最も綺麗なストレート
去年の夏、メジャーリーグのスカウトの一人がインタビューに答えた。
曰く、「今アマチュア野球で最も期待しているピッチャーは誰か」。
ありきたりな記者の質問に対して彼は予想外の返答をした。
「アメリカでもいい投手はたくさんいるが、あえて挙げるとすれば日本の大学でプレーしているタダシ・イクラかな。粗削りだけど彼のストレートは一級品だよ。直接ウチのチームでプレーしないかと誘ったんだけど、『日本でやりたい事を果たしてから誘いがあれば是非』と断られたよ。日本人は謙虚なんだね」
『メジャーすらも注目する投手』。
その会話を切り取った記事はセンセーショナルな見出しと共に瞬く間に海を渡りる。
当の本人である
そしてドラフトが近づく秋、大学最後の登板で彼は伝説を残す。
その日、伊久良はストレートの平均が150km/hをオーバーするなどシーズンの中でも一番の絶好調だった。
同じリーグの強豪相手に9回を一人でシャットアウト。
試合が進むにつれ、観戦しに来た者達は気づく。
この試合の主役は彼だと。
投球数は133球、奪った三振は圧巻の22個。
アウトの内3分の2を三振で取る異次元の投球である。
2つ四球を与えながらも浴びたヒットは0本。
大学リーグの一試合最多奪三振記録にタイで並び、ノーヒットノーランを達成。
メディアが数多く訪れた試合で、伊久良は自らの実力の高さを証明した。
◇
バットを振る。
首を傾げ、再び構える。
試合前の練習で、入夏はその二つをずっと繰り返していた。
―――昨日の感覚が分からない。
いつも通りという意識が強すぎたのが原因だろう。
探っても探っても手ごたえがない。
『それは君が一流に近づいているって事だよ』
「そうなんでしょうか……?」
『だって違いが分からないって事は、それほど普段通りに出来ていたってことじゃないか』
そのいつも通りが分からなくなってきたんですけど。
この人の打撃理論は独特すぎて、入夏にはよく分からなくなっていた。
「おい、入夏」
後ろから声を掛けられ、入夏は初めて監督の
「え、あ、はい。なんでしょうか」
「調子はどうだ」
そんな事を言われても、と入夏は返答に困る。
「良いような、悪いような」
「はっきりしやがれバカヤロー。お前は他の選手と違って、打った後に何故か調子が落ちる珍しいタイプの選手だからな。さっきからずっと納得のいかない様子だったし、何かあったんじゃないか。あまり一人で思い悩むなよ」
代永が乱暴に入夏の頭を撫でる。
この人は二軍時代から自分の事をよく見てくれていた。
決して安易に褒めたり持ち上げたりする事もなく、ただ困った事があれば何も言わずにそっと打撃コーチに耳打ちして課題を解決しようとしてくれた。
「ありがとうございます。でもそこまで心配しなくても」
「いいや、駄目だね。なぜならお前みたいなやつをよく知っているからだ。そいつは何にも悩んでません、相談しませんみたいな面してやがった癖にある日突然消えやがった。一人で抱え込む奴ってのは危ないんだよ。そういう事されるとこっちとしても目覚めが悪いったらありゃしねぇ。悩んでいる事を俺に今ここで全部話せとは言わん。その一部を誰かと共有してくれれば十分だ」
言葉は乱暴だが、この人は常に優しい。
だから他の選手からも信頼されているのだろう。
自分の今の悩みを打ち明けるとすれば、代永以外に入夏は思い当たらない。
「ご心配、ありがとうございます」
今は自分でも整理がついていないから無理だが、いつかは代永には勇名の事を打ち明けられたらいいな。
◇
スターティングラインナップ
千葉ドルフィンズ
1番 ライト 入夏水帆
2番 サード
3番 セカンド
4番 レフト
5番 指名打者
6番 ショート
7番 ファースト
8番 キャッチャー
9番 センター
先発投手
仙台スパークス
1番 レフト
2番 ライト
3番 ファースト
4番 指名打者 ジェイコブ・アーノルド
5番 セカンド
6番 キャッチャー
7番 サード
8番 ショート
9番 センター
先発投手
ドルフィンズの先発は萩川。
前回ノックアウトの雪辱を晴らすためにマウンドに上がる。
一方スパークスは昨秋ドラフト一位の伊久良が先発。
両チームともにスタメンの野手は前日とほぼ変えていない。
萩川が立ち上がりを抑え、初回の入夏の打席。
緩やかなモーションで伊久良の左腕から放たれたボールは入夏のバットを置き去りにして外角に突き刺さった。
2球目、ストライクゾーンからボールゾーンまで浮き上がったように錯覚するほどのストレートにバットが出て2ストライク。
軌道だけではない。
表示されている球速よりもずっと速く感じるため、つい反射でバットが出てしまうのだ。
ここまで投げてきたのは直球のみ。
力で押し切る気か、上等だ。
3球目は外、ボールゾーンで来ていた配球から一転してど真ん中のストレート。
虚を突かれていたわけではない。
しかしそれでも直球の対応に自信のあった入夏がストレートに張っていてもなお完全に振り遅れ、三球三振を喫した。
他の投手よりもボールの回転量が、もっと言えばその軸が違う。
ストレートは回転数がただ多ければよいというわけではない。
伊久良のストレートは0度に近く、打者からすればボールにノビがあるように見えるのだ。
いきなり先頭打者を三振にとった伊久良は続く三護に対して内角を鋭く突くピッチングを見せる。
右打者の内角に食い込むようなストレートは見た目以上に打者にとって打ちづらい事この上無いだろう。
今日のスタメンは両打ちの三護含む7人が右打ちだ。
このピッチングを続けられようものなら、打線が苦戦を強いられる事がありありと想像できる。
結局三護は内角へと向かってくるようなストレートにこちらも振り遅れて空振り三振。
鳥居は球威に負けるような形で打球を打ち上げ、セカンドへのフライに倒れた。
試合は投手戦の様相を呈していた。
両投手が3回をパーフェクトに抑え、4回こそ萩川は光原にヒットを浴びるも無失点。
その裏、入夏が四球で出塁するが強肩の捕手である阿古屋相手に盗塁を仕掛けて失敗。
結果的に3人で攻撃を終えた。
試合が動いたのはこのままロースコアで終わると思われた5回の表。
6番の阿古屋が萩川の得意球、シンカーを打ち砕いてライトへのホームラン。
大きくガッツポーズを挙げながらダイヤモンドを一周し、先制点を奪われた。
次に入夏に打席が回ってきたのは6回の裏、2アウト一塁の場面だった。
9番の舘がセンター前へのゴロヒットで出塁してチーム初の安打を打った直後である。
初球、スプリットが入夏の手前でワンバウンドしてボール。
ここまで2回の打席、やられっぱなしだった入夏にも収穫できた部分がある。
伊久良は右打者には強いが、左打者の内角にはまだ直球を投げられていない。
シュートボールでも投げる事が出来るのなら話は別だが、左打者への有効打に欠ける印象は否めない。
故に、内角のボールは考えから捨て真ん中から外角のボールに標準を置く。
2球目、狙い通り外角にやってきたストレートをセンター前へと詰まりながらも打ち返した。
ショートがダイビングするもグラブは届かず。
確かに球威も一流、重い痺れが両腕を襲う。
メジャー注目の投手というのもうなずける。
しかし、コースがある程度分かっていれば当てられない球ではない。
と言っても今は当てるだけで手一杯だった。
理想通りのバッティングとはいかずまでも、一二塁とチャンスを拡大した。
2番の三護は両打ちだ。
セオリーに合わせるなら両打ちは右投手には左、左投手には右の打席で構えるのが通常だが、三護は左の伊久良に対して左の打席に入った。
打席に入る前に話していた作戦通りだ。
三護は万能な選手である。
左投手に致命的に弱いという弱点こそあるが、首脳陣から指示されれば一塁以外の内野はどこでも守れるし、左右どちらの打席に立つこともできる。
一シーズンごとが死活問題であるプロ野球界で生き残るのは、こういう器用な選手なのかと入夏は思った。
しかし初球、外角から逃げていくスライダーに対して全くタイミングが合わず空振り。
入夏は自らの肩ががっくりと落ちるのを感じていた。
左投手との相性の悪さはどちらの打席でも同じらしい。
完全にタイミングを崩されている。
2球であっさりと追い込まれ、最後はスプリットに空振り三振。
一打逆転の機を逃したドルフィンズはその次の回で一発を浴び、0対2で敗戦した。
<他球場の結果>
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