海割り、再び

「あ、どうも入夏選手! お久しぶりです!」


 二軍の球場で出迎えたのは、入夏の入団当初からドルフィンズの若手を取材している女性記者、佐藤さとうみどりの声だった。

 癖のない黒い短髪や、ぱっちりとした瞳は彼女の快活さによく似合っている。


「いやー、また会えると思ってましたよ! どうでした、一軍!?」


 良く言えばフランク、悪く言えば遠慮がない。

 ぐいぐいと来る佐藤の姿勢はある意味記者らしいと言える。


「改めて自分の実力不足を痛感しました。まだまだ頑張らないといけないと思います」


「いいコメントですね! そういう真面目なところが入夏選手の魅力だと思います! きっとまたすぐに一軍に呼ばれますよ!」


 その発言は入夏に実力があるからではない。

 チームとしての現状として、そうせざるを得ない環境にあるためだ。


 オーシャンズリーグ、通称オ・リーグ。

 ランドリーグ、通称ラ・リーグ。

 日本のプロ野球はこの二つのリーグに分かれている。

 オーシャンズリーグに所属しているのは6球団。

 深瀬をはじめとした投手力がウリの大阪ビクトリーズ。

 打線の爆発力がすさまじい埼玉フィッシャーズ。

 個性豊かな選手を揃え、話題性バツグンな仙台スパークス。

 リリーフ陣の安定感が光る北海道パイレーツ。

 バランスが良く、僅差でのゲームに強い福岡マッハトレインズ。

 そして入夏が所属する千葉ドルフィンズである。


 今年のオーシャンズリーグは戦力がほとんど拮抗していると言われているが、ドルフィンズだけは蚊帳の外だ。

 その証拠に、現在ドルフィンズは最下位を低迷している。

 原因は何か。

 肝心なところで精彩を欠く先発陣か。

 絶対的クローザーのいないリリーフか。

 挙げだせばキリがないが、やはり最も大きいのは打線の不振だろう。

 3番の鳥居、4番の阿晒あざらし以外で固定できる選手がいない事が、その深刻さを物語っている。

 クリーンナップが勝負を避けられ、あと一点が届かない。


「やはりドルフィンズは3番の鳥居選手と4番の阿晒あざらし選手に頼りがちですからね。二人とも本来は中距離ヒッターですから、あと一人でも長打を多く打てる選手がいるとチームも浮上すると思うんですけどね。欲を言えば3割を打てる打者が一番に立てば薄い打線にも厚みが増してきますし、盗塁数も去年はワーストです。

 足を絡めた攻撃が必ずしも必要とまでは言えませんが、攻撃に関してかなり消極的に思えます。今こそ錦監督の采配は分岐点を迎えるべき時ですが……」


「えーっと……そうですね」


 流石は番記者だ。

 チーム内の人間よりもよくチームを見ている。


「もっと愛想良くしねーかバカヤロー」


 後ろから現れた二軍監督の代永しろながに小突かれ、入夏は微妙な笑いを返した。

 彼の「バカヤロー」という言葉は口癖のようなものだ。

 ちなみにそれを理解するまで、入夏は1年ほどかかった。

 太い眉に力強く生えた白髪。

 元来の彫りの深い顔は、しわができてもなお精悍せいかんさを失っていない。

 それどころかより一層深みをましているように見える。


「どうも、代永二軍監督!」


「二軍は余計ですな」


 代永が頬をゆるませてテンプレートのセリフを吐いた。


「佐藤さんにはいつもいい記事を書いてくださって感謝しておりますわ」


「いえいえ、こちらこそ毎度素晴らしい試合を見せていただいているわけですから! 」


「ははは、気を遣わせて申し訳ない。勝ってなんぼのプロチームがこのザマでは記事も書きづらいでしょう」


「ドルフィンズはこれからですよ! 代永の手腕で選手が育っているわけですから!」


 遠慮はないが、相手をおだてるのが絶妙に上手いというのが佐藤のすごい所である。

 入夏にはそんな器用な真似などとてもできない。

 取材の対応は不得手、よってこの場を脱するのが吉だ。


「じゃあ俺は練習に行くので」


「どこ行くんだ。取材してもらえる貴重な機会だろ。ちゃんとここにいやがれバカヤロー」


 ドスのきいた低い声で代永に肩を掴まれ、入夏は観念した。



 ◇


『いやぁ、にしても代永さんは良い老け方をしたもんだ。それに、二軍とはいえ監督やってるとは』


 バットを握ると勇名の感心したような声が聞こえた。

 現在入夏は打撃練習の順番待ちの状態である。


「知り合いなんですか」


『現役時代によく世話になったんだよ』


 考えてみると、代永は今年で72歳になる。

 そこから現役時代を逆算してみると、勇名の選手時代と確かに被っている。

 同じチームメイトであれば知り合いにもなるのもうなずける話である。


「それよりも、教えてくださいよ。バッティング」


『ああ、そうだったね。ごめんごめん。えーっと、何から話せばいいのか。そうだね。う―――ん……現役時代に俺が大事にしていたのは腹なんだ。どうしてか分かる?』


「なんでクイズ形式なんですか」


 入夏はツッコむが、勇名はお構いなしだ。

 10、9、8……とご丁寧に制限時間まできっちりとカウントしてくる。

 

「……全身に力が入りやすいから?」


『うーん惜しい! 正解はね、体の中心だからさ。人間の縦、横、その中心はやはり腹という事になる。体は外から操るものじゃなくて、内側から動かすものだ。だから、中心である腹を意識するのが自然なんだ』


「すみません。全然分かりません」


『うん、正直でよろしい。そういう素直なところは好印象だな!』


 入夏に理解する気が無いわけではない。

 しかしこの類、内側がどうとかいう話はどうにも想像が難しかった。


 例えば初心者はプロなどのトップアスリートを真似しろとよく言われる。

 要は形から入れ、という話である。

 グリップの握り方、構え、足の上げるタイミング。

 こういうのは分かりやすい。

 視覚に頼って、特徴的な部分を真似すればとりあえずそれっぽくはなる。


 けれど内側―――意識だとかの話は理解が難しい。

 理由は単純、見えないからだ。

 言う通りに従ったとしても、再現できているかどうかも判断できない。

 当たり前だ。自分の感覚などといったものは自分だけのものである。

 いくら言語にしようともその全ては描写しきれない。


『まぁ、そうだよねぇ。いきなりこんな話をして伝われっていうのも無理がある話だ。じゃあ、実践してみよう』


「実践ってなんですか。意識してやってみろって事ですか」


『似たようなものかな。というわけで、ちょっと体を借りるね』


「は?」


 その言葉を理解する前に、勝手に入夏の体が動いた。

 とっさに、だとかそういう話ではない。

 意識を残したまま、本当に体だけが別の意志を持ったかのように動いたのである。


 主導権を奪われた体が打席へと入っていく。

 視覚も聴覚も、手に伝わるバットの感触も伝わるのに、体だけが自分のものではないように感じた。


 相手投手がボールを振りかぶるも、体はばたつかない。

 鼻から入った空気が肺へ、さらにその下へと降りていく。

 テイクバックは最小限、バットはギリギリまで立てた状態だ。

 ボールが投じられた瞬間にようやく体が動き始めた。


 ぱぁん。

 響く音はバット特有の乾いた音とはまた異質な、何かが破裂するかのような音。

 一斉にこちらに向いた無数の視線を無視して、はライト方向へと打ち返す作業をこなしていく。


 入夏は特等席で、それを見つめるほかなかった。


 ◇


 自らの手を開いて閉じてを繰り返して、入夏はほっと胸をなでおろした。

 打撃練習を終え、打席から離れたところでようやく体の自由がきくようになった。

 自分の体を動かせるという当たり前の状況に感謝したのは生まれて初めての事だ。

 本当に乗っ取られるかと思った。


「勇名さん」


『どうしたの?』


「俺は今怒っています。いくらなんでも説明不足ですよ」


『あー……ごめん、だってそうした方が分かりやすいかと思って』


「大体、他人の体を勝手に操るってどうなんですか。人として」


『でも出来るならやってみたくならない?』


「なりません。次に無断でやったら今度こそお祓いしてもらいます」


『スミマセン』


 今回は入夏に正当性があるため、容赦はナシだ。

 勇名のしょぼくれた声を聞くに、一応反省はしているらしい。


「というか、なんか腹が熱いんですけど」


 入夏がさすったのはへその少し下あたりだ。

 痛むわけではないが、ずしりと重みを感じる。

 普段練習をしている時には感じなかった感覚に入夏は戸惑いを隠せなかった。


『分かる? その感覚だよ、覚えておいて!』


「忘れませんよ。というか忘れられませんよこんな恐ろしい体験」


『あ、うんそうだね。そうなんだけど、そっちじゃないというか』


「入夏!! ちょっとこっちに来い!!」


「はいっ!?」


 後ろから飛んできた代永の声に入夏の大きく肩が震える。

 悲鳴まじりの返事をしてバットを置き、代永の近くまで走っていくと彼の表情が見えた。

 眉間のしわがより一層深くなり、半開きになった二つの目がこちらをじっと見ている。


「……お前、フォーム変えたのか」


「え?」


 代永がバットに視線を落とす。

 予想だにしなかった言葉に、入夏は自らの耳を疑った。


「誰の指導だ。なぜ、いつから、どうやってその打ち方に変えた」


 代永の言い方はまるで犯人を尋問する警察官のようだ。

 しかし問い詰められても思い当たる節がない。

 入夏は記憶の糸を探り、そして一つの答えにたどり着く。

 フォームを変えた覚えはないが、思い当たる節ならある。

 さっきの打撃練習だ。

 そこで何か違和感を覚えられたのだ。


「無意識です。いつの間にか体が動いていました」


 入夏はそのままの事実を話した。

 勝手に体が動いて打ちだしたのだから、そう表現するほかない。


「なわけねーだろバカヤロー。答えろ。なんでお前が、勇名の真似事をしてやがる」


「真似事?」


 分かったのか、先ほどのわずかな時間で。

 同じ時代を生きた選手とはいえ、そんなすぐに分かるものなのか。


「お前が何をしようともお前の勝手だ。だがな、あいつの真似だけはするんじゃねぇ」


「どうしてですか」


「どうしてもこうしてもねぇ。真似をするなと言ったんだ。Yes以外の返事はいらねぇんだよ」


「何かあったんですか、勇名っていう選手と」


「……あいつは化物だ。俺たちには理解できねぇ」


 勇名と話をした限り、とてもそうとは入夏には思えなかった。

 少なくとも恐れられるような人物ではなかったはずだ。


「監督は何を知って……」


「あれ、どうしたのお二人。練習は?」


 入夏の言葉は、乱入者によって遮られた。


「角田……さん」


 角田一善元凶がそこにいた。

 言いたい事は山ほどある。

 山ほどあるが故に、何から言えばいいのか分からない。

 面倒な事に巻き込んだ怒りか、勇名という人物に出会わせてくれた感謝か。

 目ははっきりと角田を捉えていても、脳が感情を処理しきれない。


「あれ、気のせいかな。入夏君からなんか凄い威圧感を感じるんだけど。僕何かしたっけ」


「バカヤロー角田。あいつは普段から機嫌悪そうにしてるだけだよ」


「あ、そうなの入夏君?」


「どうも……、おかげさまで」


「あ、練習でもそのバット使ってくれてるんだ。嬉しいなぁ」


「バット? どういう事だ角田。お前が入夏に何か仕込んだわけじゃねぇだろうな」


 代永の鋭い視線が角田に向く。

 角田は大げさに手を上げながら微笑を返した。


「嫌だなぁ代永さん、知り合いのバット職人から譲り受けたバットをあげてやっただけの事ですよ。いいでしょう? OBとして悩める後輩を応援してやってるだけなんですから」


 代永は角田をにらみつけると、舌打ちを返す。


「……相変わらず鼻につくな、その喋り方。入夏、練習に戻っていいぞ」


「はい。あの―――」


「お前は。……勇名みたいになってくれるなよ。後、困った事があればちゃんと報告しろ。監督として、話くらいいつでも聞いてやる」


 妙に気を遣われた気がする。

 入夏は違和感に首をかしげながらも、練習へと戻っていった。










 


 


 



 

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