第30話 一筋の明るい未来


「⋯⋯ぉ⋯⋯り」


 遠くから声がした。


「⋯⋯おり」


 声は次第に大きくなっていく。


「⋯⋯伊織!」


 三度目の呼びかけで、伊織は目を覚ました。


 顔を上げると、視界に自分と影光以外誰もいなくなった教室の風景が広がった。 

 どうやら、また帰りのホームルーム中に眠ってしまったらしい。


「あぁ、ごめん⋯⋯また寝ちゃってた」


 伊織は椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。

 背筋を伸ばし、大きくあくびをする。


 マイペースな調子の伊織に、影光は呆れたようにため息をつく。


「お前、よく机の上で眠れるよな」

「意外と寝心地いいんだよ。おすすめ。一回試してみれば」 

「やめとく」

「というか、なんでもっと早く起こしてくれなかったの? もう誰も教室にいないじゃん」


 改めて教室を見回しながら問うと、影光はスマホを掲げ、自慢げに答えた。


「そりゃお前、ゲームのイベントに集中してたからな。三十分限定のゲリライベント、報酬ザックザクだったわ」

「なんだソシャゲやってたのか。じゃあ寝てても問題なかったな」

「いや問題大アリな。お前が寝てたせいでまた鍵押し付けられた」


 影光はスマホを持っていない方の手で例の鍵束を見せつけ、じゃらじゃらと揺らした。


「それは影光がソシャゲと鍵を天秤にかけてソシャゲを優先したんでしょ」


 反論すると、影光は目を逸らした。図星である。


「まぁ⋯⋯それは認めるけど、そもそもお前が教室で眠りこけたのが原因であって───」

「失礼しま〜⋯⋯あ、いた」


 影光の正論は、教室のドア付近からかけられた声によって遮られた。

 可愛らしい女子の声で、伊織には覚えがあった。


 邪魔された影光は怪訝な顔で振り向き、やがて目を丸くした。「戸田妹⋯⋯?」とぽつりと呟く。

 伊織も驚いていた。


 二人の視線の先には、戸田美也子が立っていた。

 死角から覗くように顔をひょっこりと出しており、伊織と目が合うと遠慮がちに教室内に入ってきた。


 美也子は伊織の目の前に立つと、深く深呼吸。

 なぜだか顔に緊張が滲んでいた。


「突然すみません。冴木先輩」

「ど、どうしたの?」

「あの⋯⋯少し、言いたいことがあって」


 伊織は身構えた。

 美也子と話すのはこれで四度目。

 今度は、どんな言葉をかけられるのか。


───もう、大体わかりましたから


───疲れませんか? そんな凄い人たちが身近にいるのって


 彼女の言葉の節々には自分を刺すようなものが含まれているので、心積もりが必要だった。

 伊織は緊急でバリアを用意する。


 結論から言えば、それはまったく必要なかった。


「その⋯⋯ありがとうございました」

「⋯⋯へ?」

 

 予想の斜め上の言葉に、伊織は半ば唖然とした。

 なぜこの女子は礼を言ったのか、意味がわからなかった。思わず、間の抜けた声を出してしまう。


 伊織の心情を察したのか、美也子は少し恥ずかしそうに俯くと、ぼそぼそと続けた。


「いや、ですから⋯⋯ありのままの私を褒めてくれたこと、です。冴木先輩と由貴先輩に言ってもらえたおかげで、私は自分の愚かさを認めることができました。あと、普通に嬉しかったです」

「はぁ⋯⋯」


 伊織は説明されてもあまり理解できなかった。


 ただ、あの時かけた言葉が美也子になんらかの変化をもたらし、前を向くきっかけとなったのなら、それは大変喜ばしいことだった。


(よくわからないけど、ちょっとはこの子の助けになれたのかな)


 伊織なりに咀嚼し、美也子のお礼の言葉を受け取る。

 すると、途端に笑いがこみ上げてきた。

 勢いよく噴き出してしまう。


「ぷっ」

「な、なんでわらうんですか!」


 伊織は怒る美也子を右手で宥めながら、


「いや、姉妹だなと思って。小さなことに感謝してわざわざお礼を言ってくれるところ、お姉さんとまんまだよ。なんなら、状況もデジャブだし」


 笑顔で言うと、美也子は目を瞬いた。

 そして、わずかの間をおいて頬を緩ませる。


「よくわからんけど、戸田妹の闇が払われたってこと? なんか前より顔色良くなってるし」


 黙ってやり取りを聞いていた影光が雑に締めくくろうと口を挟んだ。


「なんですか闇ってそんなものは元からないですよ」


 言い方に不満を覚えたのか、美也子はささやかな抗議に出た。


「いやいやいや。伊織を呼び出した時のあの鼻につく態度よーく覚えてるぞ。『せんぱ〜い♡』みたいな感じだったろ。明らかにキャラ変わってんじゃん戸田妹」

「うぐっ⋯⋯! も、もう忘れてください。あの頃の私はどうかしてたんです。あとそれから、戸田妹って呼び方やめてください。私には“美也子”という立派な名前があるんです」

「別に戸田妹で通じるじゃん」

「いえ、それだと全国の戸田家の妹が対象になるじゃないですか」

「じゃあ“妹”」

「余計範囲が増えるでしょうが! 概念で呼ぶな!」


 なぜか言い争いを始めた影光と美也子を眺めながら、伊織は笑った。


 ほとんど初対面の影光と愉快に会話する美也子を見て、これが素の彼女なのだろうと思った。

 根は明るく、オタク気質で、多分ノリがいい。


「冴木先輩も何まだ笑ってるんですか! 先輩もこれから“君”って呼び方禁止ですからね! あれむず痒くてちょっと気持ち悪いと思ってたんです!」

「今の言葉が一番心にぐさっときた⋯⋯」


 伊織は胸にダメージを食らったジェスチャーをして、また大きく笑った。






***





 六月十日、週初めの月曜日。


(⋯⋯よし)


 美也子は校門前で頬を両手で挟むように叩き、気合を入れた。校則の規定通りの長さに戻したスカートの丈を揺らしながら、昇降口に入る。


 上履きを履き、階段をあがって廊下を突き進む。

 教室のドアを開くと、一瞬だけ静まり、すぐ何事もなかったかのように騒がしくなった。


 美也子は気にしていない風を装って自分の席につく。

 

(大丈夫⋯⋯大丈夫⋯⋯)


 息を整え、ブックカバーをつけた文庫本をスクールバッグから取り出し、頁を捲り始めた。


 先日、美也子は姉と仲直りをした。

 仲直りと言っても、美也子が一方的に売ってきた喧嘩ではあったのだが、姉の鈴零はそれを買うこともなくただ許してくれた。

 ようやく本心で語ることのできた美也子に、女神のような包容力で受け止めてくれたのだ。


 しかし、これが噂の解決に繋がったわけではない。

 当然ながら、美也子に向けられた嘲笑の目が覆ることもない。現状維持のままだ。


 それでも、美也子は以前よりさほど苦しくはなかった。ちゃんと息ができる。できている。

 

 なぜなら、自分には姉がいる。

 こんな醜く、愚かな自分を、優しく受け止めてくれるお姉ちゃんがいる。だから。


 たった一人の味方が、とても頼もしく思える。

 お姉ちゃんさえいれば、いてくれれば、いくらでも罰を受けることができる。耐えられる。大丈夫。


 そもそも、これは身から出た錆なんだから。

 これぐらいでへこたれるわけにはいかない。


 姉の鈴零は無理して学校に行く必要はないと言ってくれたけれど、流石にそれは逃げ過ぎだと思った。


 罪への意識と姉に対する恩義から、美也子の中で固い決意が生まれた。

 学校に通う気力が湧き、それは決して揺るがなかった。

 

(大丈夫、大丈夫。学校なんて本でも読んでればあっという間だし、このぐらいお茶の子さいさい───)


「あの、すみません」

「は、はいっ」

 

 勇気の暗示を唱えていると、急に声をかけられた。

 美也子は上ずった声で返事しながら、本から顔を上げた。


 目の前には、小柄な女の子が立っていた。

 同じクラスなので、美也子には見覚えがあった。

 いつも漫画を読んでいるショートカットの女の子。

 たしか、君嶋葵といったか⋯⋯。


 葵は小動物感のある目鼻立ちに、ふんわりとしたボブカットを弾ませ、美也子を見定めるように見つめていた。

 数秒見つめ合ったあと、彼女の栗みたいな形の口から可愛いらしい声が発せられる。


「あなたは、戸田美也子さんですね」

「そうですけど⋯⋯」


 突然の名前の確認にたじろぎつつ、美也子は首肯する。


「美也子さん。つかぬことをお訊きしたいのですが」

「な、なんでしょうか」


 ごくり、と美也子は生唾を呑み込む。

 一体何を訊かれるのだろうか、たまらず全身に力が入った。

 

「高杉彼方のBL適正についてどう思われますか?」

「⋯⋯んぁ!?」


 けれど、すぐに弛緩した。

 美也子は素っ頓狂な声をあげた。

 なんだかこのパターン、前にもあったような気がする。


「と、突然なに?」

「なにもへちまもありません。ありのままです。高杉彼方のBL適正について問うているのです」

「え、えぇ⋯⋯」


 なおも困惑気味の美也子に、葵はふっと一息つくと、試すように言った。


「私としては、高杉彼方くんは誘い受け・・・・が至高だと思っているのですが」

「⋯⋯⋯⋯ほう?」


 直後、それまで一歩引いて見ていた美也子の様子が変わった。彼女は懐から取り出した桃色の眼鏡を装着すると、鋭くした瞳でじろりと葵を見据える。


 そして、せきを切ったように饒舌に語り始めた。

 美也子の変わり様に、葵は口元を緩める。


「君嶋葵ちゃん⋯⋯だったよね? まさかこんな近くに高杉彼方の誘い受けの可能性を見出している同士がいたとは⋯⋯葵ちゃん、わかってるね。私もそっちの方面で日々研究しているんだ。まずは原作の五十二話が最初の兆候だと私は思っているんだけどね、キーパーの峰内悟くんが彼方くんに思いの丈を吐露した回がすごく印象的で、あの回の高杉彼方くんには───」


 気が遠くなるような長い話を聞きながら、葵はぼそっと口にした。


「先輩の言ってた通り、面白い人です」

「だからあの時彼方くん、本当はわかってて挑発したんじゃないかって⋯⋯ん? 何か言った?」

「いえ、何でもありません。続けてください」

「そう? じゃあ遠慮なく⋯⋯」


 その後、美也子は葵に“高杉彼方誘い受け”についての考察を語って聞かせた。

 葵も興味深そうに耳を傾けていた。


 周りを気にせず、居心地の悪かった教室で自分の素を曝け出しながら、オタク談義に興じる───。

 

 美也子の鬱屈とした学校生活に、一筋の明るい未来が開かれた瞬間だった。 











《1章 由貴と二人の姉妹》終わり。


《幕間1 憂鬱な体育祭》に続く。





【1章あとがき】

もしここまで読んでくださった方がいらっしゃれば、本当にありがとうございます。

嬉しいです。


1章の次は幕間をいくつか挟んで2章に進みます。2章は影光の話です。1章で出てきた影光ガールズが彼を奪い合います。

伊織も1章の時以上に巻き込まれ、友人キャラとしての責務を果たしていきます。


幕間はキャラの関係性を強調するような日常回?的な話の予定です。次の体育祭の話は日常回とは言い難いかもしれませんが⋯⋯。

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