赦すということ

 34歳の梅雨ごろ、野球の神様などいない事にようやく気が付いた。

 だから私は、自分がそうならなければならないと心に誓ったのである。


(中略)


 「許す」ということほど簡単に言えて、なおかつ行うのが難しいことは無い。

 それが私の生涯を通して学んだ一つの結論である。

 この本を読んでいる諸君らも、人生の中で心から許せないと思ったことの一つや二つがあっただろう。

 あるいは君がまだ若人わこうどであれば、今からそういう事を経験するだろう。

 残念ながら人生とはそういうものだ。


 真面目な人間が多い現代の社会では「許さなければ」と周囲から言われたり、自らを追い込んでしまうかもしれない。

 しかし、前述したように許すということは非常に難しいのだ。

 どうか許せなかった己を責めたり悔やむよりも、許すことのできた自分を賞賛してあげてほしい。

 この本を通して様々な事を綴ったが、正直今書いた事以外は前座に過ぎないから覚えなくて良い。

 この一文だけを諸君の心の隅に留めてくれたならば、筆者にとってはこれ以上ない幸福である。


 宮使みやつか竜郎たつろう 著「『許す』野球学」より引用



 ◇


(せっかく九州に行くんだから明太子弁当食べたかったな……)


 新幹線の中で空になった弁当を見つめ、入夏はため息を吐いた。

 移動日となる今日は千葉から福岡マッハトレインズの本拠地である福岡ラインドーム、を通り過ぎた先にある地方球場へと到着する予定である。

 試合会場となる大平和だいへいわ球場は長い歴史のある球場であり、現在はアマチュア野球のみならずプロ野球の試合会場として数シーズンに1回ほど使われている。


 勇名さんが辛いのは嫌と言っていなければ明太子弁当を買っていたのに。

 次第に遠慮しなくなってきた気がする。


 弁当を片付け、入夏はスマートフォンを開く。

 昼食を食べる事と別にもう一つ重要な事があったからだ。


(既読ついてないな。仕事中なんだろうか)


 塩谷が見つけたという鴨橋事件に関する最近の記事。

 その末尾に書かれていた「佐藤さとうみどり」の名前。

 偶然同姓同名の人間が同じ業界にいるとは考えづらい。

 つまり、彼女は鴨橋事件について詳しく知っている最も身近な人物だという事だ。

 できるだけ早く連絡を取ろうと記事のURLと軽く言葉を添えて送ったのだが、まだ返信どころか既読すらもついていない。


 結局返信が来たのはその日の夜になってからだった。


『怒ってます?』


 伝え方が悪かったのか、佐藤の最初の返信はどこかぎこちない。


『怒っているわけではないです』

『佐藤さんがこの記事を書いているのを知って、自分もこの事件を知りたいと思ったので』


 既読が再び表示されて数分後、再び佐藤から返信が来た。


『概要だけでも分かる通り、聞いていてあまり気持ちの良い話ではありませんよ』

『入夏選手は野球に対して真摯な方ですので、余計嫌な思いをしてしまうかもしれません』

『それでも知りたいのであれば、後日また』



 ◇


 この日はナイトゲームだ。

 夕方前に互いのチームが打撃練習を終え、守備練習に入る予定である。

 他チーム同士の選手が交流するのは時が多いのだが、入夏にはそういったなじみはない。

 強いていうならビクトリーズの元同級生である深瀬ふかせから睨まれるくらいである。


 バッティングケージで勇名から指導を受けつつ入夏は打撃練習をする。

 打撃投手にもう少し遅いボールを、だとか次は変化球を、と調整してもらいながら練習を進めていた。


『とても素晴らしいバッティングだ。その技術は彼から教えてもらったのかな?』


 聞きなじみのない声がした方へと入夏が振り向く。

 そこには渋めの顔をした男がいたのだが、それよりもその後ろで光っている人型の影の方が目についた。


「ねぇ勇名さん。何かあの人光ってるんですけど。怖いんですけど」


『まさか人が光るわけ……うわ本当に光ってる!?』


 入夏は視線をそらし、ひそひそ声で勇名と会話する。

 なんとなく既視感があるのは仙台スパークスの綱井つないと彼に憑りついた樫村かしむらと出会っていたからなのだろう。


『ははははは、君にもこの眩しさが分かるとは光栄だな。そう、これは後光ごこうというものだよ』


『盗み聞きされてるし、後光は絶対違う……』


「激しく同感です」


 自らの事を神だの仏だの自称する者にまともな人間がいた覚えは入夏には無い。

 うさん臭さを通り越して怪しさ抜群である。


「というかそもそもどなたなんですか」


「俺か。俺は……」


「いやあなたの名前は存じてます。福岡マッハトレインズの正捕手・越智おち子龍しりゅう選手ですよね。聞きたいのはあなたの後ろにいる方の名前なんですけど」


 返事をした渋めの顔の男、もとい越智の自己紹介を遮り入夏は再び聞き直す。

 悲しそうな顔をしてしゅんと肩を落とす越智の後ろで、人影は首を横に傾けた。


『はて、私は球界にかなりの知名度を残したはずなのだが……顔パスが通らない事もあるのか』


「すみません。顔が眩しくてどなたか分かりません」


『なるほど、眩しすぎるのも考え物だな。では改めて自己紹介をしよう。私の名前は宮使みやつか竜郎たつろう、元野球選手にして元監督。多くの教え子を現代に残した球界の神様的な存在だ』


「……本当にビッグネームじゃないですか」


 宮使竜郎、プロ野球の歴史を語るにおいて必ずといっていいほど話題に出る存在。

 選手として優秀な成績を残し、その他にも初代選手会会長を務めるなど当時暗黒期真っ只中だった球界を支えた人物。

 引退後も監督として累計で5チームの采配を経験し、その内の3チームはリーグ優勝を経験するなど「名監督」としても名を馳せた。

 彼の指導を受けて才能が開花したOBも多くおり、まさしく現代野球のターニングポイントを語るにおいて欠かす事の出来ない男。

 それが宮使竜郎という野球人だ。


 そんなレジェンドとなれば態度も尊大なのだろうか。

 初対面(?)である入夏としては何となく複雑な心境だった。


『そんなに有名になったの?』


「だって選手としても監督としても超一流の方ですよ。選手の心を掴んで能力を引き出す、やり手の監督だって話です」


『宮使さんってそんなキャラだったっけなぁ……』


 勇名も勇名でどこか納得のいかない部分があるらしい。

 後ろに疑問符の付いてきそうな声を出して唸っている。


『君たち! 私を差し置いてこそこそと話をするのは感心しないぞ。話すなら堂々と胸を張って話しなさい。それはそれとして、勇名君が言うのも分かるよ。人間とは一生をかけて成長し続けるものだ。途中で歩みを止めてしまった君とは年季が違う』


『俺の知らない間に随分と偉くなったんですね。どこか遠くなったようで悲しいです』


『ははは、遠いのは昔からだろう。それに、私は君の事を忘れた事など無かったがね』


 二人(とカウントしてよいのか?)から笑い声が漏れる。

 一見微笑ましい様子。

 しかし互いの肚の中に何かを抱えているような不穏さを入夏は肌で感じていた。

 肚の探り合いなど、入夏は知った事ではない。

 分からないのだから知ろうとするだけ無駄だ。


「今日からの試合、よろしくお願いします。肩を借りるつもりで取り組みますので」


「それを言うなら肩じゃなくて胸じゃ」


『よくぞ言った若人。レジェンドとして私はいつでも君の挑戦を待っているとも』


「いやプロにはスケジュールってものがありますかr」


『そんな言葉は今求めてない!!』


 再三話を遮られ、越智の表情がどんどんしおれていく。

 少し気の毒に思ったので入夏が握手を求めると、ちょっと感謝された。



 ◇


 スターティングラインナップ


 千葉ドルフィンズ


 1番 ライト    入夏いりなつ水帆みずほ

 2番 センター   わたり孝之介こうのすけ

 3番 セカンド   鳥居とりい帝人みかど

 4番 レフト    阿晒あざらし兵太ひょうた

 5番 ショート   万田よろずだ英治えいじ

 6番 ファースト  早々江さざえしん

 7番 指名打者    トマス・ムール

 8番 キャッチャー 志々海しじみ大和やまと

 9番 サード    穂立ほだてれん

 先発投手 西部にしべ銀丈ぎんじょう



 福岡マッハトレインズ


 1番 セカンド   田吹たぶき弘正ひろまさ

 2番 センター   具足ぐそくこう

 3番 ショート   布施ふせこん

 4番 ファースト  安藤あんどうやすし

 5番 指名打者   加藤かとうたけし

 6番 キャッチャー 越智おち子龍しりゅう

 7番 レフト    三ツ繰みつくりしん

 8番 ライト    高足たかあし泰平たいへい

 9番 サード    熊本くまもと基樹もとき

 先発投手 玉城たまき真人まさと


 

 ドルフィンズは左に強い早々江を6番に起用し、先日入れ替わりでプロ初の一軍昇格を果たした穂立漣をいきなりスタメンに。

 先発にはエース格の西部が予定通り登板する。

 一方のマッハトレインズは左の二枚看板の一角、玉城が先発マウンドにあがる。

 野手ではドラフト1位ルーキーの布施、高い技術とパワーを兼ね備えたサラリーマン風漂う野球選手の安藤、体を丸くして構える独特な打撃フォームからヒットを量産する加藤をクリーンナップに置いた。


 始球式での素振りにも近い空振りを終え、入夏が初回の表のまっさらなバッターボックスの中で試合開始を待つ。

 プレーボールの声がかかり、マッハトレインズ先発の玉城が投球へと入る。

 緩やかな動きで上半身を二塁側へとねじらせ、玉城が左腕を振り抜いた。

 指から離れたボールはゆったりと弧を描くような軌道で低めへと決まり、球審がストライクをコールした。


 聞いていた話、体験していた話だと玉城は上半身を大きくねじるフォーム(世間ではたつまき投法と呼ばれている投げ方)から速球とフォークで空振りを多く取る投手だ。

 いきなり投じてきた意表をつく緩いカーブに対して、入夏は動かせなかった。

 違和感を感じたのは投球だけではない。

 セカンドとショートが通常に比べてやや一塁側へと寄っている。

 入夏にとって得意の引っ張り打ちを警戒しているような形だ。


 2球目、早く変化したフォークを余裕をもって見送る。

 1ボール1ストライクとなって続く3球目、バッテリーが選択したのはまたもカーブ。

 インコースのボールゾーンから入ってきた球を打つも、打球は一塁線を切れてファールに。


 何と形容すればいいのか。

 嫌らしいというか、ねちっこさを感じさせるような配球を組み立てられている気配を入夏は感じていた。

 変化球でかわす心づもりなのだろうか。


 玉城がサインに頷いて投球モーションへと入る。

 アウトローいっぱい、149km/hのストレート。

 全く手を出せないまま、入夏の第一打席は見逃し三振に倒れた。


 




 





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