天才打者の忘れ形見
砂糖醤油
1章 呪いのバット編
俺と彼の第一打席①
左のバッターボックスの中でバットを両手で天に掲げ、
夜でありながらも球場は照明で明るく照らされ、鳴り物の音が飛び交っている。
状況は7回2アウト、ランナー2塁。ランナーが帰れば同点。
千葉ウミネコ球場で行われている試合は終盤、絶好の機会を迎えていた。
チャンステーマは普通の応援歌と比べてテンポが速く、耳に響く。
球場に立ちこめる熱気で汗が背中を伝ってひやりとする。
前のめりな気持ちを理性で押し留め、入夏はただ一つの事に集中していた。
意識するのは相手の胸。
上下するのに合わせて、自分の呼吸を合わせていく。
ここまで3球投じられたがまだバットはピタリとも出していない。
入夏がしたことといえば呼吸をしながらバットを後ろに引かせたくらいだ。
呼吸を重ねていくと、不思議と心は落ち着いていく。
打席は孤独だ。
二人の打者が入る事は許されない。
作戦はあっても、実行できるのは一人だけだ。
『そろそろ合ってきたんじゃない?』
「分かってます」
だけど今は、一人じゃない。
相手の胸が上がって投球モーションに入るのに合わせて、足を軽く引いた。
潜水前のダイバーのように息を吸って、止める。
今ならはっきりとボールが見える。
インコースへの真っ直ぐ。
下半身でのねじれを上半身に伝える。
何千何万と繰り返した
腰がくるりと回り、わずかに遅れて顔を出したバットがボールを捉えた。
確かな感触と共に低いライナー性の打球が飛んでいく。
それと同時に入夏がバットを軽く放り捨て、一塁へと駆け出した。
ただしかし、当たりが良すぎた。
あらかじめ浅く守っていたライトが一、二歩と下がってグラブにボールをおさめる。
3アウト、チェンジ。
歓声が悲鳴へと変わった。
守備についていた選手がベンチへと帰っていく中、入夏は一塁ベースの手前で立ち止まったままだ。
両手を見つめて開いて閉じてを繰り返す。
じんじんと両手にこもる熱。
久しく忘れていた、バットの芯を捉えるような感覚。
完璧な当たりでない。
けれど、入夏の手には確かな感触が残っていた。
「おい! 凡退したくせに何をカッコつけてやがんだ!!」
感触に浸っている暇はない。
バックネット裏からの叫ぶようなヤジに、入夏は現実に引き戻された。
なんのことだ、格好つけた覚えはない。
言い返してやろうかと思って振り返る。そして納得した。
バッターボックスの隣でバットがぴたりと立っている。
入夏が深くため息を吐いて、ホームベースまで小走りで走り出す。
そして誰にも聞こえないようバットに話しかけた。
「……なんで立ってるんですか」
『投げられたら受け身をとるのは普通でしょ』
「それに関しては申し訳ないですけど、立ったら目立つじゃないですか」
『いやぁー、にしても最近の土とか芝はよく手入れされてるものだねぇ』
「話はあとで聞きます。ほら、行きますよ」
入夏はそう言って、バットを掴みベンチへと引き上げていった。
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