強引に引っ張って、キッチンに引きずりこもうとする。
「兄ちゃん! 早くホットケーキ! ホットケーキ作って!」
「まてまて、引っ張るなって」
「早く早く!」
そう言いながら、春の引っ張る力が、更に強くなる。 伊織は慌てて靴を乱暴に脱ぎ捨て、春の引っ張る方向に身を預けた。
ホットケーキは春の一番の大好物。
一年前に伊織がその日偶々気分で作ったホットケーキに、春はすっかり虜となってしまった。
依存症かと心配してしまうほど、春はホットケーキ狂いに成り果てている。
(はぁ、まいったな⋯⋯)
伊織は少し困った顔を出しながら、頬を人差し指でポリポリと掻いた。多少の懸念があったからだ。
(こんな時間に作るのはなぁ⋯⋯うーん⋯⋯)
もうすっかり日は沈み、時刻は午後五時半。
早乙女のせいで家に帰ってくるのが大幅に遅れてしまった。
今ホットケーキを振る舞ったら、晩御飯の時間に確実に影響を与えてしまう。 それが小学生の胃ともなれば尚更だ。晩御飯を大量にお残しする未来が目に見える⋯⋯。
しかし、伊織には拒否できない訳があった。
「まっいしゅーげっつよーはーホットケーキの日〜〜」
伊織の手を開放したあと、小刻みなリズムで両手を叩きながら、謎のステップを踏む春は快活に歌を歌う。
──そうだ。毎週月曜日は冴木家で約束した“ホットケーキの日”だ。よほどの事情がなければ、月曜日は必ずホットケーキを作る決まりとなっている。
毎日毎日ことあるごとに「ホットケーキ作って作って!」と鬱陶しく懇願するもんだから、この日を定めた次第である。
なので、ここで無下に「今日はもう遅いから駄目」と断ろうものなら、春の最高潮に達した機嫌を一気にどん底に突き落とすことになる。
大泣きすること請け合いだ。春が何か悪行を働いて、伊織の説教で泣き叫んでしまうのならまだしも、何にもしていないのにただの都合で一方的に断って、春が悲しむのは兄としては気が引ける。
しっかり毎週月曜という言いつけを守って、ちゃんと一週間我慢してきたのに、そのご褒美を剥奪するのは中々の鬼畜の所業。
⋯⋯ひたすら悩んだ末、伊織は春のさらさらな黒髪を撫でつつ、
「⋯⋯分かった分かった。今から作るから、部屋で待ってろ。今日は遅いから、一枚だけな。残りは明日にでも食べたらいい」 と、ホットケーキ作りを条件付きで承諾した。
すぐに背負っていたリュックを適当な場所に置いて、簡易エプロンを着た。
伊織はこれを甘やかすことだとは思わない。
一週間好物への禁欲に成功した春への当然の報酬である。 時間なんて気にしない気にしない。
たまにはこういう日があってもいいだろう──伊織はそんなスタンスだ。
「うん! 分かった!」
春は元気よく返事して、部屋に戻っていく。
冴木家の間取りはトイレ、風呂、キッチン等を除いて六畳一間の部屋が二つ。
それぞれリビングと寝室に使い分けている。
春が戻ったのは当然リビングで、黄ばんだ畳の真ん中にデカデカと置かれた低めの丸テーブル───その横にちょこんと正座して、大人しくホットケーキを待っている。
そして、その春の傍らでテーブルに筆箱とノートを出し、宿題に取り組んでいる───春とそっくりな小学生が一人。
「春兄ちゃん⋯⋯もうこんな時間だよ? 大丈夫なのホットケーキなんて食べて」
そう春に心配りするのは
春の双子の弟で、春とは対照的にちょっと大人びた性格をしてして、子供らしくない。
容姿は春と瓜二つかもしれないが、その雰囲気というか、オーラというか、同じ顔でも感じる印象は全く違うと言っても過言ではない。
どちらかと言えば冬が兄で春が弟だという方が、しっくりくる。
今の発言だって、いかにも兄が弟に吐きそうな言葉だ。
そんな冬の台詞に、春はグッジョブして、
「大丈夫だよ冬! へーきへーき」 と、これまた元気いっぱいな声で返した。
「そうかなぁ」
「俺めっちゃ食うから、よゆうよゆう。冬も食おうぜ」
「⋯⋯僕はいいや」
そんな似て非なる双子のやり取りが行われている最中、伊織は着実にホットケーキを焼く準備を整えていた。
一袋二百グラム入ったホットケーキミックスをボウルの中に入れて、その後、卵牛乳を放り込んで怒涛の勢いで混ぜ込む。
冴木家の家事は七年前、母親が亡くなってから四年の間は家事代行サービスの人が担っていた。
しかし、父のリストラが原因で懐事情が深刻になってからは、伊織が全て担当することになった。
当時中学ニ年生、最初のうちはかなりの苦労を強いられたが、慣れとは怖いもので、三年も経てばすっかり冴木家のオカンとしての風格を滲み出している。
慣れた手付きでキッペンペーパーに染み込ませた油をフライパンに薄く塗り、強火で一気に温める。
その後、濡れた布巾の上にフライパンを置いて熱を冷ます。 粉っぽさが無くなるまで混ぜた生地をコンロに戻したフライパンに流し込み、弱火で数分待つ。
(──あ、そうだっ)
ふと、伊織はその辺の床に放置していたリュックからスマホを取り出して、電話帳を開き、誰かに電話をかけようとする。
でもそこでまたハッと何かに気づいて、電話帳のタスクを切る。
(こっちから電話したら金かかるんだった⋯⋯危ない危ない⋯⋯RINE電話でいこう)
伊織のスマホはデータ通信料の一ヶ月の上限が1GBで、電話は別料金の超超格安プラン。
なんと月3000円以下!
今のご時世どうしても携帯は生活必需品の一つなので、最低限の性能で伊織もスマホを手にしている。
伊織はバイトをしているが、給料の殆どを弟二人のお小遣いに充てており、自分のスマホ代にはこの程度しか使えない。
父親が無理をして払ってやると大見えきったことがあるが、払う直前の父親の涙ぐんだ表情を見て、遠慮してしまった。
とまぁこんな理由で、伊織は電話をするときは料金のかからないRINEから電話をかける。
伊織はスマホを耳にあて、かけた相手が出てくるまで待った。
数十秒後、スマホから天使のような癒やしボイスが流れる。
『もしもし先輩。何かご用ですか?』
伊織が電話を掛けた相手──それは、伊織のバイト先の後輩
影光に好意を寄せる──高校一年生の女の子だ。
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