第17話 戸田美也子②
「絶対黙っててください」
いきなりそう言われて、伊織はやや困惑気味に首を傾げた。
彼を囲む左右の本棚には女性向けの漫画がぎっしりと並べられており、まるで二人を閉じ込めるように威圧感を放っている。
そんな自分には場違いなコーナーにいたから思考が鈍っていたのかもしれない───伊織は美也子が発した言葉をまったく理解できなかった。
「え? な、何をですか⋯⋯?」
「いやだから! わ、私が⋯⋯」
「私が?」
「わ、わわ私が⋯⋯じゅ、重度のBLオタクだってことをですよ⋯⋯! 見たんでしょ! さっきの私の姿!」
美也子はいくらか躊躇いながら、答えた。
その後、理不尽にも伊織をねめつける。
そのレンズ越しの鋭い瞳に、自習室で話した時の挑発するような含みは感じられない。腕を引かれて眼前に迫った美也子の瞳を見据え、伊織はそう思った。
「⋯⋯あ、なるほど」
間をおいて、伊織はようやく理解した。
と同時に、美也子の顔から少し距離を取る。
改めて周りの本棚を見渡してみると、妙に色気のあるイケメン(大体上裸)が互いに抱き合っているような表紙の漫画が平積みされていたり、棚差しされた漫画の背表紙には
どうやら美也子は、ギャルっぽい見た目に反して“腐女子”の世界に肩までどっぷり浸かっているらしい。
───つまり、美也子はBL漫画を物色していたところを目撃されたと思い、釘を刺すために自分をここまで引きずり込んだのだ。
だが、それは彼女の勘違いである。
伊織視点では、ただ美也子はだらしない笑みで漫画を物色していた───その程度の認識だった。
あの距離では、細かいジャンルまで把握できようはずもない。
しかし美也子は、自分がBLオタクである事実に伊織が気づいたと思い込み、その結果必要のない自白をしてしまったというわけだ。
なんとも早とちりが過ぎる話である。
「いや、その⋯⋯」
伊織はそれについて言及しようかといくらか逡巡したのち、やめることにした。
今更言ったところで、美也子は秘密を自ら暴露してしまっている。これを無かったことにはできない。
とにかく黙ってほしいと言われたのだ。
これさえ呑み込めば、さっさと解放してくれるはず───そう考えた伊織は首を縦に振った。
「わ、わかったよ。君がBL漫画を読みながらニヤけていたことは誰にも言いません⋯⋯!」
「え、私ニヤけてました!? うそ、気をつけてたのに! あーもうっ! 恥ずかしすぎる〜!」
美也子はぴょんぴょんと飛び跳ねながら、肩に掛けていたトートバッグを振り回し始めた。
羞恥心を隠すためなのかだいぶ興奮している様子───それでも、左手で掴んだ伊織の腕は離してくれなかった。
(こ、この子、本当にこの前の女の子か⋯⋯?)
突然の奇行の連続に、伊織はやはり狼狽せずにはいられなかった。
あれだけ余裕綽々な態度だった美也子が、イメージとかけ離れたBL漫画をあさり、初心な女の子みたいな可愛らしい反応をとっている。
彼女に対する印象が、百八十度変わったような気がした。
“小悪魔ビッチ”から“限界オタク”へのジョブチェンジ。あまりに大きすぎる変化だった。
伊織はなんだか余計に逃げ出したくなってきて、さっさとこの場を退散しようと口を開く。
「ま、まぁ⋯⋯そういうわけだから、話も終わったことだし、そろそろ腕を離して───」
「おー、蒼介ー。何選んでるんだ?」
「っ!」
手を引き剥がそうとする伊織の耳に、聞き馴染みのある声が入った。この声は、由貴だ。
本棚の高さが伊織の身長以上あるので姿は確認できないが、間違いなく由貴の声だった。
この場所から本棚を二台挟んだ先にある少年漫画コーナーから、ちょうどその声が聞こえる。
蒼介の名を呼んでいたことから、恐らく彼もいるのだろう。
そういえば、『青駆け』の新刊を買いたいと言っていたな、と伊織は思い出す。
親友が現れて安堵した伊織は、二人の元へ向かおうとする───が、美也子に阻止された。
縮まるようにしゃがみ込んだ彼女に腕を持っていかれて、伊織は前かがみの体勢になる。
「ちょっとなにして───」
「し〜⋯⋯!」
伊織の言葉を、美也子が遮った。
右手の人差し指を鼻の前でピンと立てて、沈黙を要求している。持っていたトートバッグは彼女の肘まで滑り落ちていた。
目と鼻の先の距離にいる美也子の顔は、かなり焦っていた。
まるで何か、後ろめたいことでもあるかのように。
(なんなんだ⋯⋯この状況は⋯⋯)
伊織は自分がおかれている状況を俯瞰し、困惑に満ちた表情を浮かべながら、そんなことを考える。
学校一の美少女と名高い戸田鈴零の妹、美也子と二人で一緒にしゃがんでこそこそ隠れている───傍から見れば、カップル同士に見えなくもない。
不釣り合いなコンビであることだけが唯一の懸念点だが、姉の彼氏にキスをした泥棒猫という負の烙印が美也子には押されているから、天秤が釣り合うかもしれない。
「───します」
「え?」
しょうもない思考に気を取られていた伊織は、美也子が発した言葉を聞き取れなかった。
伊織がもう一度、訊き返す。
「ごめん。なんて?」
美也子はむっとした顔で眼鏡のブリッジをさっきまで立てていた人差し指で押し上げると、吐息混じりの小さな声で繰り返した。
「だから、もう少しこのままでお願いしますって言ったんです⋯⋯!」
「このまま⋯⋯って、いつまで?」
「え、えっと⋯⋯それは⋯⋯」
言葉に詰まった美也子。
伊織は次を待たずに、
「由貴と出くわすのが気まずいのはわかるけどさ、俺を巻き込まないでよ。そもそも、今ここで俺も一緒に隠れる必要ないでしょ」
思っていたことを全部正直に言った。
言ったというより、言えた。
年下に使っていた敬語もやっと抜けきった。
親交の浅い女子に対してひどく緊張を覚える伊織が、美也子にはずけずけとモノを言えた。
それは美也子へのイメージが悪かったことと、先刻まで晒していた“オタク顔”が脳裏から離れなかったことが理由に挙げられる。
良くも悪くも、親近感を覚えたのだ。
雲の上の存在である美少女から、自分がいる畑の住人へと認識が変化した───きっと彼女にとっては、不名誉極まりないものだろうけど。
「それは⋯⋯たしかに、そうですね」
「わかってくれたならいいよ。じゃあ、そろそろ由貴達のところへ戻るから」
伊織は曲げていた腰をもとに戻し、今度こそ女性向け漫画コーナーを抜けようとした⋯⋯が、いまだに腕は掴まれたままだったので一歩も動けなかった。
(いやまだ離さないんかい! いい加減離してよッ!)
涙目で訴える伊織のことは視界にも捉えず、美也子は俯いたまま、口を開いた。
「あの⋯⋯一つだけ、訊いていいですか?」
「え、う、うん⋯⋯」
「先輩、由貴先輩と親友なんですよね?」
「そうだけど」
「さっきその由貴先輩が『蒼介』って言ってましたけど、あれって朝宮蒼介先輩のことですか?」
「⋯⋯っ。そうだよ。蒼介のこと、知ってるんだね」
「知ってますよ。サッカー部のエースで、学年問わず女子から大人気ですから」
「なるほど⋯⋯」
思いがけないところから蒼介の評判を聞き、伊織は少し驚きつつも、納得する。
あれほど男前な顔面を持ち、高い運動神経を持っていれば、モテモテでもおかしくない。
愛想は薄いが、かえってそこが女子達の母性本能をくすぐるのかもしれない。
「先輩は⋯⋯そんな蒼介先輩とも親友なんですか?」
「⋯⋯うん」
伊織が一瞬返答に遅れたことには気づかず、美也子は二の句を継いだ。
「すごいですね⋯⋯由貴先輩や蒼介先輩と親友なんて」
「いや⋯⋯すごいのは由貴や蒼介であって、俺じゃないし」
「違います」
「え?」
美也子はこの時、ようやく顔を上げた。
彼女は至って真剣な顔をしていて、ちゃかしたり、皮肉を含んだ感じではなかった。
きっぱりと否定されて、伊織は美也子の言葉の意図を考えあぐねた。
「ねぇ、先輩⋯⋯」
やがて、美也子はおもむろに言った。
「
「⋯⋯っ」
その美也子の問いは、伊織の耳朶を打った。
伊織には、彼女の言わんとしていることが、痛いほど、悲しいほど、よくわかった。
だから、彼女の心境が一気に、手に取るように、わかってしまった。
少なくとも、今の問いに込められた真意は考えるまでもなく検討がつく。
戸田美也子はきっと、誇張でもなんでもなく、伊織と同じ側の人間なのだ。
───
この姉にしてこの妹───ではなかった。
「⋯⋯お姉さんと、仲直りできてないの?」
それは確信だった。
由貴から回転寿司屋で聞いた彼女である鈴零の元気がないという話は、十中八九姉妹仲が修復していないことが理由だろう。
「仲直りというか⋯⋯私が一方的に迷惑かけただけですし⋯⋯」
自嘲気味に笑う美也子に、伊織はかける言葉が見つからなかった。
彼女のことを他人事とは思えなくなった今でも、しかし結局は他人事なのだから、当然といえば当然だけれど───
「まぁ、頑張って」
「はい⋯⋯」
当たり障りの無いことを言って、伊織は今度の今度こそその場を離れた。
腕を掴む手の力はかなり弱っていたから、振りほどくほどの力はいらなかった。
「先輩⋯⋯今日の私、忘れてくださいね。こんな姿、お姉ちゃんには見せられないから⋯⋯」
伊織は背中にかけられた言葉を振り返らずに黙って頷くと、由貴と蒼介の二人と合流した。
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